〔2〕
館山市は、房総半島南部最大の都市である。
この街で遼は、必要な画材をいつも決まった店で購入していた。
駅から少し離れた場所にある個人経営の店は、小さいながらも品揃えに不足はなく近くに中学・高校があるため数多くの学生が利用している。
大貫は後で迎えに来ると言って遼を店の前に降ろし、自らは大手のディスカウントストアに酒を仕入れに行った。財政に不自由は無いはずだが、会社を興したばかりの時の苦労が身に付いているのか無駄遣いが嫌いなようだ。
しかし、いざという時には全てを投げ出す懐の深さがある人間だと、遼の両親も田村も認めており、遼もその叔父を尊敬していた。
ただ大貫も遼の父も大酒飲みで、そこに田村が加わると呆れる量のアルコールを消費するので、遼もこればかりは尊敬出来なかった。夜通し続く宴会に母は呆れ、いつも先に寝てしまうのだった。
必要な物を買い揃えた遼は、時間潰しに狭い店内を歩き回りながら画材を物色していた。
しばらくして自動ドアが開く音がしたため、大貫が迎えに来たかと入り口に目を向ける。
すると、美術部先輩の来栖弘海が店内に入って来るのが見えた。どうやら来栖も、この店を利用しているらしい。
出来れば顔を合わせたくない。
遼は見つからないように棚の陰に隠れ、近づいてきた来栖をやり過ごしてから、そっと店の外に出た。
大通りに出て大貫が車を停めやすい所で待とうと交差点に向かって歩き出したとき、その肩を誰かが強く掴んで引き戻した。
「やあ、秋本。こんな所で会えるとは思わなかったな……。ちょっと付き合えよ、話があるんだ」
耳元の近くで掛かった来栖の声に、遼の背筋が凍り付く。
「じきに叔父さんが迎えに来るんです、話なら学園でしてください」
「冷たいこと、言うなよ。すぐ済むからさ」
有無を言わせず来栖は、遼を画材店横の資材が積み上げられた細い路地に連れ込んだ。
「何ですか? 話って」
来栖に会うたび、邪な思念が黒い霞の形で見えていた.。学園内では、それほど気にならなかったのだが何故だろう……今は酷く身体が重い。
努めて強気に振る舞おうとしても、気力が萎えてゆくのを感じた。
「前から頼んでるだろう? 卒業制作に、おまえをモデルにしたブロンズ像を作りたいんだ。卒業したらもう二度と頼めないからな。引き受けてくれよ?」
「嫌です」
「何故、嫌なんだ?」
来栖を取り巻く黒い霞と何時間も対峙するのは絶対に嫌だ。気持ちが悪い、我慢できない。
そう、はっきりと言ってしまいたかった。言えるはずだった。
ところが言葉を発することが出来ない。霞が不気味な黒い糸となって絡みつき、身体と言葉の自由を奪っていた。
「変だな……いつもは、もっと近付き難い感じがするのに。ああそうか、篠宮が一緒じゃ無いんだな?」
どうやら来栖も、普段と違う遼の様子に気が付いたらしい。口元を歪めるようにして笑った。
「アイツが近くにいないなら好都合だ。いまのうちに、よく観察させてもらおうか」
来栖は遼の肩をコンクリートの壁に押しつけ、その造形を記録するかのように両手で顔を撫でまわした。額から頬骨、眼窩の窪みから鼻骨へと執拗に指でなぞられ鳥肌が立つ。
「……っ! やめろ……っ!」
右手の親指が唇を割り、顎のラインから喉元を伝う左手が、シャツのボタンを外した。
「秋本……俺は、おまえの顔と骨格が好きなんだ。造ってみたいんだよ」
来栖の息が、髪に掛かる。
優樹がいなければ、抵抗も出来ないのか? 意地を張っても、意味が無いのか?
遼は来栖を睨み付け、渾身の力を振り絞って突き飛ばした。
途端、全身を縛り付けていた黒い糸が千切れ霧散する。
驚いた顔で来栖は二、三歩退いたが、これくらいで引き下がる男ではなかった。
「痛ってえなぁ……そう恐い顔するなよ? 悪かった、謝るからさ、デッサンだけ取らせてくれよ。一時間……嫌なら三十分でも……っ……うわっ、なんだよっ!」
悲鳴と共に、遼の視界から来栖が消えた。
代わりに目の前に立っていたのは、がっしりとした大貫の巨体だ。
「遼、こいつはおまえの知り合いか?」
「……美術部の、先輩です」
大貫は「ふん」と鼻を鳴らし、襟首を掴んで身体が浮き上がるほど吊り上げた来栖を突き放した。
「では殴るのを堪えるとしよう。二度と遼に近づくな」
来栖は喉をさすりながら、逃げるようにその場を立ち去った。
「大丈夫か?」
「……はい」
手を貸そうとした大貫を断り、制服を正してから遼は立ち上がった。
結果として大貫に助けられたが、優樹がいなくても来栖を拒否できたことが遼に少しの自信を与えた。少しずつでも、強くなれる気がした。
しかし、新たな疑問が遼の中に生まれる。
来栖を取り巻いていた、黒い邪念。
これまで、あれほど明瞭な形を見たことがなかった。
よくよく思い返せば、遼が他人の不快な思念を強く感じる時、決まって学園から遠く離れた場所にいた。
それは優樹の存在が、影響しているのでは無いだろうか?
学園地下倉庫で見た、青い炎……。
神職にあった家系が優樹を守り、その恩恵で遼に見える不快な邪念が弱められているとしたら……?
江里香の事件は何かの兆候かもしれないと、遼は思った。
正体の見えない不穏な予感に、体毛が逆立つ。
優樹の中に、遼の知らない何かがある気がした。おそらく自身も、傍観者ではいられなくなる。
だが優樹の内面に立ち入る方法が、解らなかった。
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