私と青年と老人と。
辰 暁(シン アキラ)
《前編》違和感
いつものように仕事を終え、寝不足でくたびれた私は、馴染みの喫茶店へと足を向けた。昨夜の雨の余韻がまだ街に残っているのか、「仕事の隠れ家」と書かれた看板が濡れた光を受け、ひっそりとした静けさの中で存在感を放っている。淡いクリーム色の外壁は長年の風雨にさらされ、角は丸みを帯び、木製のドアには使い込まれた跡が刻まれていた。その佇まいは静かな路地に馴染み、古びた趣の中に確かな気品を漂わせている。この場所を「隠れ家」と呼ぶに相応しいと、改めて思う。
扉を押し開けると、控えめなベルの音が鳴り、芳醇な香りがふわりと鼻をくすぐった。焙煎されたコーヒー豆の深い苦みと、ほのかに混じる甘さが店内に満ち、どこか懐かしさを伴いながら胸に広がる。湿度を帯びた木の床がその香りをさらに引き立てており、計算し尽くした調和に、深く満足を覚える。
店内には穏やかな空気が流れ、カウンターの向こうでは若い青年が丁寧にドリップをしている。その指先は愛しい人と接するかのように滑らかに動き、湯気が立ち上るたびに、柔らかな温もりが広がっていった。
その様子を目で追いながら、視線を奥へ移すと、一人の男がテーブル席に腰掛け、新聞を読んでいるのが見えた。
男は深く黒い帽子をかぶっており、顔のほとんどは広げた新聞に覆われている。表情どころか輪郭すら定かではないが、隙間からわずかに覗く銀色の髪がなびいており、椅子の脇には上品な仕上げが施されたシックな杖が立てかけられていることから、男が老人であることが伺える。また、三つ揃えのスーツは深い紺色で、その仕立ては申し分なく、姿勢正しく座っている体に、ぴたりと沿っている。新聞の隙間から見え隠れする胸ポケットは確かに膨らんでおり、繊細な刺繍の入った白いハンカチが頭を出していた。
完璧に整えられたその姿に対し、意外にも新聞をめくる指先だけが妙に粗雑さが感じられ、その動作にわずかな乱れが滲んでいる。
ふと、老人の足元へ目を落とすと、まっさらな黒の革靴が、床板のわずかな光を受けて艶やかに輝いていた。なんの汚れもない彼の靴に、どこか引っ掛かりを覚えた私は視線を徐々に上げていく。すると、老人のスーツもベストも、シャツの折り目までもが完璧に整えられており、皺ひとつないことに気づく。彼はまるでマネキンのようにその全てを新品の衣装で包んでいるのである。
──じわりと積もる違和感が、少しずつ形を持ち始めていく。
一方、店の片隅では、古びたラジオが低く穏やかな語りを流していた。音楽ではなく、淡々とした声——昔ながらの喫茶店らしい趣である。流れるのは時折挟まれるニュースや、取り止めもない雑談。その語りは店内の空気に溶け込み、控えめでありながらも、確かに存在を主張している。実のところ、私はこの静かな語りが店の雰囲気を形作る要素になっているのを、とても気に入っていた。老人は時折、その声に耳を傾けるように片眉を上げる。聞き流しているようで、意味のある沈黙のようでもある。
老人の姿を気に留めながら、私は入り口に近いカウンター席へそっと腰を下ろし、カバンを隣の席に置いた。椅子の下には収納スペースがあるが、そこに収めると席を立つ際に手間がかかる。それが煩わしく、横に置くのがいつの間にか習慣になっていた。
他の客の邪魔になると思う人もいるだろうが、直接的に危害を加えているわけではないのだから、これくらいは大目に見てもらいたいものだ。
「お客様、珍しいですね。いつもは奥の席にお座りになるのに。」
私が着席するのを見届けた青年が、カウンター越しに軽く首を傾げながら、穏やかな声で問いかける。普段と違う選択に、少し戸惑うような表情を浮かべていた。
「いやね。昨夜の雨で靴がすっかり汚れてしまってね。店内を汚してしまうのも気が引けるので、今日は入り口に近い席に座ろうかと思いまして。そういえば、店の看板が妙に輝いて見えましたが、昨夜の雨の影響ですか。」
「いえ、今朝、開店前に店の掃除をした際に、看板も磨いたのです。気づいてくださる方がいるというのは嬉しいものですね。」
