Ⅵ-Ⅰ 宮守四季
*四月二九日 月曜日 タクシー
「ん……」
ガタンとした揺れで、僕の意識は現実に戻って来た。
捕まえたタクシーに揺られていたら、いつのにか日付が変わっていたようだ。
しかしまだ窓の外は暗い。
ダッシュボードにあるデジタルの時計を確認すれば、時刻は深夜二時をまわったところだった。
学生寮を出た後、僕はすぐに駅前に向かい、タクシーを捕まえた。
深夜に近いということで、運転手さんにはかなり怪しまれてしまったけれど……実家の母親が事故に遭って今すぐに帰らないといけないこと、そして料金を前払いすることで、なんとか目的地まで向かってもらうことができた。
もちろん前者は口から出まかせだけれども。
ひとまず、大切な人達の近くから逃げ出せて良かった。
それだけだ。
「そろそろ着くけど……本当にここでいいのかい? 辺り、電気点いてないみたいだけど」
鬱蒼と茂る森を見回しながら、運転手さんは不安そうに僕に問いかけた。
ここは民家のほとんどない別荘地だから、暗いのは仕方がない。
避暑地のため、この時期に遊びに来ている人も少ないだろう。
「はい。大丈夫です。ありがとうございます。この辺りで父と待ち合わせしていますので」
スラスラと出てくる嘘に、今更に自分の意外な一面を知る。
僕の言葉を聞いて安心したか、タクシーが路肩に停車する。
先払いした分から僅かにはみ出た料金を支払うと、タクシーは再び発車した。
暗い夜道に残された僕だったが、ここからの道は暗がりでも問題無かった。
頭の中で何度も反芻した道だ。
迷うはずがない。
手入れのされていない獣道のような草むらを足でかき分けながら、おじいちゃんに教えてもらった場所へと向かう。
詳しくは分からないけれど、おじいちゃんの知り合いの別荘らしい。
辿り着いた場所には、長い年月の経過したログハウスがあった。
あの教会にあったものと似ているのは、たぶん、家主が同じだからだろう。
手を伸ばした扉に、鍵はかかっていなかった。
人目につかなくなるような魔法がかかっているのだろう。
その家は、すんなりと僕を受け入れてくれた。
ここまでくればひとまず安心だ。
あとは、この家で残りの時間を過ごすか……もしくは。
「凄い……」
部屋の中には、たくさんの絵が飾られていた。
果実、風景、人物……まるで今にも動き出しそうなほどリアルだ。
その中で、ひときわ目立つものが一つ。
六〇六×五〇〇ミリメートルのキャンバス。
キャンバスサイズの中では、中程度の大きさだ。
F一二号サイズのそれは、幻想的な絵が油絵の具によって描かれていた。
荒れ果てた大地と海、そしてそれを見守る天使……。
そして下部に書かれた『LM』の文字。
一筆一筆を丁寧に描かれたその絵は、見るものを圧倒する力を持っていた。
僕はその絵にそっと触れる。
僅かに温かい気がするのは……のちに僕の魂が眠る場所になるからだろうか。
その温度にホッとし……そして緊張が一気に緩んだ。
タクシーでうたた寝しかしていないためか……疲れてしまったようだ。
ひとまず少しだけ横になろう。
僕はダイニングテーブルに備え付けてある、ベンチシートに寝転がった。
無垢材でできたそれは、ベッドとしてはとても上等とは言えなかったけれど。
それでも、横になった瞬間すぐに眠気が襲ってくる。
もしかしたら、もう二度と目を覚まさないかもしれないな……そんなことを思いながら、僕は目を閉じる。
一瞬……。
本当にほんの一瞬だけ……頭の中にレイ先輩の顔が浮かんだのは、どうしてだろう……。
*
僕は教室の中、いつもの窓際の席で座っていた。
「おっはよー」
いつも通り元気に小鳥遊くんが教室に入って来て、そして。
「聞いてよ響くんー! 昨日サラがさー」
「まーた、惚気」
僕の横を通り過ぎ、浅倉くんと会話を始める。
「違うもん! 喧嘩したんだもん!」
「だからそれが惚気だって言ってんの」
「あの……」
視線が合わない二人に、僕は声をかける。
しかし二人は僕の方をチラリと見ると、不思議そうな顔をして二人の会話に戻る。
まるで僕の存在を忘れてしまっているかのように。
「…………」
僕は不安になって、胸元のドッグタグに触れる。
「え……!?」
しかしいつも必ず身に付けているはずのそれがどこにもない。
「どうして……」
確かに一枚は先輩のところへ置いてきたけれど……。
まだ一枚は僕の胸元にあるはずなのに……。
「レイ先輩……」
僕は立ち上がり、教室を飛び出す。
あれが無ければ、僕は……。
「いてっ!」
廊下の曲がり角で、誰かにぶつかってしまった。
「す、すみません……!」
「気をつけろよな!」
「大丈夫か、孔洋」
「ああ……」
「孔洋先輩……桃矢先輩」
名前を呼ぶも、先輩は一度僕を見ただけで歩いて行ってしまう。
「なんで……」
呆然と立ち尽くす僕の横を、スッと恭次先輩が通り過ぎていく。
「恭次先輩!」
思わず名前を叫ぶが……。
「誰?」
怪訝な顔をして、首を傾げる。
「とーや! こーよう! ちょっと待ってよー!」
「先輩……」
仲良く会話する三人の姿を見て、心が冷たくなっていくのを感じる。
あんなにも僕に向けてくれた笑顔は……頭を撫でてくれた手は……もう……。
「……それを望んだのは……全部捨てたのは僕じゃないか……」
自分の呟いた言葉に、思わずその場に座り込む。
服の上から感じる廊下の冷たさだけが、妙にリアルだった。
「邪魔だ、どけ」
「!」
頭の上から、聞きたかった声が降ってくる。
「レイ先輩……」
震える手を握り締め……そして。
先輩に向かって手を伸ばすが。
「誰だよ、テメエ」
それは、無慈悲に振り払われる。
手が……心が……とても痛かった。
そして先輩は僕に構うことなく廊下の先へと進んでいく。
僕だけが一人、暗闇の中へ取り残される。
いつの間にか闇に飲まれていく身体。
「レイせん……ぱ……」
声は言葉にならず、闇の中へと飲み込まれていってしまった。
*
「!」
身体がビクッと跳ね上がったことで、僕は目を覚ました。
なんて酷い悪夢だ……。
僕は横になったまま、頭を抑える。
外はすっかり明るくなっていて、太陽の光があちこちにある窓から、太陽の光が惜しげもなく降り注がれていた。
僕は身体を起こし、そして嫌な夢を振り払うように首を振る。
最期は誰も巻き込まない。
そう決めたのは僕だ。
だから、寂しいだなんて……思っちゃダメなんだ。
これまでとても楽しかった。
だから、もう……いいんだ。
たくさん思い出は手に入れた。
みんなに、挨拶をせずにここに来てしまったのは不義理だったけれど……。
それでも……別れがやってくるのは必ず突然だから。
それがたまたま昨日だっただけのこと。
きっとみんなすぐに日常に戻る。
長い人生の間の一ヶ月なんて……とっくに忘れてしまうはずだから。
「……やめましょう」
こんなにも言い訳を巡らせてしまうのはきっと、この家主の思念が渦巻く場所だからだろう。
僕は気を紛らわすため、食事でもとることにする。
「あ……」
そういえば、食料を買うのを忘れていた。
あと一日半だから、食べなくても平気だけれど……。
特にするのもないので、気分転換に外に出てみようか。
近くにコンビニがあればいいし……レストランがあればなおいい。
