第10話 驚愕

 再び船上の客となった駒姫は本日は船室で大人しくしている。

 軍兵衛に厳しく小言を言われ、昨日の振る舞いは少し浮かれているように見えたかと反省したのだった。

 船室の窓からも視界は狭まるにしても外の景色は見ることができる。

 右手後方に見える淡路島の移りゆく光景を楽しみながらゆったりと過ごした。

 大した距離を移動してきたわけではないが実際の距離以上に南国に来た気がしている。

 水面に反射するお天道様の煌めきのせいなのか、はたまた目に入る植生の違いのせいなのか。

 そして、堺が近づいてきたためか、すれ違う船の数が増えてくる。

 駒姫が乗っているのと似たような船もあるが、中には船尾が高く上がった南蛮船の姿もあった。

 出港して一時もしたときだろうか、手代が船室を訪れて間もなく入港することを告げる。

 誘われて船室の外に出た。

 眩しさに目が慣れると駒姫は息を飲む。

 この時代において世界的に見ても類を見ないほどに栄えている町の威容が一望できた。

 西向きに開けている港には何艘もの船が停泊している。

 その奥には高楼大廈が立ち並んでいた。

 3階建て以上の家屋も珍しくない。

 中にはてっぺんに十字を象ったものを飾った見慣れぬ建物もあり、お寺の鐘とは異なる高い音を奏でているのが聞こえてくる。

 港に近づくにつれて建物だけでなく人々の様子も目に入るようになってきた。

 多くは黒髪だが、明らか紅毛金髪と見える人も混じっている。

 駒姫の乗った船が帆を下ろすと曳船が2艘寄ってきて舫い綱を投げた。

 2艘に引かれてゆっくりと船が桟橋に接岸する。

 手代は駒姫に輿に乗るようにと促した。

 周囲の船の上で荷役を行っている男たちの視線が駒姫へと集まる。

 桔梗屋の者や堺の者であれば事情が分かっていて遠慮するだろうが、他の港の者にとっては単に若く魅力的な女がいるというだけであった。

 最近、駿府からの船に乗る水主の中には、うちの殿様が次の天下人だと鼻息の荒い者もいる。

 その連中だろうか、仕事の手を止めてじろじろと駒姫を凝視する者もいた。

 手代は輿を運ぶ者たちに人垣を作らせると早く乗るようにと重ねて促し、やや強い調子の言葉に駒姫は急いで輿に乗り込む。

 手代は輿の屋形の帷を下ろした。

「少しの間ご辛抱ください」

 周囲の視線から隠すことができてほっとする。

 駒姫の純真無垢な様子がある種の男たちの劣情を刺激することに思い至らなかったことを反省した。

 輿を運んでいる男たちも不躾な視線を向けていた連中と同じ水主であるが、こちらは行儀良くしていたため大丈夫だろうと軽く考えていた面はある。

 水主たちの噂話が隆軒の耳に入ったときのことを考えると憂鬱になった。

 その気持ちを振り払うように輿を出すように命じる。

 男たちは船縁から桟橋に渡された板に足を踏み出した。

 輿が斜めにならないように先頭の者から順にながえを掲げて高さを調節する。

 桟橋に全員が降りきるといつもと異なり肩に担いだ。

 これは駒姫から町の様子がよく見えるようにとの配慮である。

 手代自身は急な板にまごつくおトメに手を貸してやって桟橋に降りた。

 桔梗の紋を背中に染めた若い衆が先導しながら輿は港を進んでいく。

 ちなみに輿の運び手は無地の藍染めの布衣を着ていた。

 これは形式上坂下家の雇い人という形を示すためである。

 実態としては宮尾家の丸抱えなのだが外見を整えるということも必要であった。

 輿の上では駒姫が左右を見て目を見張るのに忙しい。

 見るもの、聞くもの全てが新鮮で刺激的だった。

 兵庫津の港と町をなんと栄えているのだろうと思っていたが、堺の殷賑ぶりはその比ではない。

 実際のところ、駒姫の目の前に広がるのは日の本で最も栄えている町だった。

 山名と細川両家の争いにより荒廃してからというもの、京の都よりも繁栄している。

 既に80年ほど前には「堺に貧乏神が下り京に福の神が入った」という噂が流れたことがあった。

 そんな噂を流して溜飲を下げるしかないほど堺が力をつけていたという証左である。

 もちろん、京に都には天子様や将軍様がおり、その政治的な価値は計り知れない。

 ただ、そのために争乱の的ともなったし、先の兵乱で半分近くが焼失するという被害も発生していた。

 堺はその点、純粋に商いのための町であり自由闊達な空気に満ちている。

 また、町の中にいる限りはという条件はあるが、平和で安全という意味ではこの町以上の場所はない。

 海に面していない側には堀を巡らせ櫓や望楼を配置して外敵に備え、街中には区画ごとに木戸があり、雇い入れた者が治安維持も行っていた。

 そのため、戦乱の世にあって人々の顔は明るく活気に満ちている。

 町の人々の醸し出す空気に当てられて駒姫も心が弾んだ。

 帷が下りているのをいいことに姿を現して膝の上で寛いでいたおツゲは体を捻ると手を伸ばして駒姫の口を閉じてやる。

 驚きのあまり半口を開けっ放しだった。

 駒姫は帷が下りていたことにほっとすると共に恥ずかしさで赤くなる。

 おツゲは前に向き直った。

「まあ、でも、驚くよね。私も長く生きているけど、こんなところがあるなんて知らなかったもの。あ、小間物屋もある」

 おツゲが視線を向けた先の店頭には櫛や簪が並べられ2人づれの若い娘が品定めをしている。

 その2人の着ているものも立派なものであり、この町中では駒姫の小袖もずば抜けて豪華というわけではないという印象になった。

 少し先の軒先で立ち話をしていた大柄な男が輿を見て横の男性に話しかけるのが見える。

 大柄な赤毛の男は駒姫の乗る輿について指を指していた。

 黒髪だが他の人とは衣装が異なる唐人らしき男は近くの店員を捕まえるとやはり輿を指差す。

 そうしている間に輿は男たちにどんどん近づいていった。

 すれ違う少し前に唐人は赤毛の男に叫ぶ。

「ぷりんせーさ!」

 それを聞いた赤毛の男は目を見開くと頭に乗せた帽子を取り、さっと膝下を払うような動作をした。

 駒姫はひそひそとおツゲに話しかける。

「あれはどういう意味かしらね?」

「さあ、蠅でも払っていたんじゃない?」

「凄く背が大きくて体も大きかったわ」

「まるで赤鬼みたい?」

「でも、角も生えていないし金棒も持ってなかった」

 そんな話をしている間にも輿は進んでやがて1軒の大きな建物の前で地面に降ろされる。

 手代が声をかけた。

「到着いたしました。帷を上げてもよろしいですか?」

 既におツゲは姿を消しており駒姫はさっと自分で帷を上げる。

 揃えてあった履物に足を入れ屋形からでた。

 道行く人からほうという声が上がる。

 純朴さの中に気品を同居させるという奇跡がそこにあった。

 周囲の視線が集まるのを意識しないようにすると駒姫は体を起こして目の前の建物を見上げる。

 数えれば4つも階があった。

 通りに面した格子は赤く塗られており、瓦も赤みを帯びている。 

 大膳が熱心に作り上げた二峰城よりも豪壮な気がした。

 駒姫は感嘆の声を抑えるのに苦労する。

 手代は咳払いをすると中に入るように促した。

 暖簾を上げて店の者が出迎える。

「ようこそ紅屋へお越しやす」

 きちんと長着を着付けた貫禄のある女性が頭を下げた。

 どうも建物の外観の色は屋号に因んだものと知れる。

 建物の中に招き入れられ人々の視線の数が減ったことに駒姫はほっとした。

 昨夜よりももっと豪華な部屋に案内される。

 奥まった座敷は清らかで表の猥雑さが嘘のように静かであり、広縁から見える庭の様子も野趣が溢れていた。

 これはこの時代の流行りである街中に野を再現する試みに倣ったものだろう。

「暑いですね。まずはこちらをどうぞ」

 ギヤマン製の小さな器に琥珀色の液体が入ったものが供せられた。

 手に持ってみると器はひんやりと冷たい。

 口に含むと梅の爽やかな香りと酸味、そしてまろやかな甘みが広がり、駒姫はまた目を大きく見開くことになった。

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