青年は微笑みながら言葉を添え、手元のカップを整えながら、ふと思い出したかのように問いかける。
「さて、お客様、ご注文は“いつもの”でよろしいでしょうか。」
「ああいや、今日はいつもとは違う気分でね。昨夜妻と食事に出掛けた時に、私は毎回同じものばかり注文するつまらない男だとからかわれたところなんだよ。だから今日は何か違うものにしようと思うんだが、さて、何を頼んだものか‥‥」
曖昧に言葉を濁す私に、青年は少し驚いた表情を見せると、少し考えるように視線を落とし、やがて軽く頷いた。
「それなら、お客様の気分に合いそうな一杯をこちらでブレンドしましょうか?」
ここでは“いつもの”としか頼んでこなかったせいで、注文に迷っていたが、青年がさりげなくフォローしてくれる。
「それはいいな。できるだけ熱いのを頼むよ。」
青年の気遣いに心の底から感謝しながら、私は小さくうなずいた。
「かしこまりました。」
青年は軽く微笑むと、流れるような動作でコーヒーを淹れ始める。湯を沸かす音が静かな店内に溶け込み、滑らかに豆を挽く音と心地よい沈むを奏でている。
そのとき、店の片隅で流れるラジオから、低い語り口のアナウンサーの声が響いた。
「昨夜、○○町の自宅で殺人事件が発生。被害者は三十代の男性で、死因は直径10cmほどの刃物による刺殺。発見時には——」
「……消してくれ!!」
その言葉が終わらないうちに、老人が突然険しい剣幕で声を上げた。それはただの要望というより、切迫した焦りを感じさせる言葉でもあった。
青年は一瞬戸惑ったように老人を見たが、その眼差しに有無を言わせぬ圧を感じ取ったのか、小さく頷くとカウンター奥へと歩み寄り、ラジオのボリュームを絞っていった。
ラジオのノイズが小さくなり、やがて完全に消えると、老人は何もなかったかのように再び新聞を読み始めた。ラジオの消えた沈黙の中で、新聞をめくる音が不自然なくらい店内に重く響き渡る。
私は無意識のうちに青年のほうへ視線を向けていた。
彼もまた、一瞬だけこちらを見る。
目線が交差する——ほんのわずかな間。しかし、その短い時間に、互いの老人に対する疑念が言葉にならぬまま交わされていた。
青年はすぐに視線を落とし、手元の作業に戻る。豆を挽く動作は変わらず滑らかだったが、その背中には微かに緊張が残っているように思えた。
昨夜の殺人に関するラジオが流れた際の老人の焦った様子を思い出すと、心の奥で感じていた違和感の正体が、徐々に確かなものへと、形作られていく。
その違和感を確信へと変えるため、意識的に自然な動作を装いながら、ゆっくりと視線を老人へと向ける。
老人の顔は、変わらず新聞に覆われている。そのため紙面に隠された表情を読み取ることはできなかったが、代わりに新聞そのものに、確かな違和感を感じた。
紙は微かに黄ばみ、インクの色合いも妙に古びている。さらに目を凝らすと、そこに記されている記事は半年も前の出来事だった。
この店に置かれる新聞は、通常一週間以内のもの。それならば、老人はこれを自ら持ち込んだことになる。半年も前の新聞を、読むために携えているとは到底思うことができない。
長く居座りながら、周囲の視線を避け、新聞の陰に隠れ続ける。
老人のしている一連の行動が、ただの習慣ではなく、意図的なものだという確信が胸を満たした。
その刹那。老人の指先がわずかに滑り、新聞が静かに床へと舞い落ちる。はらりと広がった紙の向こうに、隠されていた姿が露わになる。
老人だと思っていた男の顔は、想像よりもはるかに若かった。
──変装。
目線をさらに落とすと、手元の指に無数の切り傷のような痕が刻まれている。
──傷痕。
抱えていた全ての違和感が一つの確信へと収束する。
ラジオの放送を必死で消そうとしたこと。
帽子を深く被り、新聞の陰へ身を沈めた不自然な仕草。
まるで手に取ったばかりのような新品の衣服。
手に刻まれた、無数の傷跡。
点と点が一般の線として繋がり、私はついに男の正体に辿り着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます