Ⅳ-Ⅴ 遠野孔洋
*四月二一日 日曜日 孔洋の家
目を開けるとそこには、知らない天井があった。
孔洋先輩の家に泊まって、そして……騒いでいたらいつの間にか眠ってしまったようだ。
遮光カーテンがかけられているため、部屋の中はまだ暗い。
しかし僅かな隙間から入り込む光のおかげで、もう朝だということが分かった。
身体を起こすと、そこはソファの上だった。
誰かが毛布がかけてくれたようで、気持ちよく寝ることができたみたいだ。
後ろを振り返れば、セミダブルのベッドで孔洋先輩が大の字になって眠っていた。
それじゃあ、神田さんは……。
広いリビングを見渡すと、壁に寄りかかり、座ったまま眠る神田さんの姿があった。
あんな場所で眠ていたら、余計に疲れてしまうだろう。
「神田さん、起きて下さい」
僕は立ち上がり、神田さんを揺り起こす。
しかし神田さんは起きることなく、それどころか床に倒れてもまだ眠り続けている。
「ええと……」
こんなところで横になってしまっては、更に身体が痛くなってしまうだろう。
僕は神田さんの身体をソファへ運ぼうと試みるが……。
ダメだ、僕の力ではびくともしない。
「なかなか起きないんだよなー、コイツ」
いつの間にか起きていた孔洋先輩が、お腹を掻きながらすぐ後ろに立っていた。
頭には寝癖がいくつもついていて、髪の毛にボリュームが出ている。
先輩は僕の隣にしゃがみ込み、倒れ込んだ神田さんの頬を楽しそうにつつく。
「低血圧なんでしょうか?」
「さあ。それはよく分かんねーけど……近付かない方がいいぜ。たまにコイツ、寝ぼけて抱き着いてくるから」
「え……そうなんですか?」
なんだか意外だ。
「……まだ初恋、引きずってるんだよ」
孔洋先輩は目を細めて、神田さんを見つめる。
「初恋?」
思いがけない単語に、僕は思わず聞き返す。
「この前、『シャンバラ』に来た、金髪碧眼で巨乳の姐さん覚えてるか?」
「ええと、イリーナさんですか?」
「そうそう。昔……つっても、まだ子供の頃な。シュウと姐さん、とある事情で一緒に住んでたことがあったらしくて……その時に一目惚れしたらしいぜ」
「そんなことが……なんだかドラマのようですね」
「でも姐さんは年下のシュウなんかに一切興味を示さず、ついに好きな人ができたっつって、出てっちまったとさ」
「それは……壮絶ですね」
二人にどんな困難が待ち受けて、そしてどうやって乗り越えていくんだろうと想像する前に、一気に現実に引き戻されてしまった。
初恋は実らないと一般的に言われているみたいだけれど、ここまで徹底的に可能性を潰されてしまうのも、なかなか珍しい例かもしれない。
それでも……まだその人を思っているなんて……。
「……神田さん、一途なんですね」
「そういう解釈もあるのか」
孔洋先輩はなるほど、と言って言葉を続ける。
「なあ。四季は、彼女とか……好きな人、いるのか?」
「え!? 僕ですか……!?」
想定外の質問に、思わず孔洋先輩の顔を凝視してしまう。
しかし……正面から見る孔洋先輩の表情は、僕が想像していたどの表情とも違っていた。
すごく……目が真剣だったのだ。
「ええと、僕はいないですね。そもそも恋愛経験自体ない……です」
「そっか……」
「先輩は、彼女いらっしゃるんですか?」
「オレも、彼女はいない……けど」
孔洋先輩は少しだけ掠れた声で言葉を続けた。
「好きな人は……いる」
そう言って、顔を両手で覆ってしまった。
意外にもその可愛らしい言動に、僕は思わずキュンとしてしまう。
「そ、そうなのですか……っ! どんな方なんです? 同じ高校ですか?」
好奇心のままに、僕は孔洋先輩に立て続けに質問をしてしまう。
孔洋先輩は顔を覆い隠したまま、それでも小さな声で答えてくれる。
「いや……その……高校生じゃない。でも、すごい優しくて……オレ、ずっと憧れてて……」
先輩から紡がれる言葉に、僕はワクワクが止まらない。
まさに僕が高校に入学する前に想像していた、青春トークだ。
「素敵です……!」
しかし、テンションが上がる僕とは逆に、孔洋先輩の声が段々と震えてきていることに気が付いた。
……なんだか雲行きが怪しい。
もしかしたら神田さんと同様に、何か障害がある恋愛なのかもしれない。
「先輩は……告白、しないのですか……?」
僕の質問に、孔洋先輩はうーんと悩んで……そして口角を少し上げる。
「したくないって……思ってる。言われた相手も困ると思うし、絶対に手の届かない人だって……知ってるから」
そう言って先輩は、顔から手を離す。
その下から見えた目は、悲しそうに潤んでいた。
まるで一人ぼっちになってしまったうさぎのようだ……。
頭の片隅でそんなことを思う。
「でも、いつか勢いで言っちまいそうで、怖い……。全てが壊れちまうこと……分かってるのに……」
「…………」
普段の明るさからは想像がつかない、孔洋先輩の怯えた表情に、僕は声をかけることができなかった。
そっと背中を擦れば、孔洋先輩はゆっくりと僕に身体を預ける。
カチャリとドッグタグが鳴らした金属音が、シンとしたリビングに響く。
先輩はしばらく僕の肩口によりかかっていた。
「ごめんな……」
すぐ耳元で聞こえる先輩の声。
「急にオマエに話したくなった……意味分かんないよな……。オマエ、もしかしてそういう魔法持ってんの?」
「いえ……僕の魔法は、少し何かを動かす程度のものなので……」
先輩の言う、精神的に干渉するような魔法では決してない。
「そっか……じゃ、オマエの人柄か」
先輩は自嘲の笑みを浮かべると、静かに目を閉じる。
「あの……僕なんかで良ければ、いくらでもお話聞きますから……」
「サンキュ……」
孔洋先輩は小さくそう言うと、安心したのか、すぐに寝息を立て始めた。
もしかして……寝ぼけていたのだろうか。
まだ暗い部屋の中で、そんなことを思う。
しばらくすると、先輩は深い眠りに入ってしまった。
僕は神田さんのすぐ隣に先輩を寝かすと、ソファから大きな毛布を持ってきて、二人にかける。
続いて立ち上がり、床に置いてあった大きなビニール袋を手に取った。
そしてローテーブルや床に散乱している空っぽになったお菓子の空袋やゴミをその中へ入れる。
「…………」
みんな、色々な悩みを持って……それでもそれを表に出さないようにして生きている。
まるで月みたいだと……そんなことを思った。
そして、それを隠し続ける姿が……とても綺麗だとも。
ちょうど二人が起きる頃、部屋の掃除が完了した。
*
「最悪の目覚めだった……」
神田さんがげっそりとした表情で壁に頭をぶつける。
「それはオレのセリフだ!」
次は孔洋先輩が声を上げる番だった。
先程掃除を終わらせ、トイレで用を済ませていた時のことだった。
リビングから突然聞こえる悲鳴。
慌てて現場へ向かえば、イリーナ……と呟いた神田さんによって、孔洋先輩ががっしりとホールドされていたのだった。
「すみません……ベッドとソファにそれぞれ運べば良かったですね」
僕もついさっき孔洋先輩に言われていたことなのに、すっかり忘れていた。
「いや……どう考えても悪いのはシュウだから。そもそもオレは運べてもこの筋肉ダルマいは重いから無理だと思うし」
「誰が筋肉ダルマだ!」
「オマエだよ! 無駄に筋トレしてるから重いんだよ」
孔洋先輩は部屋の一角にある、ダンベルや腹筋ローラーを指差す。
僕は昨日見た、聖痕の刻まれた神田さんの身体を思い出した。
「確かに……素敵な腹筋でした」
「フ……サンキュ」
「喜ぶな」
不敵に笑う神田さんにツッコミが入る。
「さて、オレはシャワー浴びたらケータイ買いに行ってくる。オマエらはどうする?」
「オレは……あ。宮守、このあと予定あるか?」
「いえ。特にないです」
「よし。オレも出かけるトコあるんだ。つーことで、オマエがケータイ買ってる間……ちょっと宮守借りるぞ」
神田さんはそう言って、僕の肩を軽く叩いた。
「いいけど……」
孔洋先輩は何が腑に落ちない顔をしたが、すぐにタオルを持ってお風呂場に向かった。
神田さんは鼻歌を歌いながら、リビングの扉のすぐ横にある壁に埋め込まれた広いクローゼットを開き、中から着替えを取り出す。
次にシャワーを浴びる準備のようだ。
「オマエも風呂入る?」
「できれば入りたいです……けど。着替えも下着も持ってきて無くて……」
「あー……そうか。下着位なら、コンビニで売ってるけど……」
そう言って神田さんはクローゼットの中から、今度は薄手の黒いニットを持って来た。
「ちょっと着てみ」
「え? は、はい……」
僕は今来ているパーカーを脱ぎ、神田さんに渡された服に腕を通してみる。
「…………」
「……なんか、悪い」
神田さんがサッと目を逸らす。
まるで子供が大人の洋服を着ているようになってしまった。
ダボダボを通り越して、肩からずり落ちてくる感じだ。
しかし裾は異様に長く、膝上まですっぽり隠れてしまう。
「……オマエら、何やってんの?」
シャワーを浴び終えた孔洋先輩がタオルで頭を拭きながらやってくる。
「いや、宮守が着替え持って来てねーから、オレのを貸そうと思ったんだが……」
「どう見てもオマエの体格とはかけ離れてるだろうが……彼シャツみたいになってんぞ……」
呆れた顔をしながら、孔洋先輩は神田さんと同じクローゼットの右側の方から服を取り出す。
二人の服はクローゼットの左右で場所を分けているようだ。
「ほら。オレの服の方がまだ小さいだろ」
孔洋先輩は首元が狭まったグレーのスウェットシャツと、細身のジーンズを渡してくれる。
「上は首元がしっかりしてるからずり落ちて来ることはねーし、ジーンズはベルトで調整して、ちょっとロールアップにすりゃなんとかなるだろ」
僕は孔洋先輩から渡された服を受け取り、早速着替えてみる。
先輩の言う通り、ぴったりとまではいかないが、不自然なほどブカブカにはならなかった。
「どうだ?」
「孔洋先輩の匂いがします」
「そういうこと聞いてんじゃねえよ!」
僕の答えに、孔洋先輩は僅かに頬を赤らめて反論する。
「あ……すみません。少し大きいですが、許容の範囲内だと思います。ありがとうございます」
慌てて言い直すと、孔洋先輩は満足したように笑った。
「じゃ、夕方くらいに駅前で落ち合おうぜ」
*四月二一日 日曜日 駅前
「腹減ったな。出かけるついでに昼飯も食べようぜ」
シャワーを浴び終え、孔洋先輩のマンションから出た僕達は、駅前に向かって歩いていた。
時刻は昼過ぎになっていて、僕のお腹の虫もちょうど空腹を訴えていた。
「ぜひそうしましょう!」
「んじゃ、どこにすっかな……」
神田さんはジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、操作を始める。
この辺りにあるランチの場所を探してくれているようだ。
やっぱり携帯電話って便利なツールなんだなぁ。
「宮守」
「なんでしょう?」
「あ、あのさ……オマエ……甘い物好きか?」
思いがけない質問だったが、僕は素直に頷く。
「はい。大好きです」
「……よし。それじゃあ、ここの店どうだ?」
神田さんが見せてくれたのは、たくさんの生クリームがかかったパンケーキが売りのお店だった。
キャラメルソースがかかったもの、ふわふわに焼かれたもの……どの写真もとてもキラキラしている。
「凄い美味しそうですっ!」
「だ、だよな!?」
嬉しそうに僕を見る神田さんの目が、今見た写真のように輝いていた。
そういえば、ストバでドーナツとケーキを食べていた神田さんの姿を思い出す。
「神田さん、甘い物お好きなんですか?」
「え!? ま、まあ……人並みに」
目線を逸らしながら答える神田さんを不思議に思いつつ、僕も首を縦に振る。
「それでは、このお店に行ってみましょう! 駅から近いみたいですしっ」
僕は神田さんの大きな手を取って歩き出した。
*
やってきたパンケーキ屋さんは、駅前のメイン通りから一本横に入った細い道の先にあった。
小さな煉瓦造りのこぢんまりとした外観に、小窓がいくつもついている、メルヘンな建物だった。
白い木目調のドアの前には同じ色の立て看板が置いてあり、筆記体でオープンの文字が書かれている。
……そこまでは携帯電話からの情報通りだったのだが。
僕達が呆気に取られてしまったのは、そこに並ぶ行列の人数だった。
ザッと見ただけでも一〇組以上が並んでいる。
僕達はひとまずその後ろにつくが……。
「女子とカップルしかいねえ……」
神田さんは辺りを見回し、怪訝な顔をして腕組みをする。
確かに、並んでる人達は女性のグループか、男女組み合わせしかいなかった。
「やはり、男性は甘い物に惹かれないのでしょうか……」
「後は、この環境のせいもあると思うけどな。並ぶ気失せるだろ。……オレ達はひとまず並んでるけど」
そう言われれば確かに、居心地は悪いかもしれない。
「神田さん、ここに来るの初めてなんですか? てっきり女性とデートかなにかで来られたことがあるのかと」
「こんなとこ、一緒に来る相手がいないな」
「それは意外です。神田さん、背も高いし、格好いいし……凄くモテそうなのに」
声をかけられれば、すぐに着いてきてくれる相手がいくらでもいそうだ。
神田さんは僕から顔を背けながら、更に眉間の皺を深くする。
「そういう……付き合ったりするの、面倒くさいだろ」
それは確かに、神田さんらしい意見だと思った。
「でも神田さん、なんだかんだ言って凄くマメに尽くしてくれそうなイメージです」
「なんだよ、それ」
「うーん……どんなことを言っても、ちゃんと受け止めてくれそうな安心感があるっていうんですかね。振り回しても、許してくれそうです」
「…………」
神田さんは少し考えるような素ぶりを見せて、そして大きくため息をついた。
「……オマエの言う通りだよ。振り回されるのが性に合ってる。ワガママ言われて疲れた方が、ラクなんだよな。逆に何も言わないヤツは苦手だ」
神田さんは観念したように両手を上げる。
今言った性格は、僕のイリーナさんのイメージと見事に重なった。
「それは……すごく苦労しそうですね」
「ああ。自分でも嫌と言うほど分かってる」
神田さんが苦笑いを浮かべたところで、並んでいた先頭の人達が店内へと呼ばれる。
僕達の順番になるのはまだまだ時間がかかりそうだ。
「オマエは……女とか興味無さそうだな」
「ええ!? そう見えます? 人並みには、青春したいなーって思ってるんです……けど……」
「けど?」
「僕の周りって格好いい人が多いので……僕自身がそういう対象に、ならない気がします」
がっくりと肩を落とす僕に、神田さんはぽんぽんと頭を叩いた。
「椿乃学園は特になー……芸能人とか政治家とか、変わった家柄のヤツ多いしな。普通の青春……とは少し離れてる気がする」
神田さんの言葉に、思い当たる人達が頭の中に次々と思い浮かぶ。
同じクラスの浅倉くんは由緒ある家系で大地主らしいし、小鳥遊くんのお父さんも美容院をいくつか経営していると言っていた。
恭次先輩なんて、日本有数の大企業……『イーストホールディングス』の御曹司だ。
このメンバーと同じ舞台に立つことが間違っている気がする。
「そういや、なんでオマエ、椿乃入ったんだ?」
「えっと、あの……おじいちゃんがオススメしてくれたから……と言いますか。あ、でもちゃんと編入試験は合格したんですよ」
宮村先輩には出来レースとか言われてしまっているが……。
それでも、テストではかなりの得点を獲得することができたと自負している。
「あの学校の試験パスするってすげーな……。しかもオマエ、入院してたとか言ってたよな? もう大丈夫なのか?」
「え……?」
どうして神田さんがそのことを知っているのだろうと思ったが……そういえば、石河さんが言ってしまったんだっけ。
石河さんは、
神田さんに訊いてみたいけれど……。
そうなると僕自信の話もしないといけなくなる。
それは……良くない流れになりそうだ。
「宮守?」
「え!? は、はい。もう身体は元気です。やはり長期入院してたせいか、人よりも体力がないですが」
「長期入院か……全然そんな感じしないな。見た目じゃ分からないもんだな」
神田さんは不思議そうに言葉にすると、僕のことをジッと見つめる。
その視線に耐えかねて慌てて視線を逸らした時、並んでいた先頭の一組が店内へと呼ばれて、店の中に入っていく。
やはりまだまだ時間がかかりそうだな、と……熱くなった頬を押さえながらそう思った。
*四月二一日 日曜日 商店街
午後のまったりとした空気が流れる商店街で、僕と神田さんは先程のパンケーキの感想を飽きること無く語りながら歩いていた。
駅前に比べたらここは静かで、人通りも少ない。
遠方から……というよりは近所の人が、夕食やちょっとした買い出しに来る場所のようだ。
店は個人商店が多いため、個性的なお店が並んでいる。
「さっきのスフレパンケーキ……初めて食べましたが、口の中で溶けていくような食感が凄く新鮮でした」
僕が食べたのは、神田さんにおすすめしてもらった、スフレパンケーキという三段に重なったパンケーキだった。
差し込んだナイフが勝手に沈んでいくほどにふわふわに膨らんだ生地のせいか、普段食が細い僕でも簡単に完食してしまった。
「だろ? 隣の席のヤツらが頼んでたオーソドックスな薄めのパンケーキも好きなんだが……スフレの方、別の店で一回食べたらめちゃくちゃハマっちまって……。さっきの店、それの評価が高かったから行ってみたかったんだが……行って正解だったな」
神田さんは満足そうに何度も頷く。
僕達は食後の散歩ついでに、神田さんの目的地である……『パティスリーウエノ』に向かって歩いていた。
目的はもちろん、ずっと食べれなかった新作のプリンを購入するためだ。
「甘い物食べた後に、また甘い物で悪いな。このまま買えないまま終わっちまいそうで……孔洋のヤツ、いくら頼んでも全然買ってこねーし」
神田さんは複雑な表情を浮かべる。
そういえば、学食で孔洋先輩に電話がかかって来たことがあったっけ。
今なら、それは神田さんだったのだとすぐに分かる。
「いえ、甘い物好きなので全く問題ないですよ」
「宮守……! オマエ……オレと『甘味同盟』組んでくれ……!」
「はい、ぜひ!」
喜んで返事を返すが、しかし時間は午後をとっくにまわっている。
この時間に行ってもプリンは残っているのだろうか。
「ほら」
不安そうな僕の顔を見て、神田さんは携帯電話の画面を見せてくれる。
ショーケースに入ったたくさんのプリンの画像と、ついさっきの時間が記入されていた。
「あまりにも人気で買えない人が続出してるってんで、一日二回商品補充することにしたらしいんだ。これ、リアタイの投稿だから、今からいけば余裕で買える」
「す、すごい……!」
お店の情報をすぐに知ることができるなんて、なんて近未来的なんだろう……!
思わず小さく拍手をしてしまう。
そしてようやく、目当ての店に到着する。
白色に塗装した木材を基調とした建物の入口に、『パティスリーウエノ』と書かれた立て看板が置かれていた。
「あ、ありました!」
僕は店の外から店内を覗いてみる。
神田さんの言う通り、ショーケースにはプリンがずらりと並べられていた。
「神田さん、早速行きましょう!」
逸る気持ちを押さえて、神田さんの手を引く。
しかし神田さんの足は、その場に固定されたままちっとも動かない。
「神田さん? どうしました?」
あんなに待ち望んでいたのに、一体どうしたんだろう。
見上げた神田さんの顔は、なんだか沈んだ表情をしている。
「悪い、宮守。そうしたいのは山々なんだが……」
神田さんは店内をガラス越しに見て、小さくため息をつく。
「今日は特に店に入りにくいな……」
そう言って言葉を少し濁す。
何か店の中にあるのだろうか?
大きな透明な窓から店内の様子を確認してみるのだが……神田さんが中に入るのを拒む理由が、ここからではよく分からなかった。
「あの。それじゃあ、僕が買ってきましょうか?」
「え……? い、いいのか?」
遠慮がちに訊く神田さんだが、嬉しそうな気持ちを隠しきれていない。
「構いませんよ。せっかく買えるのに勿体ないですもん」
「宮守……! オマエ、いいヤツだな……!」
「そ、そんな。困っている時はお互い様ですよ」
おじいちゃんもよくそう言っていた。
目の前で困っている人がいて、助けてあげられる余裕があるのであれば、できる限り手を差し伸べなさいと。
「それでは、ちょっと行ってきます」
「ああ。それじゃあ……二つ頼む!」
「了解です」
僕は神田さんに向かって親指を立てると、一人お店の中へ向かう。
扉を開くと、鼻腔をくすぐるバターと砂糖の甘い匂いが僕を包み込んだ。
プリンの他にも、焼き菓子などが可愛くラッピングされて並べられている。
ショーケースに飾られたケーキはどれも美味しそうだ。
プリンを買いに来たのに、あれもこれも欲しくなってしまう。
僕はひとまず、近くに立っていた細身の女性店員さんに、プリンを四つ、二つに分けて梱包をしてもらうよう頼んだ。
会計をするためにレジの前へ移動する。
「いらっしゃいませ」
レジに立っていたのは、僕と同じ高校生位の男子だった。
目元がキリッと上がっていて、とても綺麗な顔立ちをしている。
細身の身体にエプロンをつけ、長い髪を一つにまとめ三角巾の中に入れていた。
新人のアルバイトだろうか。
レジにお金を入れたり、商品を詰める様子が少しぎこちない感じだ。
「あー、煉。ダメよ、その箱じゃ小さいし、折り目の場所も違うわ」
品物を並べていた女性店員さんが、すかさずフォローが入る。
「プリンを入れるときはこうするの。ほら、閉めると箱が歪んじゃうでしょ?」
「あ、本当だ」
僕から声が漏れてしまった。
「ごめんなさいね、お待たせしてしまって」
女性店員さんは苦笑しながら、慣れた手つきで商品を梱包していく。
「す、すまない……」
その人は申し訳無さそうに、顔を赤らめる。
「いえ、大丈夫です。あの……箱もそのままで平気ですよ。プレゼント用じゃないので」
「そう? ありがとう、助かるわ」
店員さんの横で、その高校生らしき人も安心したように笑う。
二人の笑った目元がそっくりだと思った。
もしかしたら、姉弟だろうか。
二人の纏う雰囲気から、なんとなくそう思った。
「ありがとうございました」
二人の店員さんが、笑顔で見送ってくれる。
「やはり、自分は向いてないな……」
高校生らしき店員さんは小さな声でそう言って、眉毛を下げた。
*
「ただいま戻りました」
店から少し離れた商店街の木製のベンチで、神田さんは座っていた。
「サンキュ。助かったぜ」
僕からプリンの入った箱を受け取ると、本当に嬉しそうに微笑んだ。
しかし、僕の持っている箱と自分の箱を交互に見ると、不思議そうな顔をする。
「なんかオマエの箱、歪んでね?」
「高校生のアルバイトらしき人がやってくれたのですが、折り目がうまくつかなかったみたいで。でも自分で食べるだけなので、そのままもらいました」
「アルバイト……」
神田さんは小さく呟く。
「なあ、宮守。オマエ、プリン何個買ったんだ?」
「神田さんと同じく二つです」
「そっか……」
そう言って神田さんは、僕の箱と自分の箱を入れ替えた。
「いいよ、オレがこっちで」
「え、でも……」
「オレだって、自分で食べるだけだからな」
箱を僕が届かない位に高く上げてしまう。
「相変わらず、不器用だな……」
神田さんはそう言うと、愛しい物を見るような瞳で、プリンの入った箱を見つめた。
「さて、行くか」
神田さんはベンチから立ち上がると大きく背伸びをする。
そろそろ孔洋先輩との待ち合わせの時間になる。
駅前に戻ろうと、回れ右をしたその時だった。
「……ちょっと待ってくれ!」
「!」
誰かを呼ぶ声がして、僕達はその声の方へ自然と顔を向ける。
『パティスリーウエノ』にいた男の方の店員さんが、こちらへと向かって走って来るところだった。
先程とは違い、エプロンも三角巾も外している。
何か忘れ物でもしてしまっただろうか。
僕は二人の横で持ち物を確認するが……しかし、店員さんは一切僕を見ていないことに気が付いた。
彼は、神田さんのことをただまっすぐに見つめていた。
「神田……だったか? 同じクラスだった……」
その人は、神田さんに向かって不安そうに声をかける。
「……あ、ああ」
見るからに動揺している神田さんの声は、僅かに震えているのが分かった。
「すまない……特に用事はないのだが……」
その人は何かを言いかけ、しかし何を言っていいのか分からない……という表情になる。
「なんだか懐かしい気持ちになって、話しかけてしまった……」
ようやく辿り着いた言葉を伝えた店員さんは、少し安堵した表情になり……そして照れくさそうに微笑んだ。
「いや……」
神田さんはそれに小さく答える。
「中学も同じだったな……それなのに、不思議だ。会話らしい会話をしたことなど無かった……。無かったのに……」
その人は自分の言葉に戸惑うように視線を泳がせる。
柔らかな春風が吹き、長い髪を揺らした。
「……っ」
神田さんは何かを言いかけ……ぐっと歯を食いしばるその表情から――――分かってしまった。
この人が……レンさんなのだと。
「上野……だよな。オレが学校辞めてから……ええと……あ。弓道、続けてるか?」
神田さんは、どこか吹っ切れたように話しかける。
「……ああ。個人優勝の座は誰にも渡していない」
「そっか。さすがだな」
それを聞いた神田さんは、自分のことのように嬉しそうだった。
「そのまま頑張れよ」
神田さんはそう短く答える。
そして、軽く僕の肩を叩いた。
行こう、という合図だった。
「神田さん……」
小さく声をかける僕に、神田さんは優しく微笑んで……そして。
「まだ、いいんだ……」
空気に溶けてしまいそうな声でそう呟く。
「みんなを守れる位強くなって、そしたら……今度はオレの方から迎えに行くから」
そう言って神田さんは、力強く笑った。
*四月二一日 日曜日 駅前
「孔洋先輩! お待たせしまし……た……」
約束した駅前まで到着する頃には、すっかり夕暮れになっていた。
この前神田さんと待ち合わせした、ロータリーは迎えの車が多く集まっていて、帰宅途中の多くの人が駅に向かった歩いている。
「おせーよ、オマエら……」
そこには少し疲れた顔をしている孔洋先輩と、スラリとした身長の人、そして小柄な女性が一人ずつ……。
「え……桃矢先輩……! と、田端さん……!?」
孔洋先輩の隣に立っていたのは、桃矢先輩と、モデルの田端桃香さんだった。
相変わらず二人とも整った顔立ちをしていらっしゃって……と、呑気なことを思った瞬間、頭の中にあの光景がフラッシュバックする。
今、桃矢先輩と会話をするのは凄く気まずいのだが……。
ここでふと気付く。
田端さんは前とあまり変わらない様子だが、桃矢先輩が普段と違う雰囲気になっていることに。
なんていうか……面倒見のいい先輩のイメージからかけ離れた……うーん。
「あー……四季、なんとかしてくれよ、この元ヤン」
孔洋先輩はぐったりしながら僕に助けを求める。
「え……どうかしまし……」
確かに……おかしい。
パッと見ただけではいつもの桃矢先輩なのだけど……。
目つきが鋭く、まるで飢えた獣のようだ。
「『鮮血の
孔洋先輩が疲れた表情でぼそっと声に出す。
「オマエ……次それ言ったら二度と歩けなくするからな……」
低い……!
桃矢先輩の声がいつもよりもずっと低い……!
