第1話 ― Fノートの出会い

 午前9時ちょうど。私立港星芸術総合大学、東棟4階の大講義室。


 朝倉凛太郎は、授業開始のチャイムが鳴る10分も前から、すでに席に着いていた。選んだのは3列目のちょうど中央。新しい環境にまだ馴染めず、かといって隅に逃げるのも違う気がして、半ば無意識に真ん中を選んでしまうのが彼の癖だった。


 手元の五線譜ノートには、まだ音符は一つもない。凛太郎は芯を尖らせた0.3ミリのシャープペンを握り、余白に父の形見であるギター、Yamaha FG800のヘッド部分を細い線でスケッチしていた。ペグの金属的な光沢、YAMAHAのロゴ。カリカリと紙を掻く微かな音だけが、彼の世界のすべてだった。


 そのとき、教室前方のスクリーンが、モーター音を立ててゆっくりと降りてきた。


 ほとんどの学生が気にも留めないその機械音のピッチが、終端でごく僅かに揺らぐのを、凛太郎の耳は正確に捉えていた。ミの音から、ファの音へ。まるで世界の基音が半音だけずれたような、奇妙な感覚だった。


 ――始業のチャイムが鳴って、3秒後。


 教室の後方ドアが開き、高く、それでいて軽やかなヒールの音が響いた。コツ、コツ、と床を打つリズムは迷いがなく、まっすぐに凛太郎のいる列へと向かってくる。


「遅刻、セーフ?」


 悪戯っぽく笑う声がして、隣の空席にその主が腰を下ろした。ふわりと、髪の甘い香りが鼻をかすめる。視線を上げられずにいると、視界の端で、鮮やかな赤いカメラストラップが揺れた。艶のある黒髪が、肩のラインでさらりと流れる。


 彼女はMoleskineの黒いハードカバーノートを開いたが、ペンを走らせる気配はない。代わりに、その視線は凛太郎の手元に注がれていた。


「……線が、整いすぎ」


 吐息まじりの声が、すぐ耳元で囁く。


「まっすぐなものって、案外簡単に、割れちゃうんだよ」


 唐突な言葉の意味が掴めず、凛太郎はただ苦笑いを返すしかない。何を言われているのだろう。けれど、否定も肯定もできず、耳たぶだけがじわりと熱くなった。


 次の瞬間、彼女は「あ」と小さく声を漏らし、自身のバッグから何かを取り出した。それは、凛太郎が使っている0.3ミリの芯とは正反対の、極太の黒い水性ペンだった。


「ちょっと貸して?」


 その言葉は疑問形でありながら、返事を待ってはいなかった。凛太郎が戸惑うより先に、彼女の細く白い指が伸びてきて、彼のノートをくるりと半回転させる。


 シュッ――。


 ほとんど音を立てずに、けれど抵抗を一切許さない速度で、ペンのフェルト芯が紙の上を滑った。アルコール系のインクの匂いが、ツンと鼻腔を刺激する。


 ノートの中央、凛太郎が丹念に描いたギターのスケッチのすぐ下に、あまりにも豪快な一筆書きの「F」の文字が刻まれていた。続けて、その下に数字の羅列が書き添えられる。電話番号らしかった。


 「カチン」と小気味よい音を立ててキャップが閉められる。


「これなら、割れにくい太さでしょ?」


 ノートを返しながら、彼女は首を約8°、小さく傾けて微笑んだ。黒々としたインクの軌跡と、自分の描いた繊細なスケッチとの、あまりに鮮烈な対比。凛太郎は呆然とそれを見つめるしかなかった。心臓が、予測不能なビートを刻んでドクンと跳ねる。


 やがて授業が始まった。初老の講師が、この講義の概要について低い声で語り始める。その声のトーンが、不思議とギターのFコードの響きに似て、教室の空気を低く木霊させた。


 隣の彼女は、スクリーンを見上げたまま、指先で器用にペンを回転させている。その横顔を盗み見ると、不意に視線が絡んだ。


 凛太郎の無言の問い――このFって、一体何なんですか?――を正確に読み取ったように、彼女は唇を少しだけ彼の方に寄せた。


「Fortissimo(フォルテッシモ)の F だよ」


 囁き声だけを残して、彼女は再びすっと前を向いた。


 あっという間に50分が過ぎ、終業のチャイムが鳴る。その音と完全に同期して、彼女は立ち上がった。ノートPCだけを掴むと、凛太郎を一瞥し、「またね、新入生くん」と片目を瞑る。


 コツ、コツ、コツ。ヒールの音が遠ざかっていく。そのピッチが、まるでクロマティック(半音階)で上昇していくように、凛太郎の耳には聞こえた。F、F♯、G……。


 一人残された凛太郎は、目の前のページを指先でそっと撫でた。そして、黒いFの隣に、震えるペンで書き足す。


 F = ???


 シーンと静まり返った教室に、蛍光灯のハム音が、まるでベースの持続音のように響いている。彼の心臓は、まだ落ち着かないまま、正確な4分の4拍子で跳ね続けていた。


 黒々と跳ねた F の字が、教室の静寂をビリつかせ、凛太郎の鼓膜にまだ鳴らない和音を予感させていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る