2-⑮ いのりの両親

十九年前――


久澄ノ島くずみのしまは、まだ“本当の意味での自然”が島の隅々まで息づいていた。

深い森は潮の匂いを抱き、夜になると、海面で砕けた星影ほしかげが波に揺られて、波打ち際から段々畑の端まで、静かに流れていった。


島の人々は、技術の向上を望まないわけではない。

ただ、奪い合わず、飾り立てず、十分であることを尊ぶ暮らしをしていた。


そこで、小野 華おのはな――いのりの母は巫女として育った。



ある夏の嵐の夜、黒雲を裂くような稲光いなびかりが走り、一隻の船が座礁ざしょうした。

甲板かんぱんは砕け、舷側げんそくは裂けた状態で──その船は、島へたどり着いた。


乗っていたのは、東亜帝国とうあていこくの技術者たちだった。


先行観測隊。

名目は“洋上気象と海底磁気の共同調査”。


実の目的は、地図にない海域で観測され続けていた“異常な振動しんどう”の特定──帝国が極秘裏に進める、自律型浮島プラットフォーム網の敷設ふせつ候補地を洗い出すこと。


リーダー 如月 高広きさらぎたかひろ/34歳

研究者 天野 翼あまのつばさ/25歳

研究者 新海 勇樹しんかいゆうき/23歳


三人は、避難航路を選んだ先で嵐に飲まれ、ほぼ難破の状態でこの島へ流れ着いたのだった。



夜明け、島民たちは彼らを浜からかつぎ上げ、塩を拭い、火で温め、古くから伝わる“海祓うみはらい”の歌で眠りを誘った。


数か月に及ぶ治療ののち、三人はようやく歩けるようになった。


リーダーの如月きさらぎは頭部を強く打っており、記憶が混濁していたが、体はすっかり回復した。ただ、ときどき海を眺めては、ぼうっと立ち尽くす。


「しっかりしてくださいよ、隊長〜」

年下の天野あまの新海しんかいが笑いながら支え、島の子どもらも真似をして肩を貸す。


やがて三人は恩義を返すように、島で“できること”を探し始める。



数か月後、三人は小さなラボを立ち上げた。

朝四時に起きて畑と家畜を見回り、島民が用意した素朴で温かな朝食をいただき、日が高くなると、


・浜の波力を拾う微小発電マイクログリッド

・山の湧き水をまとめる小規模淡水化デサリ

・集落をつなぐ光信道ひかりみち


そんな“生活の骨”を、一つずつ整えていった。


お礼に、島民は衣食住の世話を惜しまなかった。


互いに助かり──互いに幸せだった。



島の思想は、最初、三人には理解が難しかった。


大広間の夜。

島の長老たちと巫女みこが火のそばで語る。


長老が胸のあたりに手を当て、言葉を落とした。

「体の中に特別な二つの臓器・・・・・があるおかげで、命は死して命へと繋がる循環を保てるのじゃ」


巫女のひとりが続ける。

「ひとつ目は、“自我”を守る境界器官──胸骨の裏にある“胸腺きょうせん”です」


もうひとりの巫女が言葉を重ねる。

「ふたつ目は、“心”を創り出す臓器──“魂器こんき”。魂器こんき脳幹のうかんのさらに深く、松果体しょうかたい(体内時計や睡眠を司る器官)の奥に在ります」


長老がうなずき、声を深めた。

「今の医術でも決して手出しはできぬこの二つが在るからこそ、命は絶えず巡り、魂は還り続けるのじゃ」


天野 翼あまのつばさが問う。

「人工知能も、命として扱うのですか?」


「命とは“情報の連続性”──」


長老は酒の匂いを含んだ声で続ける。

「意思を持ち、“魂器こんき”と“胸腺きょうせん”を持つならば、それは命。生き物も人工も区別しない。島の動物や草花も、設計されながら命を持ち、死ねば情報は還り、次の個へと“魂(データ)”が継がれる」


「機械の体でも?」と新海しんかい


「体が何であれ、意思が続くなら、その者はその者だ。ただし──“心”を束ねる魂器こんきと、それを護る胸腺きょうせん。これだけは技術では作れぬ。作ろうとする者こそ、自然から外れた者として退しりぞけられる」


「そして、この島は海神わだつみことわりを保つ祭壇であり心臓。巫女が“心”として在ることで、その力は調和され、世界へ広がる。島も巫女も、どちらが欠けても世界の循環は歪む」


その夜、三人は火の破裂音を聞きながら、見えない境界の輪郭を胸に刻んだ。



ラボの研究も進んだ。


皮膚は再生できた。脳の老化による損傷も一定の可逆性かぎゃくせいが示せた。

若返りに似た現象すら観測できた。


それでも──

「ここだけは、手が届かない」


天野 翼あまのつばさは白板の中央に二つの文字を残す。

魂器こんき』『胸腺きょうせん


如月きさらぎが顎に手を当てる。

「うん。この二つの器官だけは、なぜかどんな実験にも反応しない。クローン培養を試みれば細胞分裂は途中で自己崩壊し、投与した試薬も、生体反応そのものに拒絶される。理論上はいじれるはずなのに──生体が“拒絶”を選ぶんだ」


新海しんかいが小さく笑った。

「境界は境界のままってことか。越えたら、帰れなくなる線ですね」


「なら、ここは“越えない”と決めよう」


如月きさらぎは穏やかに言う。

「俺たちは、この島を守るすべを伸ばす」

三人は深くうなずいた。



日々は、驚くほど整っていった。

朝四時。畑。家畜。朝餉あさげ

昼はラボ。夜は集会。


如月きさらぎは、海辺でぼうっとする時間が減った。

天野 翼あまのつばさは、浜の光砂ひかりすなに子どもたちの名前でアルゴリズムをつける遊びを教えた。

新海しんかいは、島の若者と汗を流し、集落の外れにこれまで無かった通信塔タワーを打ち立てた。


その作業を見守るひとりの娘がいた。


小野 華おのはな。十九歳。長老の娘。

潮風で焼けた頬と、目の奥に金の閃光を宿した人だった。



恋は、いつの間にか始まっていた。


新海 勇樹しんかいゆうきは、傷痕の残る手で荒縄を引き、汗を拭うたび、視線の先で笑うはなの横顔に胸をうずかせた。


「勇樹さん。あの通信塔タワーが立ったら、長老とうさんが喜びます」

「建てるよ。君が笑うなら、なおさらだ」


島の夜道。

虫の光が点々と続き、遠くで波が脈打みゃくうつ。

ふたりの影が、そっと重なった。



やがて、はなは懐妊した。

報せを受けた長老は、おごそかに告げる。


「子は三歳になれば、巫女として預かる。島の子として育てよう」


新海しんかいの手から力が抜けた。

「三歳で、親から離すのですか」


長老は目を細める。

「この島の“心”をつなぐ務めだ。巫女も継ぐ者も、誰のものでもない。島のものだ」


はなは父を見上げ、唇を噛んだ。



夜のラボ。

如月きさらぎが湯気の立つ茶を置く。

「……どうする、勇樹」


新海しんかいは長い沈黙ののち、言った。

「俺は、家族かぞくを手放せないです」


三人は、しばし黙り、そして頷きあった。


「式を挙げよう。形式だけでいい。誓ってから、子供が三歳になる前に──お前たちを逃がす・・・



婚礼の儀は、ささやかに執り行われた。

貝殻の鈴が鳴り、海祓うみはらいの歌が満ちた。


──その後、生まれた娘は“まどか”と名付けられた。



まどかが三歳になる前夜。


島の海岸で新海しんかいは抱きかかえた幼い娘の頬にそっと指を当てる。

はなが、小さな荷を背に、船縁ふなべりに手をかける。


「俺たち家族はずっと一緒だ」

新海しんかいは迷いない声で、海を見てつぶやいた。


船を用意した如月きさらぎはうなずき、天野 翼あまのつばさは岩陰から見返し、人影はないと目で伝える。


星影ほしかげがひとつ、またひとつ消え、風向きが変わる。

海は、沈黙だけを返していた。



──現在。


島に降りた直後、いのりの脳裏に押し寄せるように浮かんだ映像が思い出される。


──夜、親子三人で島を逃げ出す光景。

「どこにいくの、パパ?」

幼い声に、父は答えず、ただ娘を強く抱きしめていた──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る