不機嫌を通り越して、今にも誰かに殴りかかりそうな勢いだ。
「コイツ……駒込の知り合いだっけ」
神田さんが小声で呟く。
僕は頷き、同じ中学の人ですと補足する。
「げ……っ」
そして田端さんから漏れる、田端さんらしからぬ声。
田端さんは、神田さんを見て、心底嫌そうな顔をしている。
「……聞いてくれよ四季。桃矢のヤツ、田端さんをナンパしてきた相手に掴みかかってたんだよ。その時たまたまオレが通りかかって止めたんだけどさ」
「いや、田端一人で充分撃退できるだろ」
「そうよ。私一人でも余裕だったのに……って、神田くん? 余計なこと言わないでくれる?」
田端さんが神田さんに詰め寄っていく。
神田さんは笑いを堪えながら、僕の後ろに移動した。
「なんでそんなにイライラしてんだよ。そんな眉間に皺寄せたらさ、無駄に整ってる顔が勿体ないぜ?」
孔洋先輩が宥めるように、桃矢先輩の肩を叩くが……。
「みんなして人の見た目にごちゃごちゃ言いやがって……」
拳を振るわせながら再び怒りを露わにする桃矢先輩は、放っておけば再び誰かに八つ当たりしそうな勢いだ。
「…………」
先輩のストレス……。
僕の頭の中でグルグルと周る放課後の事件……。
やはりアレが原因な気がするけれど……。
どうやって桃矢先輩を落ち着かせるか、この場にいる全員で考えを巡らす中。
「あ、ねえねえ、キミ。凄く綺麗だね! もしよかったら……」
と、こちらの事情など知りもしない男性が、空気を読まずに近付いてきた。
しかも、よりによって田端さんではなく、桃矢先輩の方に……!
再び先輩の瞳がギラッと光る。
まるで次のターゲットを見つけた肉食獣のようだ。
「悪いけど、コイツ。オレの連れなんで」
神田さんはスマートに、その人と桃矢先輩の間に入る。
「四季、とりあえず平倉連れて移動するぞ! じゃないと人殺しになっちまう……!」
多少大袈裟な気もするけど、孔洋先輩の言葉に僕は強く賛同し、桃矢先輩の背中を押す。
「どこに連れて行きますか……っ?」
「そうだな……とりあえず『シャンバラ』! この時間ならもう、マスターも来てるはずだから!」
桃矢先輩が暴れ出す前に、もう一度商店街への道へ戻る。
「ちょっと! 私も行くわ」
田端さんも僕達の後ろに着いてくる。
「シュウ! そいつ撒いたら、マスターのとこ来い!」
孔洋先輩の言葉に、神田さんは片手を上げて返事をした。
*
「マスター!」
ドアの上方についたベルが激しく音を立てる。
孔洋先輩は『シャンバラ』の中に飛び込むと、慌てて頼みの綱の人の名前を呼ぶ。
「孔洋くん? どうしました? 今日はシフトお休みのはず……」
マスターさんは不思議そうに首を傾げるが、訳アリ顔な僕達を一見すると、すぐにお店の奥に入れてくれる。
昨日と同じく、開店時間前のせいか、まだ店内は薄暗い。
しかし、仕込みが終わった料理の美味しそうな匂いが、店いっぱいに満ちていた。
「あれ、孔洋と、宮守と……え? 田端桃香に……珍しいな、『鮮血の
お店の制服を着た吉野さんが、肩まで伸びた髪の毛を縛りながらやってくる。
耳についたたくさんのピアスが揺れていた。
その二つ名を聞いた桃矢先輩の目が再び光る。
孔洋先輩はあーあ……と言って肩を竦めるが、助ける気はないようだ。
ゆらりと立ち上がり、吉野さんに近付いていく桃矢先輩を、生温い目で見守っている。
「ちなみに『鮮血の
僕だけに聞こえるように、孔洋先輩が囁く。
「え、吉野さんが?」
「アイツ、未だに中二病から抜け出せない、可哀想なヤツなんだよ。ちなみに
「
ここに来て、初めて先輩達のバンド名を知った。
「カッコいいんだから、別にいいだろっ!」
ジリジリと迫る桃矢先輩を牽制しつつ、吉野さんはこちらに言葉を投げる。
「
「ああ。アイツ、あんなんだけど……
孔洋先輩が教えてくれる。
そういえば、この前成瀬川先輩にも同じことを言われた気がする。
創設メンバーということは、あのたくさんの魔法使いを束ねる実力を持っているということだろうか……。
「他にも四人いるんだけど、あんま表には出てこないな。その内の一人は、椿乃にいるけど」
「同じ学校にいる、
「そのアリサが夢中になってるヤツだよ。そいつが一人。あと二人は
「吉野さんって、凄い人なんですね」
「何に対して凄いのか知らねーけど、凄い中二病だってことは確かだな」
「オマエら! 解説してねーで止めろよ!」
「人の嫌がるあだ名はやめましょうって、小学校で習わなかったのか?」
呆れ顔の孔洋先輩が、吉野さんに言葉を投げかける。
「嫌がる……!? なんで!? めちゃくちゃカッコいいだろ!?」
「ほんと、男子ってバカばっか……」
田端さんはいつの間にかカウンター席に座り、ジンジャーエールをストローで飲んでいた。
マスターさんが用意してくれたらしい。
吉野さんの相手をすることに飽きた桃矢先輩が、田端さんの隣の椅子にどかっと腰かける。
「せっかくとーやくんと久しぶりのお出かけだったのに、謎のメンバーが増えちゃったね」
「いや、元凶はオマエら……」
「孔洋くん、ちょっとこっち来てくださいねー」
火に油を注ぐ直前に、孔洋先輩はマスターさんに両頬を引っ張られ、店の奥に退場していってしまった。
「今日は二人でお出かけだったんですか?」
「うん。そうだよ、最近お互い忙しくって、なかなか会えなかったんだけど。今日は二人ともヒマだったから、ご飯行こーって」