シーズンオフの別荘地にそんなものを求めても無意味な気がするけれど。
それに……きっとそろそろ現れるだろうから。
古びた扉を開くと、来たばかりの時とは違い、太陽が高くに上がっていた。
空は快晴で、春とは思えないほどに体感気温が高い。
カバンに付いたキーホルダーがカチャリと音を立てる。
その音が辺りに響くほど、周囲は静かだった。
森に囲まれている割には、小鳥の囀りすら聞こえない。
何だかこの場所は、世界から切り離された空間のように思えた。
「こんにちは、シキ」
「…………」
そんな静寂に、何の違和感もなく溶け込む声。
呼ばれた声に顔をあげれば……。
色素の薄い髪をハーフアップにまとめた、まるで人形のように整った顔の人が目の前に立っていた。
「アイさん……」
その人は、本屋さんや教会で出会った、柊明高校の人だった。
今日は私服姿だったけれど。
まさかこんな場所で偶然が起こるはずがない。
「……思ったよりも、早い到着でしたね」
「キミの向かった方角で予想がついたよ。ここはレオンハルトのアトリエの一つだからね。……レイメイは?」
「先輩ですか? 先輩は寮にいますよ。今回の絵の件について、先輩は何も知りませんので」
「……そう。巻き込まなかったんだ?」
「今回の件は、僕とおじいちゃんが始めたことなので。最初から誰も巻き込むつもりはありませんでした。コトの全ては、浅倉くんに、僕の記憶を読んで貰えば分かると思います」
つまり、僕はもうこの人達の前で嘘をつくことができないということでもある。
「……ヒビキのことは知ってるんだね」
「ええ……。おじいちゃんも僕も、魔法使いや
「Aigis!」
その時、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえた。
それと同時に近付いてくる足音と、長い影。
「What are you doing? I'm tired of waiting」
ボルドー色の肩甲骨まであるストレートヘアに、レイ先輩よりも大きく見える長身。
白いインナーの上に薄い色のジーンジャケットを羽織っている。
黒いスキニージーンズが足の長さを際立たせていた。
小さな丸いサングラスが、何だか怪しい商人のような雰囲気を醸し出している男性だった。
ああ、思い出した。
この人……この前、孔洋先輩に道を尋ねていた人だっけ。
まさかこの人も
世間の狭さと、そして何かの意思によって掌の上で転がされていることを思い知らされる。
「貴方は……
「Exactly! アレ? なんかユーのこと……見たことあるような……まぁ、いっか。セシル・クロウリーだヨ。よろしくね」
その人はわざとらしさを含んだカタコトの日本語で答える。
「随分と見つけるのに時間がかかったんですね」
まさか見つかるのがこんなに遅くなるなんて思わなかった。
それは結果的に嬉しい誤算だったわけだけれど。
「そうなんだヨ! 不思議なコトに、昨日まで、ユーのこと……全然視えなかったんダ。例えて言えば、強力なバリアーが貼られてるカンジ? モヤモヤーってなってタ。でもネ……」
セシルと名乗った人物は、ゆっくりと丸いサングラスを取る。
「昨日の夜、それがなくなったのサ」
その下から現れたのは、まるで見る角度によって色が変わる、オパールのような……不思議な色をした瞳だった。
「だから、ハッキリ視える。ミヤモリシキ……キミがあの絵を使ったってこと! あの大罪人、レオンハルトの思念が纏わりついているヨ!」
「…………」
僕は勢いに押され、一歩後ろに下がる。
攻撃魔法使いではないとはいえ、やはり
「一体どんなトリックを使った? どうして突然視えるようになった?」
悔しそうに、しかし口角を上げて笑うセシルさんの質問に、僕は胸元からドッグタグを引っ張り出す。
「このドッグタグが、貴方の千里眼から僕を守ってくれていたんです。それが昨日壊れてしまったため、不可視の魔法が解けてしまった」
「そんなもので……」
今度は悔しそうに顔を歪める。
なかなか僕を見つけることができなかったことが、彼のプライドを傷付けてしまったようだ。
「それも、オリバーが用意したものかい?」
あからさまに表情を表に出すセシルさんとは対照的に、アイさんは冷静に話を進める。
「はい。たぶん、イリーナさんに頼んでくれたものかと」
「ふむ……。彼女は
アイさんはそう言って少しだけ微笑んだ。
「あの裏切り者の魔女め……」
そのすぐ横で、セシルさんが舌打ちする。
どうやら彼は、
「アイギス! コイツから引き出せる情報なんて、第七位に任せればいいんだカラ。さっさと話を進めるんダ!」
「そうだね」
アイさんは小さく同意すると、優しい瞳を僕に向ける。
「絵はどこにあるんだい?」
「この中ですよ」
僕はログハウスを指差す。
「……やはりそうか」
「入れなかったんでしょう? だから僕がここから出てくるまで外で待っていた。この家は、絵の魔法が解けるまで入れないようになっていますから」
「私の魔法でも、壊すことができなかったよ」
「この魔法を解く方法は、絵の魔法が解かれることの一つだけです。絵を解くためにはいくつか方法があるようですが……一番簡単かつ確実な方法は、絵の魔法を発動させた本人が死ぬことですね」
「なるほど。それじゃあユーを殺せばいいわけか」
「そうなります」
「セシル」
アイさんは一歩前に出ると、セシルさんを戒めるように手で制する。
その手には、以前と同じく真っ白な手袋がはめられていた。
「シキ……キミは絵に何を願ったんだい?」
「…………」
僕は何も言わずにアイさんを見つめる。
まるでヴェネチアングラスのような澄んだ色だと思った。
「アイさんだけになら、お話ししてもいいです」
「はぁ? ユーにそんな選択肢あると思って……」
「分かった。二人で話そう」
「ちょっと……アイギス……!? 先輩を差し置いて、手柄を独り占めする気かい!?」
「手柄なんていらない。いくらでもあげるよ。それと、序列的には私の方が上なんだから、私に意見しないで欲しい」
「……Shit!」
セシルさんはそう言って舌打ちすると、腕組みをして僕達を睨みつける。
彼には悪いことをしてしまったと……心が少し痛むが……。
それでも、僕が彼に話したくなかったのは、なんだか夢が踏み躙られそうな気がしたからだ。
ほとんど話したことのないアイさんを特別に信用しているというわけではないけれど……。
何故だろう……悪い人ではない気がするんだ。
「こっちで話そうか」
アイさんは、ログハウスの横にちょこんと置いてある木製のベンチを指差した。
僕はアイさんと一緒に、そこに座る。
椅子がギシリと僅かに音を立てる。
年季は入っているようだが、こまめに手入れされているせいか比較的綺麗な状態を保っていた。
すぐ目の前には花壇があり、水色の小さな花がいっぱいに咲いていた。
「綺麗ですね……」
「ミオソティス・ミオマルク…………ワスレナグサだね」
「これが、そうなんですね」
何となく知識としては知っていたけれど……。
やはり実際に見ると、小さな花が懸命に咲く姿に心打たれるものがある。
「花は好きかい?」
「はい……よくおじいちゃんと、花の図鑑を見たりしていました」
「キミの祖父……オリバー・シュルツだね。私は直接会ったことがないけれど、生前は
「はい……そうです」
「でも、血は繋がっていない。
「アイさんは、
僕の言葉に、アイさんは困ったように頷く。
驚いた。
おじいちゃんと僕のことについて、ほとんど情報が漏れていないのか。
「オリバーの孫で、昔身体が弱かったということ位だよ」
困ったように眉を下げるアイさんに、僕は答えを告げる。
「そうですか……おじいちゃんは隠していたんですね。僕に呪いがかかっていることを」
「……呪い?」
アイさんの整った顔が、怪訝な表情を作る。
「はい。僕にかけられた呪い……いえ。魔法は、大戦時代の序列第九位の魔法使いによるものです」
「大戦時代の序列第九位というと……イタリア人のニコロ・フロレンツィ。カレの魔法は髪の毛一本でもあれば、その相手を即時呪い殺すことができる強力なもの……。いや、でもオリバーは当時序列第八位で、カレの魔法は『自らにかけられた魔法の自動反射』のはず……ニコロよりも上位の存在であるオリバーにカレの魔法は……」
アイさんはハッとした表情で僕を見る。
「そうか……オリバーが反射してしまった魔法は、近くの誰かに当たってしまった……その誰かというのが……」
「僕の曾祖母である、シーラ・シュナイダーです。シーラは、おじいちゃんの幼馴染でした。当時シーラは僕の祖母を身籠っていたんです。しかし、当時は僕の曽祖父に当たる人はすでに戦死していたと聞いていました。僕が付けているのは、その曽祖父のドッグタグです」
「…………」
「ニコロ・フロレンツィは、
「呪いは次々に彼女達の子供へと引き継がれていき……今はキミの身体を蝕んでいる」
アイギスさんにまっすぐ見つめられ、僕は俯くように頷いた。
「話の理解が早くて助かります。呪いは曾祖母から祖母に移り、祖母が母を産んだ瞬間に母に移りました。そして祖母は出産と同時に亡くなった」
「ニコロの魔法は、即死効果から……子供を産むと発動するものに変化したんだね」
「ええ。魔法が跳ね返ったことと、曾祖母が身籠っていたことから……本来の魔法の形が歪んでしまったんだと思います。元の即死魔法よりは確実に弱体化していますから」
「魔法の変化か……興味深いね」
アイさんは自分の顎に手を当てる。
「今までは女の子が産まれていたから、出産と同時に亡くなったみたいだけど……シキ、キミの場合はどうなるんだい?」
「僕は祖母や母と違い、幼い頃から病気がちで、いつも病院のベッドにいました。どうして母達と違ってこんなにも弱いのか……それは僕の性別に関係あるのかもしれないと、おじいちゃんに言われました。基本的に女性の方が、魔法に対する対抗値が高いそうですね。とある魔法使いからは、一六歳になる誕生日に命を落とす……と予言を受けました」
「その魔法使いというのは……」
「レオンハルト・ミューラーです」
「『天使の絵』の作者……魔法研究の第一人者か。その予言は当たりそうだ……。カレは、オリバーとは知り合いだったのかい?」
「そのようです。母国が同じでしたが、出会ったのは戦争の後だったと言っていました。僕は彼と直接の面識はありませんが……。おじいちゃんは僕の命を助けるために、密かにレオンハルトさんと取り引きをしていたみたいです」
「そこで、『天使の絵』が出てくるわけか……」
「おじいちゃんは、起き上がることすらできない僕を見て、いつも悲しそうな顔をしていました」
僕がおじいちゃんを思い出す時に出てくるほとんどが、その表情だった。
「ある日、おじいちゃんは僕に訊きました。もしも願いが一つだけ叶うとしたら……オマエは何を望む、と」
「…………」
「僕の願いは『元気な身体になって学校に通いたい』……です」
「そうか……それが……キミが絵に望んだ願いなんだね」
やはりアイさんはバカにしたり、笑ったりすることはなかった。
それどころか、その表現は、何となく安堵しているようにも見えた。
「その通りです。最初おじいちゃんは、自ら願いを告げることで自身の魂を絵に捧げようとしたのですが……その時おじいちゃんはもう、余命数ヶ月の命でした。たぶんおじいちゃんも自分の死期が迫っていることに気付いていたんでしょう。せっかく絵に願いをかけても、おじいちゃんが亡くなってしまえばその虚構は消えてしまう。ですからおじいちゃんは、僕が不自由なく生きていくことができるよう……生活の基盤を整えてくれました。私立の学校に通えるよう手続きをし、寮に入ることによって衣食住の問題を無くした。あとは僕の呪いが発動する一六歳の誕生日までの間……楽しい学園生活を送るだけ」
「絵の魔法によって、キミにかけられた呪いを消すことはできなかったのかい?」
「おじいちゃんもそれをレオンハルトさんに訊いたみたようですが、不可能だったようです」
「そうなんだね……。絵の魔法を発動させたこと例があまりにも少な過ぎて、可能な願いと不可能な願いすらもこちらでは把握できていないんだ。こちらで分かっていることは、全ての絵に願いをかけ、魂を取り込ませると、この世界が壊れるということだけ。それも実際に壊れてしまうのか、それとも何かの比喩であるのか……それすらも不明なんだ」
「……レオンハルト・ミューラーの絵の魔法は、世界の中に虚構を入れ込むものなんです」
「虚構? さっきも言っていたね」
「はい。去年の冬に、世界がループしていた事件があったんですよね?」
「……うん」
「あれはループの世界自体が虚構でした。ですからあの魔法が解けた後は、特殊な魔法使いを除いて、その世界の記憶は誰も持っていない。もちろん僕も、世界がループしていたなんてことは知りませんでした。そして今回の虚構は僕自身です。『呪いを受けずに、元気な姿で学校に通う宮守四季』という虚構です。今回の魔法は、前回の魔法とは多少違うとはいえ、僕が消えてしまえば、僕が元気だった姿は少しずつみんなの記憶から消えていくでしょう」
「魔法の効果はいつ切れるの?」
「明日いっぱいですね。僕にかかった呪いが僕の身体全てを蝕むのが、一六歳の誕生日。僕は五月一日産まれなので」
「ヴァルプルギスの夜……か。なんともまあ……皮肉なものだね」
アイさんは、長い前髪によって隠されている自分の額にそっと触れる。
「ですので僕は学園の入学式からの一ヶ月間を、最期の舞台にすることを選びました」
「それじゃあ、ドッグタグが壊れてしまったのは偶然なのかい?」
「そうです。先程も言いましたが、あのドッグタグには
「なるほど……」
アイさんが聞きたかった情報は一通り聞き出したのだろう。
その情報を組み立て、今後のことを考えるよう腕組みをする。
「説明不足な部分や、僕の主観のせいで間違っている部分もあるかもしれません。そこは浅倉くんや、
僕の言葉に、アイさんは再び顔を上げる。
そして、汚れのない澄んだ瞳で僕を捉えた。
「キミは……」
「はい?」
「明日で命が終わると分かっているのに、どうしてそんなに冷静でいられるの?」
アイさんから問われるその言葉の中に、哀れみや悲壮といった感情は一切感じられなかった。
ただ、事実として……アイさんは知りたいだけなのだろう。
「……そう、ですね。元々、僕の命の終わりの日は決まっていたんです。そして、その日まで病院で空を見上げるだけということも」
僕はゆっくりと空に向かって手を伸ばす。
「ですが……最期の一ヶ月間だけ、素敵な魔法をかけてもらうことができました。そのままだったら、決して叶うことのない夢だったんです。美味しいものを食べたり、友達と楽しく過ごしたり、自分の足で歩いたり……そして、桜を見たり。とても贅沢な時間を過ごすことができたんです。だから……。だから……後悔なんて、少しもありませんよ」
「……それじゃあ、どうしてキミはそんなに――――」
「おーい! アイちゃーん!」
アイさんが何か言いかけたところで……遠くからアイさんの名前を呼ぶ声が聞こえた。
セシルさんが戻って来たのかと思ったが、そうではないらしい。
その声の方を見れば、長身の男の人がこちらに向かって手を降りながら歩いてきているのが見える。
真っ黒なジーンズに革製のブーツ、そしてライディングジャケットを羽織ったその人物は……。
「ジローさん……!?」
「よぉ、少年。よく会うな」
ジローさんはあっという間に僕達のところへとやって来た。
歩くスピードが早いのは、その足の長さ故だろうか。
どうしてここにいるんだろうと思ったが……そういえばこの二人は
ジローさんはいつもの人懐っこい笑顔を浮かべ、楽しそうに僕の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「ジロー、どうしたの?」
アイさんは僕と話していたと時よりも、僅かに真剣な顔つきに変化する。
「今、緊急連絡が入ってさー。本部で序列第五位が暴れてるらしいぜ」
「…………」
ヘラヘラと笑うジローさんからの説明に、アイさんの表情が、ドッと疲れたものになった。
序列第五位……って、誰だろう。
僕が首を傾げていると、アイさんはジローさんを見上げる。
アイさんも決して身長が小さいわけではないのだが、ジローさんは身長も体格も別格に存在感があった。
「私への命令は、何か出ているのかい?」
「いや特に。連絡がまわってきただけだ。でも原因はそこの少年だろ? だからさ、アイちゃんには伝えといた方がいいかなって」
「そうか……分かった」
アイさんは再び考え込むように口を閉じる。
しかしすぐに小さく頷くと、ジローさんを見た。
「シキを本部へ移送してくれるかい? それ以降の処置については、私から本部へしておくよ」
「Copy that!」
ジローさんは歯を見せながら、慣れたようにアイさんに敬礼をした。
「シキ」
次にアイさんは僕を見る。
「キミの言ったことが事実であるのなら、キミは明日いっぱいは生きることができるんだよね?」
「そうです……けど」
「それならその命、ここからは
「どういうことでしょう?」
「今日、キミの命を奪っても、明日の夜キミの命が尽きても……もうここまで来たら結果は変わらない」
「つまり、アイちゃんは最期の一日を……序列第五位のために使って欲しいって言っているわけだな。ここでオレ達が少年の命を奪ったとなれば、第五位はもう絶対に言うこと利かないもんな。だったらこっちも最大限の譲歩をしたんだってコトを理解してもらった方が、
「…………」
ああ、そうか……。
二人の会話から序列第五位の正体が分かってしまった。
あの時……先輩が出した手。
ゲームセンターで先輩が僕に向けた手は……『五』の意味があったんだ。
でも、今更僕が戻って来たところで何か変わるのだろうか。
わざわざ一日一緒に過ごしたところで、結果は変わらないのだから。
「
「セシル……」
その声の方向へ、僕達は顔を向ける。
いつの間にか、セシルさんがすぐ近くまで来ていたようだ。
「ミヤモリシキへの処置は、本部が決めるコト。ユーにそんな権限ないだろう」
「もちろん。だから先に本部へ移送するんじゃないか。その上で、今言った私の意見を伝える。シキをどうするのかの最終判断は本部に任せるよ」
「……ユーのコトだ。きっと何か手を回す気だろう? この前の、オオサキイツキの時と同じように」
「何のことを言っているのか分からないな。私は、あと一日待つ進言をするだけだよ。それでシキの命は尽きるのだから。ここで私達がシキの命を奪ったら、ヒビキが記憶を読めなくなってしまうだろう?」
「ユーはつくづく甘いネ……どうして人間なんかに情をかける? 血の通っていない、人形のくせに」
「あーもう。コラコラ。そこで二人で喧嘩しても仕方ないだろ」
ジローさんはまるで学校の先生のように、言い争う二人を嗜める。
「で、アイちゃん。どうする?」
「Hold on a second! 何故アイギスに意見を求める!?」
「何故って……アンタよりアイちゃんの方が偉いからじゃん。序列ってそういうもんっしょ?」
「…………」
セシルさんはジローさんを忌々しそうに睨みつける。
たぶんジローさんの言っていることが正しいのだろう。
「本部を破壊されるのは困るからね。それに――――チョコレートのお礼、まだしてなかったから」
やや苦笑気味に、アイさんはジローさんを見た。
「ジロー。ひとまずシキを、本部にいるレイメイのところまで届けてあげて」
「はいよ。お届けするぜ」
アイさんはそれを見て微笑むと、今度は僕と向かい合った。
「シキ。たぶん、本部に着いたらヒビキの魔法で記憶を読まれてしまうと思うけど……キミ自身に決して乱暴なことはさせない」
その目は真剣だった。
そして、その目は……誰かと僕を重ね合わせているような……そんな思いを感じた。
「レイメイに最期の挨拶を。それが私からのお願い。まだ時間が残っているうちに……」
そう言ってアイさんは、深く頭を下げた。
僕は返事をすることができなかった。
僕に断る権利なんてないのだから。
「じゃ、行くぞ」
ジローさんは僕に目配せすると、僕が昨日タクシーから降りた道路の方へ向かって歩き出す。
後ろからセシルさんの視線を感じたが、振り返らず、ただ黙って後ろについていく。
来た道をしばらく戻ると、木々に囲まれた道の端にポツンと大型の黒いバイクが置いてあった。
「ほら」
ジローさんはハンドルにかけられていた、真っ黒なフルフェイスのヘルメットを僕に向かって軽く投げる。
僕はそれを両手で受け取ると、ジローさんとヘルメットを見比べた。
「あ、もしかして付け方分かんねえ?」
「いえ……たぶん大丈夫です。ここまで、バイクでいらしたんですね」
「そ。アイちゃん達は
「ジローさんも、
「オレ? いーや、全然違う。オレはただ、
ジローさんは文句を言いつつも、楽しそうに笑う。
この人はきっと、どんな状況も楽観的に考えることができる人なんだろうな。
僕はもう一つ気になっていたことを訊いてみることにした。
「ジローさんって、元軍人さんですか?」
「お。少年は勘がいいなぁ。まあ……似たようなもんさ」
少し言葉を濁すと、長い足でバイクに跨った。
「オレの
「このバイク、とってもカッコいいですね……!」
素直に漏れた感想に、ジローさんは嬉しそうに車体をひと撫でする。
「だろ? コイツはハーレーのアイアン……いや、コイツとの出会いを説明すると長くなるからな。とりあえず乗りな。しっかり捕まっとけよ」
言いながらジローさんもヘルメットをかぶる。
地を鳴らすような低い音と主に、バイクのエンジンがかかる。
僕はステップに足をかけ、大きく足を開いてシートに座る。
そして、ジローさんの腹部に手を回す。
服の上からでも、がっしりとした腹筋の存在が伝わってきた。
「少年、聞こえるか?」
ヘルメットのインカムから、ジローさんの声がすぐ耳元で聞こえる。
「はい、聞こえます」
「そんじゃ、出発するぞー!」
タクシーの比ではないほどの振動とともに、バイクが走り出した。
長時間乗っていたら、確かにお尻が痛くなってしまいそうだ。
「よろしくお願いします」
「よっしゃ。超特急で行くぜ! もちろん、安全運転でな」
「はい!」
「本部までここから一時間位か。せっかくのタンデムツーリングだ。のんびりトークでもしながら行こうぜ」
「そうですね……」
正直、楽しくトーク……という気にはならないけれど、気を逸らすのにはちょうどいいかもしれない。
「つーか、少年。意外とヤンチャしてたんだな。つっても、内容はさっきアイちゃん達が話してたのをインカムで聞いてただけだから、それ以上のことは知らないけどな。んで、途中で本部から、第五位が暴れてるって連絡がまわってきた」
「どうして先輩は本部を……」
「
「暴れてるって、どのレベルを言うんでしょうか……」
「どうだろうなぁ。到着する頃に、本部の建物……残ってるといいんだが」
「え……先輩の魔法って、やっぱり凄いんですか?」
宮村先輩との戦闘や、あの余裕ぶりから、かなり強い魔法使いだということは分かるのだけど……。
しかしその全貌というのが全く見当がつかない。
「何だ、本人から聞いてないのか?」
「え、ええ……魔法の概要は教えてもらいましたが、そういえば威力は訊いていませんでした」
「そうか。確か、いつかした実験の時は、一瞬で高層ビルを一〇棟薙ぎ倒したって聞いたぞ」
「え……は……? こ、高層ビル……?」
一瞬、ジローさんが何を言っているのか理解できなかった。
想像していたものと規模の違い過ぎる力に、言葉が上手く出て来ない。
つまりこの前、浅倉くんのお兄さんや宮村先輩と対峙した時は、ものすっごく手加減をしていたということだ。
「そんなの、兵器じゃないですか……」
「だな」
ジローさんは何故か嬉しそうに笑った。
「先輩に会うの……怖くなってきました……」
「ま、会った瞬間ぶっ飛ばされたりはしないだろうが……命乞い用の言い訳は考えとくべきかもな」
「命乞い……」
「でも、少年の気持ちは分かるぜ。一刻も早く逃げないと、
「でも……どうすれば良かったんでしょうか」
「ひとまず、第五位に全部話しときゃ良かったんじゃね?」
「でも……もし僕が魔法の絵を使ったってことを、先輩に話してしまったら……先輩は
「なんだ、そんなこと気にしてたのか。序列持ち、しかも第五位だ。そんな簡単に罰を受けるなんてことならねえと思うけどな」
おじいちゃんから、あの絵は
だからこそ簡単に見逃してくれるとは思わない……。
先輩を……巻き込みたく無かったのに……。
「なぁ、少年。オレからも一つ質問いいか?」
「何でしょうか」
「第五位とは恋人同士なのか?」
「へ……!?」
突拍子もない質問内容に、声が裏返る。
思わずジローさんの見事な腹筋から手を離してしまうところだった。
「ち、ちょっと待ってください。一体どこからどうなってそういう質問になったんですか?」
「ほら、第五位ってあの性格だろ。なのに少年のことに、すげー本気になってるからさ。もしかしたら、特別な関係なんじゃないかって思って。お兄さん、ストレート寄りのバイだから。そのへんの恋心は理解できるつもりよ」
「ええと……別にそういうわけでは。強いて言えば……そうですね。家族愛みたいなものかと……」
「家族愛ねえ……そういうもんか」
ジローさんはそれ以上何も訊いて来なかった。
ジローさんの言葉に、僕は自分の気持ちに問いかける。
僕は、レイ先輩が好きだ……でもそれは、さっき自分で言った家族愛だと思う。
だって僕と先輩は……おじいちゃんに育てられた、兄弟同士のような立場だから。
そもそも人を好きという感情が、今の僕には分からない。
だって……人間らしい生活を送りはじめたのは、ここ一ヶ月の話なのだから。
「…………」
ズキリと胸の奥が痛んだ気がした。
なんだろう、この胸の奥のモヤモヤは……。
「……少なくとも、第五位は少年のことただの友人以上に思ってるぜ。それが少年の言う、家族愛なのかもしれないけどな。でもヤツは感情表現が下手くそ過ぎる。見てて可哀想になってくるぜ――――あ、悪い少年。ちょっと電話かかってきた」
誰からの電話だろうか。
僕は小さく息を飲む。
「もしもし? え……目的地変更? まあここからなら、方角同じだから別にいいけど……。ああ、なるほど。アイちゃんの交渉が上手く行ったワケね。オッケ。それじゃあ、少年は指定場所で降ろすよ」
インカムから聞こえる音声を聞きながら、行き先が変わったことを知る。
「少年、海行ったことあるか?」
電話が終わったのか、ジローさんの会話の相手が僕になる。
「い、いえ……行ったことないです」
「そりゃあ良かった。今の電話、聞いてたよな。目的地変更。海の見える街になったぞ。少年が住んでた場所から電車で二時間位のトコだな。到着するのは夕方位か。でも、しばらく海岸線を走れるぞ」
「先輩も、そこにいるんですか?」
「そ。しかも直接迎えに来るらしい。本部から近いとはいえ、愛されてるなぁ……少年」
「…………」
ジローさんの言葉がなんだかこそばゆい。
先輩は……やっぱり怒っているだろうか。
顔を合わせることに不安を覚える。
でも、海が見れるのは少し楽しみだ。
それを心待ちに、ジローさんの背中に、更に強く抱きついた。
*
「わぁ……!」
あれから一時間程走行を続けると、右手に海岸線が見えてきた。
もう日は傾き始めてはいるが、天気がいいため、まだ水面がキラキラと輝いている。
想像していたよりもずっと美しい光景が、知識として知っていた全ての情報を凌駕していく。
空と海の水平線がくっきりと見える。
僅かに遠くの街が見える部分があるのは、ここが内陸側にへこんでいる場所だからだろう。
もやがかかっている様子が、まるで蜃気楼のように幻想的に見えた。
「初めての海はどうだ?」
「すっごく綺麗です……! 思ってたよりもずっと大きくて……!」
「へえ。少年がそんなに感情的になること、あるんだな。その方が年相応でいいと思うぜ」
ジローさんは鼻歌を歌いながら、少しバイクのスピードを緩めてくれる。
「あそこに跨線橋見えるだろ? そのすぐ近くに駅があるんだが、そこで第五位と待ち合わせしてる」
「あ……」
「見事にテンション下がったな」
黙ってしまった僕の様子を感じて、ジローさんは笑いを堪えている。
「ま、なるようになるさ」
ジローさんの声は優しかった。
僕の運命を知っていても、悲観とも憐れみとも違うその態度に助けられる。
その考え方や接し方が、おじいちゃんに似ている気がして……。
ジローさんは、死に近い場所に居たことが居たことがあるんじゃないかなんて……ふとそんなことを思った。
大きめの道路から脇道に入り、少し古めの線路を通り抜けると、前面がガラス張りの駅に辿り着いた。
祝日の夕方ではあるが、人の気配は感じない。
しかしよく見ればそこに……一人分の人影を見つける。
仁王立ちしたレイ先輩が立っていたのだ。
バイクは先輩から数メートルほど離れた位置に停車する。
ヘルメットを外すと、冷たい海風が頬を撫でた。
少し汗ばんでいた髪の毛の隙間に入り込み、気持ちがいい。
僕はジローさんの手を借りて、愛車である大型バイクから降ろしてもらう。
久しぶりの地面の感覚に違和感を覚えた。
しっかりと地面に足をついたところで、改めて先輩の方を見れば、バッチリと目が合ってしまった。
僕は意を決して、先輩の元へと向かう。
「…………」
今にも怒り出しそうな先輩の表情に、僕は身体が固まるのが分かった。
「あの……っ」
しかし突然。
何かに腕を引っぱられたと思ったら、いつの間にか先輩の腕の中で強く抱きしめられていた。
「……良かった……生きてた……」
声にならない程小さな声が、先輩から伝わってくる。
ああ……僕はなんてことをしてしまったんだろう……。
黙って出て行ってしまったことを、心の底から後悔した。
ジローさんの言った通り、言えば良かったんだ……先輩に……。
「なんだ、今日は素直じゃん」
背中側から、ジローさんの呆気に取られたような声が聞こえる。
「第五位ちゃんよ。お取り込み中のところ悪いが、ちょっといいかい?」
「…………」
ジローさんの声に反応した先輩は、名残惜しさを残しながら僕から身体を離す。
「んな睨むなよ。用件だけ伝えたらすぐ消えっからさ」
ジローさんは胸ポケットに入っていた小さな箱を手に取る。
そこから一本煙草を取り出し、口に咥えると、オイルライターで火を点けた。
「もう聞いてると思うけど……アイちゃんが少年に与えてくれた時間は、明朝九時まで。時間になったら、またオレが少年を迎えに来る。その後は
「自由? 見張りがついてんだろ」
「そりゃあそうでしょ。身体的拘束されないだけでも有難いと思わないと」
「どんな意見で割れてんだ?」
「んー……とりあえず第七位が記憶を全て読むことは決定済みみたいだけど……それからどうなるのかは不明。そもそも、明日一日で死ぬんだろ? 記憶を読んだ後すぐ殺すか、時間になって勝手に死ぬのを待つか……揉めるポイントはその位かねえ」
「殺させるかよ……」
「まあまあ。あくまで可能性の話ね。たった一日、死期早めても何の意味ないじゃん? だからこそ有用に利用したらどうかってて意見がちらほら出てるみたいだけど」
「有用……」
今度は僕が呟く番だった。
僕に利用価値なんてあるのだろうか。
「
「絵の魔法って……僕の命が犠牲になるだけじゃないんですか?」
今のジローさんの言い方だと、願いをかけた人間以外にも何か良くないことが起こるような含みを持っている。
「あー……何つーか、全ての絵に願いをかける……要は魂を取り込ませると、世界を壊す魔法に変化するらしいぜ。そのままの意味なのか、それとも別の意味があるのは知らねえけど」
「嘘くさ。序列メンバーでもない一介の魔法使いの魔法で、世界が壊れるかよ。何をそんなにビビってんだ」
「世界を……壊す……?」
鼻で笑う先輩とは逆に、僕の胸に一抹の不安が過ぎる。
しかし、それ以上詳しいことはジローさんでも分からないようだった。
「つーか、テメエ。何でそんなに詳しいんだよ」
「いやー。ほら、オレってラッキーだからさ。知りたいと思った情報がなんとなーく手に入っちゃうんだよね」
「…………」
「さて。それで少年達はこれからどうするんだ?」
「僕は……」
一瞬間を開けて、先輩を見上げる。
「もう少し……海が見たいです」
呟いた声に、先輩は何も言わなかった。
「海岸へ降りたいなら、そこをまっすぐ行けば海に出れる道があるはずだ」
ジローさんはさっき来た道路の方角を指差す。
「海でしばらく遊んだら……近くにオレが今日泊まろうとしてたホテルがあるから、今夜はそこに泊まるといい。この駅から二つ程先だけど、あの街に戻るよりは本部に近いだろ」
「え……いいんですか?」
「勝手にフラフラされるよりは、場所決めといて貰った方が、アイちゃんも安心するだろ」
「あくまでも見逃さないつもりか」
「そりゃあね、こうしてるのだってアイちゃんが頑張ってくれた上の特例だし。オレもキミ達のコト嫌いじゃないから、一応アドバイスはするけど……立場上は
ジローさんはそう言うと、吸い終わった二本目の煙草を、携帯灰皿に押し込む。
そしてヘルメットを装着し、バイクに跨りエンジンをかけた。
「そんじゃ明日の朝、迎えに行くから」
「あの……色々とありがとうございました」
「……まあ、なんだ。仲良くな」
僕達に向かって軽く手を振ると、マフラーの音を残してバイクは走り去って行った。
アイさんもジローさんも……とても優しい人達だ。
少なくとも今の僕にとっては二人共、命の恩人なのだ。
「…………」
二人きりになった瞬間、風の音が聞こえる程の静寂が訪れる。
どう会話を切り出そうか……。
そう思っていた矢先、先輩の左手が、僕の右手を強く掴む。
「え……っと……」
戸惑う僕を他所に、しっかりと指を絡められた。
「海、行くんだろ」
そう言って先輩は、僕の手を引きながらセンターラインの引かれていない道を歩き出す。
そのいつも通りのぶっきらぼうな言葉とは裏腹な態度に、僕は自分が笑っていることに気付いた。
色褪せたポスターの貼られた電柱を見ながら、先輩に手を引かれるままに歩いていく。
そこに言葉は無かった。
繋いだ手がドキドキしていた。
それだけだった。
先程の道路に出たところで、左側にうどん屋さんの看板が見えた。
しかし、ジローさんがさっき指さした方向とは逆だったため、気になりつつも右方向へ向かう。
大きな道路のせいか、たくさんの車が通っていた。
道沿いに添えられた花と、自動販売機を通り抜けたその先……。
錆びついた看板に、海水浴場の文字が書かれていた。
二人で道の先を覗き込めば、獣道と木のトンネルのような道が続いているのが見える。
大人二人がすれ違いするのがやっとな道だった。
しかし、しばらくその道を進めば、その先に……光が見えてくる。
「先輩……! 海です!」
「ああ」
キラキラとオレンジ色に光る水面が、僕の視界いっぱいに入り込んできた。
するりと手と手が離れる感覚。
汗ばんだそこに、風が入り込んできた。
僕は靴と靴下を脱ぎ捨てて、走り出す。
踏みしめる砂の感触は柔らかく、初めて触れた海の水は、とても冷たかった。
身体を包み込む潮風の匂い。
ついこの間まで咲いていた桜はもうとっくに散ってしまっていて、移り変わる季節の早さを感じる。
夏は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
届かない季節に焦がれるように、僕は高過ぎる空に手を伸ばした。
*四月二九日 月曜日 ホテル
「あのヤロウ……」
先程からずっと続いている先輩の悪態と共に、ホテルの部屋のドアが開かれる。
それと同時に、暖かな暖房の空気が身体を包み込んだ。
現れたのは、思ったよりもずっと広めの部屋だった。
カラフルな壁と、大きなテレビ。
学生寮とはまるで違う、キングサイズのベッドが一番目立つ位置に鎮座している。
部屋の隅には大きな茶色い革製のソファと、その前には四角いガラスのローテーブルも置いてあった。
ジローさんが譲ってくれたホテルは、何もかも新鮮だった。
こんな凄いホテルがあるなんて……!
その興奮から、さっきまでの疲れが一気に吹き飛んでいくようだ。
あれから僕達は、海辺からタクシーで一五分ほどの場所にあったこのホテルへやって来たのだった。
ホテルは受付の人が存在せず、完全に無人の入口に設置されていた端末からチェックインをするシステムになっていた。
現代において取り立てて珍しいシステムでは無さそうだけれど。
それでも先輩は、そのホテルの業態に些か不満があるようだ。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。凄く広くて綺麗ですし……僕、ラブホテルって初めてだから、ちょっと感動しています!」
「当然だ! 二回目であってたまるか!」
「え? は、はい……? すみません……?」
どうして先輩が怒っているのかよく分からなかったけれど、怒られたので語尾に疑問を付けながら謝っておく。
海辺では会話はほとんど無かったのだが、ここにやって来た辺りから先輩の調子が戻って……いや、それよりも饒舌になっている気がする。
水遊びによって思ったよりも濡れてしまった上着を脱ぎ、ひとまずハンガーで干しておいた。
その間も先輩は、辺りを見回したり、何か小さく呟いたり……と、なんだか落ち着かない様子だ。
「……テメエ、ここがどんな場所か知ってんのか……?」
「知ってますよ。男女が性行為する場所ですよね。昔の出会茶屋です。おじいちゃんが教えてくれました」
「ジジイ……孫に何教えてんだよ……」
「別にそんな変なこと言われてないです。映画にもよく出てくるじゃないですか。連れ込まれそうになったら逃げろと教えられただけです。日本は治安がいい方だけど、それでも危険な場所には近付いてはいけないと」
「それは……そうだな」
僕の言葉に納得したのか、綾織先輩の声が小さくなっていく。
「……キスで涙目になってたヤツとは思えねーな」
しかしすぐに、先日の僕の醜態を掘り返されてしまった。
「あ、あれは……っ! 目の前で起きたからです……っ! テレビで見るのと、実際に経験するのは全然違います」
「テメエは経験してねーだろうが」
「そうですけど……でも、知り合い同士でしたし……それに、桃矢先輩は恭次先輩のことが好きですし……まさか生徒会長さんがそこに参戦してくるなんて思いませんでしたし……」
今度は僕の声が小さくなる番だった。
あまり思い出したくない恥ずかしい記憶に、僕はそーっと話を変える。
「えっと……僕が想像していたラブホテルとは全然違ってますね。天井に鏡もないし、ベッドも回転しないし……なんかオシャレです」
「なんでイメージが昭和なんだよ。今なんかカラオケやサウナまで付いてる場所もある。ここだって割と綺麗だが、最新とは言い難い設備だ」
先輩は天井を見上げながら解説してくれる。
「え……先輩、詳しいんですね。こういうとこよく来るんですか?」
「っテメエは……ッ! それをオレに訊いて、なんて答えて欲しいんだ!?」
「ええ……っ!? どうしてそんなに怒るんですか……!?」
「…………」
「あ、とにかくお風呂に入らなければですね!」
気持ちはすっかり元気になったけれど、身体は完全に冷え切ってしまっている。
僕はお風呂があるであろう、奥の部屋へと探索を進める。
「それじゃあお風呂にお湯を張りますねー……って凄いです先輩! 全面ガラス張りです! ええっ!? しかも露天風呂ですよ!? 浴槽もとっても広いです!」
見上げた空はすでに日が落ちていたけれど、代わりに大きな月とたくさんの星が空に散らばっていた。
足元を照らす、明るさを抑えた間接照明。
黒い大理石のような浴槽は、二人で入っても余裕の広さがある。
「わ! ジェットバス! 入浴剤も色んな種類があります!」
脱衣所には洗面台と、その横には充実したアメニティグッスが綺麗に並べられていた。
広い風呂場へ入り、少し熱めの温度でお湯を溜め始める。
水位がいっぱいになるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
僕は先輩のいる部屋へ戻り、広すぎるベッドに座る。
目線の先には、これまた大きな壁かけテレビが設置されていた。
枕元にはテレビ用のリモコンと、チャンネル案内が置いてある。
あ、いくつか映画も観れるみたいだ。
「そうだ! お風呂のお湯がいっぱいになるまで、映画でも観ますか?」
僕はテーブルの上にあった、テレビ用リモコンの電源ボタンを押してみる。
「バカ!」
「へ?」
先輩の魔法でリモコンを奪われ、そして大きな右手で目を隠されてしまった。
先輩はすぐにリモコンの電源ボタンを押したのか、すぐに音が聞こえなくなってしまった。
指の隙間から一瞬だけ、やけに肌色が多い映像が写った気がしたのだけど……何だったんだろう。
「テメエは……余計なことすんな!」
「そ、そんなに怒らなくても……」
「…………」
先輩は悩ましげな表情で頭を抱えている。
なんだかさっきから先輩の様子がおかしい気がするけれど……また僕が何かをしてしまったのだろうか。
そんなこんなで、お風呂のお湯がいっぱいになったお知らせが届く。
「先輩、どうぞお先に入ってください」
「とっとと行け」
またしても冷たくあしらわれてしまった。
でも……いつも通りの対応をしてくれるのは嬉しい。
明日になれば、もう……いつも通りは訪れないのだから。
「あ」
ここで、はたと思いつく。
「先輩。せっかく広いお風呂なので、一緒に……」
「うるせえ、早くしろ!」
「わ……っ!」
ふわりと僕の身体が浮かぶ。
魔法によって、否応なくお風呂場へと運ばれてしまう。
まるで空を飛んでいるみたいだ。
床に両足がついたところで、洋服を全て脱ぐ。
鏡に写った自分の姿を見ることで、ドックダグの存在を思い出した。
胸元に下げられた一枚になったドッグタグ。
先輩は……片方を受け取ってくれただろうか……。
僕はアメニティとして用意してあった入浴剤を片手に、いざ広いお風呂場へと足を踏み入れる。
露天風呂なだけあり、やはり少し肌寒い。
さっきは目に入らなかったが、お風呂横の檜の壁に、謎のマットのようなものが立てかけられていた。
ここで寝転がって……それで、どうするんだろう。
世の中、まだまだ知らないことが多い。
ひとまず僕は、持ってきた入浴剤を入れてみる。
ほのかな薔薇の香りが、ふんわりと辺りを包みこんでいく。
「?」
しかし、それ以上の変化は無かった。
お湯の色が変わったりするのかと思ったけど……少し残念だ。
「これは何のボタンでしょう?」
僕の興味が、すぐ横の壁に付けられていたパネルへと移る。
色々とボタンが並ぶ中、なんとなく一つのボタンを押してみる。
「!」
途端、ジェットバスが作動した。
それと同時に、モコモコした泡がお風呂から現れる。
「あ……さっきの、入浴剤じゃなくて……泡風呂の元……」
お風呂の縁に置いておいた空の袋を確認すると、予想通りのことが書いてあった。
ちゃんと説明を読んでから使わないとダメだなと思いつつも、辺りの装置を触ることがだんだん楽しくなってきた。
他にも何か面白い機能はあるのだろうか。
僕は再びお風呂のパネルと向かい合う。
「このボタンはなんでしょう…………うわッ!?」
「どうした!?」
僕が叫び声をあげるとすぐに、先輩がお風呂の扉を思いきり開いた。
走ってきたためか、呼吸が荒い。
「先輩! 見てください! お風呂! お風呂の中が光り始めました!」
「…………」
ピカピカと七色に光るネオンが、お風呂を幻想的に演出する。
世の中にこんなお風呂が存在するなんて……。
しかし僕のテンションとは正反対に、先輩は項垂れるようにその場に座り込んでしまった。
「あの……先輩、そこ濡れてますよ?」
「ああ……そうだな」
精気の抜けた声が返ってくる。
会話が途切れたのもつかの間……先輩はその場で洋服を脱ぎ出した。
「……オレも入る」
「へ……」
まさかの宣言に、思考が停止してしまった。
さっきは自分で誘ったくせに……実際に先輩が入ってくるとなると、だんだんと恥ずかしくなってきた。
慌てて泡の中へ、首元まで避難する。
いや、待てよ。
そこで僕の頭に、おじいちゃんから教えてもらった、ジャパニーズ温泉の入り方が思い出される。
日本の温泉は水着などの着用はせず、全員が裸で入ると言っていた。
だったらこの状態も別に恥ずかしいことではない、はず。
……ここ、温泉じゃないけど。
「そんなに深く入ると、またのぼせるぞ」
いつの間にか先輩は泡風呂の中に入っていた。
いつもの三つ編みが無くなり、まとめ髪になっている。
水面から出ている胸元はとてもがっしりとしていて……。
二学年差しかないはずなのに……どうしてこんなに違うんだろうと、お風呂に誘ったことを少しだけ後悔する。
「あ」
先輩の首元に、ドックダグが付けられていたのが目に入った。
「良かった……ドッグタグ、着けてくれたんですね」
「……コイツのせいで、大事になっちまったけどな」
先輩はチェーンを持ち、タグをプラプラとさせる。
「え? どういうことですか?」
「昨日の夜、テメエがいなくなったのは、
「どうしてそんな結論に……」
確かに突然いなくなったのは申し訳ないと思ったけれど……それでも、自分で出ていくという可能性だって、先輩だったら考えられたはずだ。
だからこそ、わざとこれを残していったんだけど……。
「……なんでこのドッグタグが二枚に割れるのか知ってんのか?」
「え……? ええと、確か……戦場で亡くなった時、一枚はそのまま遺体とともに残して、もう一枚は軍や家族への記録や報告用に回収して――――あ」
「分かったか。
つまりもう命はないと、先輩に伝えたと思ったわけか。
だからこそ先輩はさっき僕を見て、生きてて良かったと……言ってくれたんだ。
「それは……
「別に。結果はほとんど同じだったじゃねえか」
苦々しく笑う先輩に、僕は良心の呵責にさいなまれる。
「あの……僕のこと――――全て聞いてしまいましたか?」
「ああ。昨日テメエがいなくなったのは自分の意志だったことや、呪い、絵を使ったことまで全部聞いた。実際、信じたくなかったけどな……これまでのテメエの態度から、しっくりくることがほとんどだった」
「……すみません。色んなこと、もっと上手に伝えるべきでした……えっと……心配だったんです、先輩のこと」
「は?」
先輩は意味不明だと言わんばかりの表情を僕に向ける。
「だって……僕が絵に願いをかけていたことを知ってしまったら、
「それでオレが
「やっぱり凄いんですね……。えっと……ジローさんは、先輩が高層ビルを一〇棟薙ぎ倒したことがあるって仰ってましたけど……」
「は? 何言ってんだアイツ、テキトーなこと言いやがって……!」
そう言って先輩は拳を握りしめながら、小さく舌打ちする。
「あ……ですよね……! さすがにそれは……」
先輩がいくら世界ランク上位の凄い魔法使いとはいえ、まさかそんなことできるわけ……。
「一二棟だわ!」
「…………」
どうやら僕の先輩は、ジローさんの言う通りとんでもない人だったようだ。
規格外の話に、頭が追い付かなくなってきた。
「おい、そろそろ上がれ。顔赤くなってきてるぞ」
「え……あ、はい。そうします」
僕は泡風呂から出て、シャワーで頭と身体をサッと洗う。
透明なガラス戸を開き、置いてあったバスタオルで身体を拭いた。
後から入った先輩を残し、一人で部屋に戻ってきた。
ベッドの上に用意されていたガウンを羽織り、濡れた髪のままゴロンと横になれば、突然眠気が襲ってきた。
あと一日の命だというのに、お腹も空くし眠くもなる。
人間の身体って、単純なんだなぁ……。
そんなことを思いながら、僕は照明のリモコンに手を伸ばす。
部屋を薄明かりにして、そして目を閉じる。
「っ」
しかし。
意識が眠りへと落ちる直前、昨日の悪夢を思い出してしまった。
せっかくお風呂に入ったのに、嫌な汗が背中を伝う。
ドキドキと不快な心音がうるさい。
せっかくの眠気がすっかり覚めてしまったようだ。
「寝てんのか?」
眠れない辛さと戦いつつ、しばらくゴロゴロしていると、同じガウンを着た先輩が髪の毛を拭きながらやって来た。
「起きてます」
ベッドから起き上がり、僕は先輩を見上げた。
髪を縛っていない先輩の姿はとても新鮮だった。
濡れた髪のせいか、それとも髪を下ろしているせいか、いつもよりも幼く見える。
僕が入院していた時……病院で出会った頃の面影が、そこにあった。
「髪、すごく長いですね」
「この痣、隠すのにちょうどいいからな」
そう言って先輩は、髪を持ち上げ、襟足部分を露わにする。
そこにはおじいちゃんの背中にあったものと似て非なる聖痕があった。
確かに日本ではまだ刺青は一般的ではないため、悪目立ちしてしまうだろう。
「腹減ったな。ルームサービスでも頼むか」
先輩はガラスのローテーブルに置いてある、ラミネートされたメニュー表を手に取った。
簡単な軽食だけでなく、和洋中の食事まで用意されているようだ。
「僕は……大丈夫です。少し眠いので、寝たいです」
そう言って再び横になる。
「ちゃんと食っとけよ。大きくなんねーぞ」
「それ……今の僕に言われましても反応に困ります」
苦笑しながら答える。
すると眉間に皺を寄せたレイ先輩がベッド脇に腰を下ろし、すぐ横で面倒くさそうに……しかし優しく僕の頭を撫でてくれた。
「あの……実はさっき寝ようとしたんですけど上手く寝れなかったんです。たぶん、今朝……怖い夢、見たせいだと思います……」
「…………」
「みんなが、いなくなってしまうんです……せっかく仲良くなれたのに……」
「夢だろ。こんな状態なんだから、不安定なんだよ」
先輩の手が僕の頬に移った時、僕の頬が濡れていたことに気が付く。
「先輩……」
「なんだ」
「…………僕を殺してくれませんか?」
「本気で言ってんのか?」
「冗談でそんなこと言わないです……。
言葉を吐き出す間にも、涙は止めどなく流れていく。
「……バカ。んなに泣くなら、意地なんて張るんじゃねーよ。人間、いつ死ぬか分かんねえんだ。でも、必ず終わりは来る……それは決まってる。テメエはたまたま終わりが見えてるだけだ。きっと何歳で死のうが後悔のない人生なんか存在しねえよ」
「だって……ただ、普通の生活をしたかっただけなんです。普通に学校へ行って、普通に友達と遊んで……それを経験したら、満足して死ねるって思ったんです。思っていたんです……。なのに……こんなに後悔が残るなんて思わないじゃないですか……っ。もっともっと生きていたいなんて……こんなに『生』に執着するなんて……っ。思わなかったんです……っ。今までの人生で、そんなこと……初めてだったから……っ」
「んなの、しょうがねえだろ。生きたいってのは人間の本能なんだから……そんなに思い詰めんなよ。オレだって別に楽しんで生きてるわけじゃねえけど……死にたくねえとは思う」
「っ」
僕は勢い良く起き上がり、そして先輩の胸元に抱きついた。
薄手のガウンから出た肌から直接聞こえる、先輩の力強い心臓の音。
産まれてから母親にも父親にも触れられることなく、管に繋がれたまま大きくなった僕にとって、それは初めての温もりだった。
この感情がどんなものか分からなかったけれど。
けれど、そのもどかしい想いに、名前を付けたくはなかった。
「オレは……最期まで諦めねえからな……」
先輩の力強い腕が、背中に回る。
「でも……おじいちゃんがどんなに手を尽くしても、解けなかった呪いです。それに、絵の魔法だって……」
「明日、
「…………」
「オレがなんとかしてやる……絶対に」
そう言い切った先輩の言葉に安心したからか……僕はようやく眠くなってきたことに気が付いた。
薄っすらと目を閉じ、そして先輩の胸に頭を埋める。
先輩の胸元から見えたドッグタグが、部屋の薄暗い照明の光を鈍く反射していた。
「四季」
「はい……?」
「…………眠れないって、言ってたよな」
「そうですね…………あ……でも、今なら――――」
僕が言い終わる前に先輩は、僕の両肩を両手でゆっくりと……しかし強く包み込む。
二人分の重さに耐えかねたベッドが、激しく軋む音を立てた。
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