第26話 湯あみ

 見た目のいかにも肉を焼きましたという生々しさに反して、鹿肉を焼いた料理の味は想像していたほどは食べにくくはない。

「これも美味しいです」

 信行が気を遣って切り分けてくれたことが更に美味しく感じさせている。

 駒姫はお世辞ではないことを示すためにもう1つ鹿肉を肉叉で突き刺して食べた。

 ちょっと脂っぽい気もするがこれ以上口にするのが嫌になるというほどではない。

 慣れてきたのか2つ目は最初のものよりもいっそう美味しく食べることができた。

 ふと信行の方を見ると赤い液体を飲んでいる。

 その視線に気がついた信行は卓の上にグラスを置いた。

「鹿肉を焼いたものは美味いが口の中が少し脂っぽくなるだろう。葡萄酒はそれを洗い流してさっぱりとしてくれる。こんな色なのは赤い葡萄からできているからだ」

「そうなのですね」

 駒姫は自分の前のグラスに手を伸ばし持ち上げて匂いをかいでみる。

 確かに果物の爽やかな香りがした。

 グラスに唇をつけて少し飲んでみる。

 想像していた甘さではなく苦みと渋みが口の中に広がって駒姫は目をぱちぱちとさせた。

「甘くはないんですね。でも、信行様の言うとおり少しさっぱりとしました」

 また肉片を食べもぐもぐすると葡萄酒を飲む。

「こうやって交互に食べて飲むんですね。分かってきました。これは甘くない方がいいです」

 嬉しそうに発見したことを報告する姿に信行は思わず笑ってしまった。

「気を付けないと飲み過ぎてひっくり返るぞ」

 駒姫ははっとした表情になると首を竦める。

「すいません。そんな危ないものなのですね」

 グラスを奥の方に押しやった。

「ちなみに、この葡萄酒と鹿肉のお料理は南蛮の言葉でなんというのですか?」

 信行が答えてやれば、ふむふむと駒姫は感心する。

 その流れでパンの説明もした。

 ちなみに後世の日本で小麦粉をこねて焼いたものをパンと呼ぶようになったのはポルトガル語のパウンが由来と言われている。

「彼らも米を食べなくはないが、普段はこれを食べるそうだ。ああ、直接手に取って千切って食べればいい」

 駒姫が丸いパンを食べると香ばしさが口の中に広がった。

「お米はもちもちしていますけど、このパンというのは食感が軽いのですね。お饅頭とも違う感じでしょうか。お肉の後に食べると合う気がします」

 どこからどう見ても仲の良い新婚夫婦というように周囲の目に映る。

 その様子を幾人かの招待客は微笑ましく見ていた。

 おトメはまるで我が子の婚礼のように喜んでいるし、軍兵衛は責任を果たせたことでほっとしている。

 そして他の招待客は概ね酔っ払っていた。

 こうなるとほとんどただの宴席と変わらない。

 ただ、これは信行にとっては都合が良かった。

 宴席がお開きになるときに下手に意識が残っていて夜のことを揶揄われてはたまらない。

 カステラ、水菓子とお茶が出て新郎新婦が食べ終わる頃には広間には正体をなくした者が複数出ていた。

 婚礼を祝う宴に参加してくれた礼を述べると信行は駒姫を連れて退出する。

 廊下を進んだところで女中が駒姫を引き取った。

 日中しゃーしゃーと鳴いていた賑やかな熊蝉の声は蜩のものに置きかわっている。

 どんどん奥へと進み、先ほどとは別の部屋でドレスを脱がされた。

 薄手の小袖姿で少し休んでから湯殿に案内される。

 この時代には湯船にお湯を張る形式の風呂はほとんど存在せず、たらいで行水する程度が一般的であった。

 一方で温泉というものは各地にあり、桔梗屋の風呂はそれに倣ったものである。

 駒姫は手足を洗ってから檜の香る浴槽に浸かると幸せそうに手足を伸ばした。

 緊張することも多かったが信行との話も弾んだし今日は楽しかったなと思っている。

 教えてもらった言葉を思い出しながら記憶を新たにした。

 雲丹はちょっと苦手だったけれども、それ以外のものは全部美味しかったなあと口元が緩む。

 流暢に外国の言葉を操る信行の姿にはほれぼれしたし、情熱的な言葉の数々は今でも体の奥の方を熱くした。

 翻訳してくれた蛇の姿の子ともいずれ親しくなれるかしら?

 そんなことをつらつらと考えているうちに長湯になる。

 風呂から出ると待ち構えていた女中が別の湯帷子に着替えさせた。

 肌の火照りが冷めるのを待つために麦湯を飲みながら扇子であおぎ涼を取る。

 それから用意されていた白い絹の襦袢に着替えて小袖を羽織ると、女中の案内で部屋を出て渡り廊下を進んだ。

 連れていかれた離れは町の喧騒から遠く静かである。

 離れ唯一の座敷の中には蚊帳が吊ってあり、その中には褥が敷いてあるのが行灯の明かりで見てとれた。

「こちらでお待ちください」

「はい。分かりました」

 案内してきた女中は駒姫が蚊帳の中に入るのを見届けると部屋を出ていく。

 夫婦になると寝所を共にするということまではおトメから聞いていた。

 そのお陰で女中に誰を待つのかという頓珍漢な質問はせずにすんでいる。

 駒姫は褥の脇に座って扇子を手でもてあそびながら夫がやってくるのを待った。

 行燈が揺れるのにつれて、駒姫の影がゆらゆらと揺れ、外からは遠くの蛙の合唱が聞こえてくる。

 その声を聞きながら駒姫はぼんやりと物思いに耽った。

 同じ部屋に寝るのはいいのだけど、褥が1つだとは思わなかったわ。旦那様を蹴飛ばしたりしないかしら?

 駒姫にはあまり寝相が良くないという自覚がある。

 和気の社の長屋の部屋は狭かったこともあるが、壁に手足がぶつかって目が覚めることもあった。

 こういうことになるのなら、お行儀よく寝る練習をしておけば良かったと思う。

 心配する内容がこういうときの一般的な花嫁とはかなりずれていた。

 まあ、お床入りということを全くちっとも知らないのである。

 寝入る前に一言謝っておけばいいと考えると駒姫は心配事は忘れることにした。

 なにしろ堺に来てからというもの楽しいことばかりである。

 寝所を共にすることについても不快なことは起きないだろうと何の根拠もなく信じることにした。

 ただ、いつもなら就寝前にやってくるおツゲたちの姿がないことはちょっと淋しく感じている。

 今日は忙しいから会いに行けないかもと事前に聞いているので、何かあったのかしらと心配することはしていない。

 程なく渡り廊下の床が微かに軋む音が聞こえてきた。

 その音が大きくなり手燭を持った信行が障子の陰から姿を現す。

 風呂を使ったのか髪の毛は後ろで束ねておらずそのまま垂らしていた。

 何か思い詰めたような顔をしている。

 蚊帳の方を見て行灯の明かりを認めると手元の火を吹き消した。

 部屋の隅に火を消した手燭を置くと、一度母屋の方に鋭い視線を飛ばしてから、信行は蚊帳の下をくぐり抜けて中へと入ってくる。

 駒姫と向かい合うように正座をすると背を伸ばした。

 短い間に忙しく表情を変えてからひたと新妻に向けて目を据える。

「先に言っておく。私はそなたと夫婦の営みをするつもりはない」

 突然の宣言に駒姫は目を見開いた。

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