田端さんは眩しすぎる笑顔を僕に向けてくれる。
「仲良しか」
遠巻きから、桃矢先輩に解放された吉野さんのツッコミが入る。
「えー普通じゃない? よく二人で恋バナしたりするよー」
「イトコ同士で……しかも男女で恋バナなんてしねーよ……」
吉野さんが呆れつつ、各席のペーパーや調味料の補充始めたところで、店に神田さんが入ってきた。
どうやらさっきの人からうまく解放されたようだ。
「おや、神田くん。お久しぶりです」
それに気付いたマスターさんが、カウンターの奥から出てくる。
「マスター、久しぶり。心配かけて悪かったな。なんか色々と、口裏合わせてくれたみたいで、助かったよ」
「いえ、お気になさらず」
マスターさんは優しく笑って軽く会釈をする。
神田さんは店の奥に進むと、一枚の名刺をポケットから取り出し、桃矢先輩の前に差し出した。
「ナンパじゃなくて、スカウトだったみたいだな」
「……どっちも同じだ」
桃矢先輩は拗ねるように顔を背ける。
「なんでそんな怒ってんだよ。オマエ、自分の顔好きなんじゃねーの?」
マスターさんと共に戻ってきた孔洋先輩が、カウンター越しに桃矢先輩に話しかける。
『シャンバラ』にいるのにいつもの制服姿じゃないため、なんだか変な感じだ。
その問いに答えたのは、田端さんの方だった。
「ねぇ、私って可愛いと思う?」
そう言って立ち上がり、孔洋先輩に顔を近付ける。
「め……めちゃくちゃ可愛いと思います!」
現役のモデルさんから至近距離で話しかけられ、孔洋先輩は真っ赤になって、両手で顔を覆う。
「でも、私の好きな人は……私の顔っていうか私のこと、恋愛対象として好きじゃないんだって」
「そんなセンス悪いヤツがいるんすか!」
今度は顔から両手を離し、怒りの声を上げる。
「私、自分のこと可愛いと思うけど……。好きな人に褒めてもらえない自分のことは嫌いだよ?」
「それは……」
「他責だって分かってるけどね……。でもやっぱり、第三者からどんなに貶されようと、好きな人から褒められるのが、一番嬉しいんだよ。逆を言えば、どんなに人が羨むものを持っていても、自分が望むたった一人からなんとも思われなければ……それは自分にとって足枷でしかない」
「……つまり、え?」
孔洋先輩は目を白黒させて、答えを手繰っていく。
「平倉は好きなヤツがいて……でもそいつは平倉の顔を、嫌い?」
「もちろん、顔だけじゃないよ。でも、自分でどんなに努力しても、相手に振り向いてもらえないことだってあるんだよ。年齢とか性別とか……色々な壁があるでしょう?」
「あ……」
田端さんのその言葉に、孔洋先輩は何か思い当たる節があるようで……小さく呻く。
「そうか……。成瀬川と小鳥遊……アイツら奇跡の上に成り立ってるんだな……」
「結論がそれかよ」
吉野さんが孔洋先輩の頭を軽くチョップした。
「でも、顔整ってて損することないだろ」
「どうだか。この顔のせいで、好かれたくもないヤツに好かれるからな」
桃矢先輩がようやく重い口を開いた。
やはり、放課後の出来事が桃矢先輩が荒れている原因のようだ。
「ったく、女々しいなぁ。そんなに見た目でうだうだ言われなくないなら、いっそのこと坊主にすりゃいいんだ」
吉野さんが面倒くさそうに提案する。
どうやらその話題に飽きてきたみたいだ。
「ほら、もう開店だから帰った帰った。オマエら、明日学校だろ」
吉野さんはそう言って全員を席から立たせ、店の出口へと追いやっていく。
「オマエも学校じゃん!」
孔洋先輩が抗議の声を上げるが、吉野さんは聞く耳を持たず背中を押していく。
「まだいてくれて構いませんよ。今日はそんなに混まないと思いますし」
「ダメだぜ、マスター。コイツら甘やかしちゃ」
吉野さんはそう言って腰に手をあて、仁王立ちする。
確かにこれ以上ここにいたら、お店の邪魔になってしまう。
僕達はひとまず外に出ることにした。
「マスター。これ、迷惑料。あとで食べてくれ」
神田さんは、カウンター机にさっき買ったプリンを置いた。
「いいのですか?」
「いつも世話になってるからな」
神田さんは後ろで心配そうに見つめる僕に気付くと、こっそりと内緒話をしてくれる。
「プリンよりも、もっといいことあったからな。今度は自分で堂々と買いに行くさ」
「あ……それじゃあ僕も」
神田さんが置いた箱の横に、自分のプリンも並べる。
「え……オマエは……」
「いいんです。また、神田さんと買いに行きますので」
僕がそう言うと、神田さんは僕の頭に優しく手を置いた。
「お二人共。ご馳走様です」
マスターさんが嬉しそうに微笑んだのを確認して、僕は扉から外に出た。
辺りは薄暗くなっていて、冷たい風が吹いていた。
僕達は狭い階段を上り、地上へ辿り着く。
商店街を抜け、なんとなく駅前に向かって歩き始めた。
「……なんかモヤモヤしてたのバカらしくなってきたな」
「え……」
突然桃矢先輩はそう言うと、空に向かって大きく背伸びをする。
長い髪がふわりと揺れた。
さっきまでの顔付きとは違い、憑き物でも落ちたかのようなスッキリとした表情になっていた。
「確かにアイツ……飛鳥の言う通りだ。見た目で言われるのが嫌なら、変えればいいんだよな」
「ま、まさかとーやくん……! 本当に坊主にしないよね……!?」
田端さんが半泣きのような声を上げるが、それに桃矢先輩は苦笑する。
「ああ……さすがにまだ、そんな勇気はない」
「良かった……」
つられて漏れてしまった僕の声に、桃矢先輩は笑う。
「オマエもかよ」
「い、いえ……っ! 先輩がどんな髪型になろうが、きっと似合うと思いますけど……けど……っ! やはり、ヤケになるのは良くないです! 戦争で勝つためには常にアンテナを張り、大局を見失ってはいけないと……おじいちゃんも言っていました」
「いやいや、何の戦争だよ」
「恋よ!」
神田さんのツッコミを、田端さんが的確に返した。
「うまいこと言ったつもりか」
「……人生、難しいよね」
会話の流れなど全く気にせず、田端さんがぽつりと呟く。
「どこが。オマエなんかイージーモードの頂点だろ」
神田さんはすかさず答えるが……。
「ねえ、宮守くん。今から私とデートしない?」
「え、ええ……っ!?」
田端さんからの突然のデートの誘いに、僕は慌てて首を振る。
「あの……っ! 田端さんにはもっと相応しい方が……っ! いると思いますので……っ!」
僕がお断りした瞬間、田端さんの目から光が消える。
「……断られたんだけど。どこがイージーモードなのよ」
「そりゃあ……まあ……」
「結局、ないものねだりなんだよ。手が届かないから、欲しくなるの」
そう言って笑う田端さんの笑顔は、夜のネオンの下でとても綺麗に輝いていた。
「手が届かない、か……」
桃矢先輩はそう呟くと、まだ捨てていなかった名刺を見つめる。
先輩が何を考えているのかは分からなかったが、それでも、前向きな一歩を踏み出そうとしていることだけは伝わってきた。
「なぁ、そろそろ帰ろうぜ。オレ、吹っ飛んだデータ修復しないといけないんだよ。アプリ入れ直さねーと」
孔洋先輩は、ポケットからピカピカの携帯電話を取り出した。
「新しい携帯電話ですね!」
「そ。ケータイ買うのに、母親の同意取るのめちゃくちゃ大変だったぜ!」
「オマエの母親、オマエに甘々じゃん。買い渋られることなんてあるのか?」
神田さんはそう言って腕組みする。
「めっちゃあるぞ。ベースとか趣味のものならそうでもないんだけど……ケータイは知らない人と繋がる危険性があるから危ないって、何度言われたことか」
「相変わらずの過保護だな……今回はなんて言って買ってもらったんだ?」
「誕生日の前借り……」
「それ、この前も言ってなかったか?」
「オレ、このままだと三〇過ぎまでケータイの前借りだけで、誕プレ枠が埋まっちまう」
「いつまで親にプレゼント貰うつもりだよ……」
神田さんは呆れた表情で返すが……それはすぐに孔洋先輩の声によって打ち消された。
「いいこと思いついた! せっかくだし、みんなで写真撮ろうぜ!」
言うや否や、孔洋先輩はカメラを構える。
「昔のデータはクラウドに入ってるからさ、この機種では一枚目。記念だな!」
「え!? ちょっと待って……! 今、前髪直すから……!」
「大して変わんねーだろ」
「そんなことないもん!」
田端さんは神田さんをキッと睨みつける。
「んじゃ、撮るぞー。四季、もっとこっち寄って」
「は、はい……!」
「ケータイ壊した記念だな」
「変な記念日つくんな!」
カシャリと音がして、全員が画面の中に収まる。
それを見ながら、各々が感想を言い合うのを、僕は一歩下がった位置で見ていた。
このなんでもない日が、思い出の一ページとして残っていくことが嬉しかった。
*四月二一日 日曜日 学生寮
「お、今日は帰ってきたんだ。不良息子」
学生寮の自動ドアを抜けると、私服姿の宮村先輩とばったり出会った。
相変わらず全身を黒一緒でまとめていて、ホストのようだけれど……しかしそれが違和感無く似合っている。
「あ……ただいま、です」
「うん。おかえり……なんかイメージと違う服着てるね」
そう言って宮村先輩は僕を上から下まで見る。
そういえば、孔洋先輩から洋服を借りていたんだった。
「変でしょうか……?」
「ううん。似合ってると思う」
宮村先輩はニッコリと笑う。
やはり褒められるのは、お世辞でも嬉しい。
「あ、そうだ。宮守くんに訊きたいことがあるんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「綾織先輩、なんで荒れてるの?」
「へ……?」
思ってもいない宮村先輩からの質問に、僕は首を傾げるが……。
「あ……」
しかしすぐに原因らしき出来事を思い出す。
「そういえば、口喧嘩して……そのままでした」
「ええっ!? 口喧嘩!? キミと!? 綾織先輩が!?」
宮村先輩らしからぬ勢いで驚かれてしまった。
「ええと……口喧嘩ってことは……宮守くんも言い返したってことだよね?」
「そういうことになります……かね」
「それは……凄く面白いね!」
宮村先輩の表情がパッと明るくなる。
どうやら凄く興味を持たれたようだ。
「そ、そうでしょうか……」
喧嘩と言うほど言い争ってはないと思うんだけど……。
それでも僕が原因だとしたら……。
「仲直りしないと……ですね」
「そうだねぇ。まあひとまず、命大事にね」
宮村先輩はそう言うと、自動ドアから外へ出て行く。
見上げた時計は、一八時を過ぎていた。
こんな時間から出かけるのだろうか。
まだ門限までは時間があるけれど……。
僕は宮村先輩の行動を不思議に思いつつ、僕は自分の部屋へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます