Ⅲ-Ⅴ 東郷恭次


 *四月一六日 火曜日 学生寮



 昨日の暗い雲はどこへ行ってしまったのか、今日の天気は快晴だった。

 窓から外を覗けば、桜の木々がまだまだ元気に花を咲かせている。

 昨日の風でも、思ったより花びらは散らなかったみたいだ。

 せっかくならこの桜並木道を長い間楽しみたいと思っているのは、きっと僕だけじゃないだろう。

 すでに登校を始めている生徒達も、そのほとんどが思い出したかのように桜を見上げ、そして目を奪われている。

「あ……」

 僕もその一人になっていたことを思い出す。

 早く準備をして、学校へ向かわないと。

「そうだ……!」

 今日は恭次先輩とアルカディアコーポレーションに潜入する日だった。

 変装道具、もとい、潜入衣装を持っていかないと!

 しまい込んであった紙袋を引っ張り出すと、休日用の私服をベッドの上に並べる。

 あまり服のレパートリーがないため、これではただの休日の僕だ。

「困りました……」

 けれど、これ以上服選びに時間をかけても何も変わらない。

 服が突然増えるわけではないのだから。

 こんなことなら昨日、洋服をちゃんと購入しておくべきだった。

「よし……これでいきましょう!」

 自分の私服の中でも比較的大人っぽいであろう黒いシャツと、ジーンズを選抜してみる。

 その二つを紙袋へと詰め込むと、忘れないようにドアの入口の前へと置いておくことにした。



 *四月一六日 火曜日 並木道



「あ……」

 前方に一人で歩いている成瀬川先輩の姿が見える。

 その長身と、スタイル……風に揺れる長い髪で、後ろ姿でもすぐに見つけることができた。

「成瀬川先輩!」

 声をかけると、先輩はすぐに後ろを向いてくれた。

「ああ、宮守。おはよ」

「おはようございます!」

 僕は先輩の横にかけ寄り、その隣に並んだ。

 シャンプーの香りだろうか……柑橘系の匂いが鼻孔をくすぐる。

「昨日はありがとう、助かったよ」

「い、いえ……お役に立てたかは微妙ですが……っ」

「アズもお礼を伝えておいてって言ってたよ」

 先輩はそう言って、僕を安心させるように笑う。

「小鳥遊くん……まだ、熱は下がらないんでしょうか?」

「うん……いつも、二、三日はこんな感じ。ゆっくり身体を休めるしかないよ。心配してくれてありがとう」

「いえ……」

 少し魔法を使っただけであんなに具合が悪くなってしまうなんて……。

 やっぱり代償デメリットって怖いものなんだ……。

「宮守も、自分の魔法と代償デメリットが分かっているなら、使う時は気を――――」

「えーっ!? 成瀬川と……宮守くん!?」

「!」

 突然、背後から聞こえた叫び声に驚き、僕と先輩は二人揃って振り返る。

 そこには、両手を口に当てた宮村先輩が目を丸くしながら立っていた。

「あ。おはよ、宮村」

「おはようございます、宮村先輩」

 僕達は不思議に思いつつも、ひとまず挨拶をしてみる。

「うん、おはよー……って違うでしょ!」

 しかし宮村先輩からツッコミが返ってきてしまった。

「ちょっとちょっと! なんでそんなに二人共仲睦まじいの? あの白帽子くんは? え……浮気? まさか、あのおチビちゃんとは別れて、こっちのおチビちゃんに乗り変えた?」

 なんだか一人でパニックになっているようだ。

「違うよ。今日、アズは体調不良で休み。宮守とはたまたまここで会っただけ」

 成瀬川先輩は順を追って説明してくれる。

「あー……そういうこと。ふーん。なんだ、つまんないの。泥沼愛憎劇が始まったのかと思ったのに」

「始まらないよ」

 成瀬川先輩の言葉に納得したのか、宮村先輩はいつもの表情に戻り、僕達と一緒に歩き出す。

「宮村こそ、昨日の猛アタックはどうなったの?」

「え? あー……アリサちゃん? ダメダメ、アリサちゃんは東郷弟の婚約者だし。本気になんかなれるわけないでしょ。そんな命懸けのロミジュリ、したくないね」

「宮村は、自分が一番なんだねえ」

「突然でしょ。他人のために命賭けるとか意味分かんないよ」

 宮村先輩は口ではそう言いながらも、行き交う全ての女生徒へ、にこやかに手を振っている。

「ボクは刹那的な恋愛じゃないとダメなのさ」

「世の中には色んな人がいるね」

 先に歩いていく宮村先輩の背中を、成瀬川先輩はまるで珍獣でも見るような顔をして、うーんと唸った。

「ちょっと成瀬川ー! 置いてくよー!」

「あ、ごめん。宮守、またね」

 成瀬川先輩が、宮村先輩の元へ走りながら、手を振ってくれる。

 僕もそれに応え、自分の教室へ向かった。

 


 *四月一六日 火曜日 教室



「おはようございます」

「はよ」

 自分の席に座った浅倉くんが、携帯電話から頭を上げる。

 僕はカバンを机の上に置き、持ってきた変装道具は机の脇にかけておくことにした。

 ここに置いておけば忘れることはないよね。

 その流れで視線をすぐ前の席に逸らす。

 小鳥遊くんの席はぽかんと空いたままだ。

 成瀬川先輩は三日間は寝込むと言っていたから、あと二日位は休んでしまうのかもしれない。

 こんなに体調不良になることを分かっていて、僕達を守るために魔法を使ってくれたんだ……。

 胸の奥がズキンと痛む。

「小鳥遊くん、休み?」

 そう言って浅倉くんは、誰も座っていない席を見る。

「そのようです。成瀬川先輩も、あと二、三日は熱が下がらないんじゃないかと言っていました」

「そう……」

 浅倉くんは、窓の外を見る。

「やっぱり、静か過ぎるのもつまらないね……」



 *四月一六日 火曜日 昼



「それでは僕は、学食へ行って来ます」

「ん。いってらっしゃい」

 浅倉くんにそう告げると、僕はゆったりとした空気が流れる教室を出て行く。

 生徒達が談笑する廊下を通り過ぎて、学食入口の自動ドアを通り過ぎた。

 いつも通りパンを買って先輩達の元へ向かう。

「やっほ、四季くん」

「おっす」

「今日は来たんだな」

 先輩達が揃って迎えてくれる。

 先週は補習のため、全員揃うことはなかったので、なんだか新鮮な気持ちだ。

 返事は返ってこないが、奥には綾織先輩もいる。

 相変わらず、凄い量の食事がトレーの上に載っていて、パクパクと無言で食事をしていた。

「あー! やっぱり学食はいいなー! 昼休みほぼ没収で勉強やらされるって意味分かんねーよな!」

「ほんとだよ」

 孔洋先輩が背伸びをしながら言う言葉に、桃矢先輩が強く頷く。

 二人共、先週の補習で散々嫌な目に遭ったようだ。

「そんなキミ達に付き合わさせる先生も可哀想だけどね」

「ぐ……っ」

 恭次先輩の言葉に、孔洋先輩と桃矢先輩が同時にダメージを受ける。

「はいはい、どうせバカですよ」

 机の上に頭を乗せたまま、孔洋先輩が口を尖らす。

「とーやはともかく、こーようなんて中学まで僕と同じ塾に通ってたじゃない? 成績もそこそこだった気がするんだけど、なんでこんなんなっちゃったの?」

「こんなんってなんだよ……」

 孔洋先輩はムッとしたように眉間に皺を寄せる。

「オレだってあの時は親の言う通りにちゃんと勉強してたんだよ。してたんだけど……」

「してたんだけど?」

「途中で目覚めてしまったんだ……ロックに……! 世の中、間違ってるんだって教えてもらったんだよ。『The Damned』に! 『The Clash』に! 『Sex Pistols』に!」

「まーたお下品なバンドを。……ああ、そういえば。二年生だか三年生だかの途中でその変な頭になったんだっけ」

「変じゃ……え? 変? 結構気に入ってるんだけど」

 孔洋先輩は不安そうに辺りを見回す。

「まあ、あと数年後には頭丸めるんだもんねえ。今のうちに好きな髪型楽しんでおいた方がいいんじゃない?」

「いや、丸めねーよ!? 家なんかぜってー継がねえからな!」

 孔洋先輩は強く首を振る。

「遠野の家……先祖代々、寺の住職なんだよ」

 桃矢先輩が隣で解説してくれる。

 お寺というと……仏教を信仰する宗教施設だったっけ。

 おじいちゃんが教えてくれた日本の宗教観をざっくりと思い出す。

「長男……っつーか、そもそも一人っ子だから、だから順当にいけば跡継ぎになるはずなんだけど……ああやって逃げまわってるんだ。結構でかいトコの跡取り息子のハズなんだけど……好き勝手やってて、父親ともめちゃくちゃ仲が悪いらしい」

「それは……難しい問題ですね」

「四季! 分かってくれるか! 髪なんか剃りたくないよな!?」

「今、髪型なんて自由なんじゃないの?」

 恭次先輩が口を挟む。

「クソ親父が堅物なんだよ! 自分が一番正しいと思ってて、世の中の流れを完全に無視してるからな!」

「やっぱりある程度の年令になると、価値観が固まっちゃうのはどこの世界も同じかー」

 孔洋先輩と恭次先輩二人、いつの間にか意気投合し始めていた。

 横でカチャリと音がして、綾織先輩が食事を終え、箸を置いたのが分かった。

「…………」

 騒がしい二人を見ても、綾織先輩は珍しく何も言わない。

「あーや、なんか今日、機嫌がいいね」

 恭次先輩も気になったのか、不思議そうな顔で先輩に話しかける。

「窮屈な二人部屋からようやく解放されたんだよ」

 綾織先輩が窓の外を見ながら、抑揚のない声で言葉を発する。

「何だそれ、どういう意味だ?」

 孔洋先輩も桃矢先輩もその言葉に首を傾げる。

 恭次先輩だけが一人、思い当たることがあったようでポンと、軽く机を叩いた。

「あーそういえば同居人、転校するんだっけ? イジメたの?」

 同居人……というのは、学生寮のルームメイトのことだろうか。

「んな面倒くせーことするかよ。やりたいことができたから、別の学校に編入するんだとよ」

「へえ。せっかくあと一年で卒業なのに勿体ないねえ。海外留学でもするの?」

 やはり綾織先輩のルームメイトの話みたいだ。

 恭次先輩はスープを飲みながら、気無しに問いかける。

「いや、榎田高校えのこうに行くんだと」

「へえ、そうなんだ……。えのこうねえ……それって、ユーラシア大陸だっけ……? ん?」

 そこで恭次先輩の動きが止まる。

榎田高校えのこう!? は!? いや、待って。なんでどうしてそうなった!? ここからあの学校に編入する意味って何!?」

 目を見開いた恭次先輩が、スープカップをトレーの上に乱暴に置く。

「んなことオレが知るかよ」

 さも興味無さそうに、綾織先輩は顔を顰める。

「はぁ!? 理由訊かなかったの? 信じられない! あーやって、本当に他人に興味ないよね! この学校からあんな学校に編入するなんて、絶対面白い理由があるでしょ」

「なんだよそれ」

「それが知りたかったの!」

 恭次先輩は風船のように大きく頬を膨らませる。

「どうせその人の名前すら知らないんでしょ」

「バカにしてんのか!? さすがに相部屋のヤツの名前位分かるわ!」

 綾織先輩がくるりとこちらを向き、恭次先輩と向かい合う。

「へえ。じゃあその人はどこの誰さん?」

「……ええとだな……確か、ぺ……」

「ぺ?」

「…………」

 綾織先輩の目線が上の方で彷徨う。

「え……『ぺ』から始まる名前とかある?」

「あだ名が『ペー』だったんだよ。本名なんだったっけな……」

「はい!? ニックネームで呼ぶ仲なのに本名覚えてないワケ!?」

「いちいちうるせーな。ちょっと黙ってろ。今思い出してんだ」

「もしかして、僕の名前も憶えられてないんじゃ……」

 恭次先輩の顔が少しずつ青ざめていく。

 しかし、綾織先輩が口を開く直前、僕達のすぐ横に……大きな人影が現れた。

「個人的な事情を詮索するのは感心しないな」

「!」

 背後からの低い声に、僕達は一斉に振り返る。

「兄貴……」

 一番最初に声を上げたのは恭次先輩だった。

 そしてすぐに挑むように笑うと、腕を組んで眉尻を上げる。

「生徒会っていうのはよっぽどヒマなんだね」

「生徒会といっても一般生徒だからな、昼休憩に学食にいて何もおかしくないだろう」

 生徒会長さんは表情を変えず、淡々と答える。

「なるほどねえ。それで? 同じ一般生徒の会話を立ち聞きしてるんですかー?」

「……この前みたいに風紀を乱されたら困るからな」

「風紀?」

 僕が首を傾げるのと、綾織先輩が舌打ちするのは同時だった。

「あーや先輩、この前夜な夜な友達同士で集まって、賭け麻雀やってたみたいだぜ」

 孔洋先輩がこっそりと耳打ちしてくれる。

「賭け麻雀……」

 凄いことするなあ、綾織先輩……。

 あ、そういえば成瀬川先輩も、徹マンした仲って言っていたっけ。

 成瀬川先輩もそのメンバーだったのだろうか。

 意外だけど綾織先輩は、部活以外の方が交友関係が広いのかもしれない。

「ああ、思い出した。北条ほうじょうだよ。北だから『ペー』だったんだ。確か一年留年してたヤツだったっけな」

 そこで綾織先輩がハッとした顔をして、恭次先輩を見た。

「あ……中国読み」

 僕の頭の中で、北と『ぺー』が綺麗に繋がる。

「そういうこと? ビックリするほど捻りがないな!」

 恭次先輩はポテトを口に放り込みながら、落胆の声を漏らす。

 憑き物が落ちたような少し軽やかな表情をした綾織先輩は、無表情に立ったまま僕達を見下ろす生徒会長さんを見た。

「テンピンなんて違法じゃねーだろ。オマエんとこの宮村も参加してたぞ」

「……だからもみ消しておいてやったんだ」

 生徒会長さんが眉間にシワを寄せながら腕を組む。

 なんだか色々と苦労をしていそうだ。

 疲労の溜まったため息を吐き出す生徒会長さんに、少し同情の気持ちが芽生える。

「あ、時間」

 いつの間にか昼休み終了の時間が近付いていたようだ。

「はいはい、かいさーん」

 恭次先輩のかけ声と共に、僕達は一斉にトレーを片付け始める。

 いつの間にか、すぐ横にいたはずの生徒会長さんもいなくなっていた。



 *四月一六日 火曜日 放課後



 授業終了のチャイムが鳴る。

 緊張感のあった教室の空気が一気に緩んでいくのが分かった。

「あー……やっと終わったぁ」

 浅倉くんが大きく背伸びをしながら眠そうな声を漏らす。

 少しズレてしまった眼帯をそっと直した。

 僕はこれから恭次先輩と一緒に出かけるため、早めに片付けを始める。

「宮守くん、今日も部活?」

「ええと……そうですね。正しくはその延長線上と言いますか……」

「え、どういうこと?」

 首を傾げる浅倉くんに、どう説明するか考えていると……教室の入口付近で、僅かに騒ぎが起こっているのが耳に入ってきた。

「やっほー、四季くん」

 そちらに視線を向ける前に、その当事者が教室へと躊躇なく入ってきたのだった。

「恭次先輩!」

 一年とはいえ、他学年の教室だが、臆することなく恭次先輩が近寄ってくる。

 桃矢先輩の時は黄色い歓声だったが、今はどよめきと言うのが正しい表現かもしれない。

 さすが学校の理事長の息子で、生徒会長の弟……。

 クラス中の注目を一斉に浴びている気分になる。

「ついでがあったから、迎えに来ちゃった」

 恭次先輩はそう言って微笑むと、僕のすぐ隣に立つ。

「ああ……部活の延長線上って、そういうこと……」

 それを浅倉くんが納得したように呟いた。

 部活の先輩と出かける……というのを察してくれたらしい。

「キミ、四季くんのお友達?」

 恭次先輩の視線が浅倉くんに移動する。

「え……は、い」

 まさか自分が話しかけられると思っていなかったのか、浅倉くんは見るからに動揺していた。

「いつも、四季くんがお世話になってます」

「い、いえ……こちらこそ」

 他人行儀に挨拶を交わす二人。

 なんだか不思議な光景だった。

「さて、行こうか。四季くん」

「あ、はい。浅倉くん、それでは……」

「ん。また明日」

 浅倉くんに別れを告げ、僕達は廊下へ出る。

 普通に歩いているだけなのに、周りからの視線を痛いほど感じた。

「ああ、そうだ。とーやから伝言。無理すんなよって」

 恭次先輩が、携帯電話のメッセージのやり取りを見せてくれる。

「学食では話せなかったけど、昨日からとーやのお母さん、家に帰って来てないんだって」

「ということは、桃矢先輩はまだお母さんとは話されていないのですね」

「そうみたい。まあ、帰ってこないこと、たまにあるらしいんだけど……普通の会社員でさ、家に帰って来ないなんてこと……ないよねえ?」

「まあ……普通は多少残業する位なイメージですけど……」

 社会に出たことのない僕では、想像上の会社員をイメージで会話をすることしかできない。

「一応、就業規則も調べたんだけどね。一般社員の勤務時間は九時から一八時だったよ。フレックスタイム制も導入してるみたいだけど。これはあくまでネット上の情報。やっぱり内部情報って全然出て来ないんだよね。今日のことはまだ石河にも秘密だから、詳細を訊くわけにもいかないし……」

「なるほど……」

 恭次先輩でも、外部からでは情報を上手く仕入れることは難しいようだ。

「……おっと、早くしないと。タクシー待たせてるんだった」

 僕は先輩の言葉に頷き、急いで正門へと向かう。

 玄関扉を通り、少し冷たい風が吹く校舎外へと一歩踏み出した。

「四季クーン! こっちこっち!」

 正面玄関横で、黒いタクシーのすぐ横に立った恭次先輩が大きく手招きしてくれる。

 先輩、足速いんだ……!

 僕も駆け足で先輩の元へ向かう。

 運転手に合図して、ドアを開けてもらうと僕を奥へ座るよう促す。

 そして自分はその隣りに座った。

「うちの車より乗り心地良くないのは勘弁してね」

 小さな声でこそっと話すと、次は運転手さんに行き先を伝える。

「アルカディアコーポレーション……の手前の信号辺りでお願い」

 運転手さんは僕達のような子供相手にも、愛想よく返事をしてくれた。

 そしてタクシーは独特のエンジン音と共に発車する。

 普段歩いている道を車で通っていることに、非日常を感じた。

「あ、四季くん。着替え、持ってきた?」

 隣で携帯電話を見つめる恭次先輩が、目線だけこちらへと移す。

「あ……」

 その言葉を聞いて、僕の背中に冷や汗が伝う。

 朝、紙袋へ入れ、教室まで持ってきた。

 そう……ちゃんと持ってきたのだ。

 しかし……!

 その後、机の横に置きっぱなしになっていることを思い出した。

「す、すみません……! 持って来てはいたんですが……教室に置き忘れたようです……」

 宿題を忘れた小学生のような言い訳に、恭次先輩は吹き出した。

「あはは。オッケー。ちょうど良かった。念の為持ってきた変装道具があるから、それを使えばいいよ」

 このタクシーのトランクに積んであるんだと続ける。

「後は、着替えの場所だね……」

 恭次先輩は携帯電話に視線を戻す。

 そこには地図のような画面が表示されていて、それを拡大縮小しながらちょうどいい場所を探しているようだ。

「それじゃあ、アルカディアコーポレーション近くの公園――――の、トイレで着替えようか」



 *四月一六日 火曜日 公園



 オフィスビルが立ち並ぶ道の向かい側に、その場所はあった。

 公園と呼ぶにはあまりに巨大なその敷地は、学校のグラウンド四つ分はありそうだ。

 木々が生い茂り、イベント用のステージや、噴水、遊具などが各地に配置されている。

 この前の丘の公園よりも、敷地面積だけならずっと広い。

 自然に囲まれていて、老若男女問わずのんびりできそうな場所だ。

 辺り一面には芝生が敷かれ、都会の一角に隠されたオアシスのように感じた。

 この辺りでは一番大きな公園ではないだろうか。

 少し駅前から離れているとはいえ、街中にこんな場所があったなんて驚きだ。

「こっちおいで」

 辺りをキョロキョロと見回していると、タクシーの会計を済ませた恭次先輩がやってくる。

 そして僕に着いて来るように声をかけると、車のトランクから取り出した大きなボストンバッグを肩にかけ、慣れた足取りでその広場を進んでいく。

 夕焼けに照らされた大きな広葉樹のすぐ近くに、円柱型の建物があった。

 看板に描かれたピクトグラムにより、それがトイレであることが一目で分かる。

 迷わず男子トイレの扉を開く。

 建てられてまだ間もないのか、染み一つない白い床に、ライトが反射していてとても綺麗だ。

 しっかりと清掃されていて清潔感のある室内は、個室も広々としていて、二人で入っても余裕があった。

 床にはチェンジングボードまで設置してあり、着替えをするには申し分ない。

「とりあえず、ズボンからかな」

 バッグをフックにかけ、ゴソゴソと服を取り出す。

 渡されたのは黒いスリムパンツだ。

 僕は靴を脱ぎ、チェンジングボードの上に立つ。

 そして制服のズボンを脱ぎ、それに足を通し……そこで問題が一つ発覚する。

「あの、先輩……」

「ん?」

「ズボンの裾がとても余ります……!」

 僕は足先を上げ、先輩に現状を説明する。

 まるでルーズソックスを履いているかのようにダボっとしている。

「あ、いいのいいの。次、これ履いて貰うから」

 先輩はそう言うと、今度はバッグから長辺が三〇センチ程ある紙箱を取り出す。

「靴……ですか?」

「そ。急いで通販したヤツ。はい、どうぞ」

 恭次先輩は箱から取り出し、すぐ前の床に置く。

 スニーカーのようだが、普通の靴よりも頑丈そうというか……。

「よく僕の靴のサイズ分かりましたね」

「この前、足のサイズの話したからね」

「え、そうでしたっけ?」

「うん。身体測定の時」

「あ」

 そう言えば、足のサイズが恭次先輩とほとんど同じだという会話をした気がする。

 凄い……自分では全然覚えていなかった。

「それじゃあ、履いてみます」

 言われた通り、その靴に足を通してみる。

「……ん?」

 履いた瞬間、違和感を感じる。

 見た目は普通の靴だが、目線が一気に高くなった。

「これ、一三センチのシークレットブーツね」

「一三センチですか!」

 どおりで、恭次先輩の目線に近付いたわけだ。

 これが……一七五センチの世界……!

「あとは、これを着ればいいかな」

 そういって新品の白いシャツを渡してくれる。

 僕は透明な袋からそれを取り出すと、羽織ってボタンを止めた。

「はい。最後にこれかぶって。ウィッグ」

 次に渡されたのは金色のサラサラした髪の毛だった。

「これ、どうやってかぶるんですか……?」

「ああ、そうだよね。ちょっとココ、座ってくれる?」

 先輩はトイレの蓋を開け、便座に座るよう促す。

「は、はい……」

 言われた通りそこに腰を下ろし、先輩と向かい合う。

 なんだかこのシチュエーションが、日常とかけ離れ過ぎていて緊張してしまう。

「髪の毛、ヘアピンで止めて……こっちがネットになってるから、それについてる固定ピンを食い込ませて……」

 先輩は器用に僕にウイッグを付けてくれた。

「こんなもんかな」

「ど、どうでしょうか……?」

「うーん……金髪になった四季くんって感じ」

 ……それは、変装に失敗しているということだろうか。

「大丈夫大丈夫。まさかこの前会った人が、身長一〇センチ以上伸びて金髪になってるなんて思わないから。要は、とーやのお母さんにバレなきゃいいんだよ。石河は気付いても黙っててくれそうだし」

 恭次先輩は僕の制服を丁寧にたたみ、変装道具と入れ替えにボストンバッグへと入れる。

 これで僕の変装は終わりのようだ。

「さて、僕はこれ」

 そう言って先輩は長方形のペンケースのような四角い箱を取り出す。

「それは?」

「メガネ」

 そこからごく普通の形の丸メガネを取り出すと、これまた普通に装着した。

「どう?」

「とても似合っていると思います。先輩はそれだけでいいんですか?」

「うん。考えたんだけど、僕が変装しても意味ないからさ。とーやのお母さんには顔知られてないし、一部の社員には既に顔バレしてるワケだし」

 先輩はそう言うと、個室の鍵を開けた。

 僕達がここに来てから今までの間、誰もここに来なかったみたいだ。

 僕は出口の横に全身を映す姿見があるのを見つけたので、自分の姿をマジマジと観察してみた。

「……コスプレみたいですね」

「あはは。本当そう。なんかハロウィンみたいで楽しくなってきたね」

 先輩はそう言って笑うと、指で軽く眼鏡の位置を直した。



 *四月一六日 火曜日 アルカディアコーポレーション



 ボストンバッグを近くにあったロッカーに預け、僕達はすぐ目の前にある、オフィスと商業複合施設が入った高層ビルの前までやって来た。

 アルカディアコーポレーションはその三〇階建てのビルの一角に入居していて、ここが本社らしい。

 他にもいくつかの研究施設などが日本各地に点在していると、恭次先輩は教えてくれた。

 僕は周囲にある不思議なモニュメントを見たり、案内板を読んだりして時間を潰していた。

 時刻は会議開始の一五分前。

 先輩が、石河さんが到着すると予想した時刻だ。

「……ビンゴ」

 先輩の口角が上がる。

 見たことがある黒いミニバンが、目の前にある駐車場に停車した。

 そしてすぐにこちらに気付いた石河さんが、ビジネスバッグを手に持ったまま駆け寄ってくる。

「坊ちゃま……?」

「やっほー、石河。奇遇だねえ」

 恭次先輩は手をヒラヒラと振ると、ニッコリと笑った。

 奇遇でも何でもない挨拶に、石河さんは一瞬何かを考えた素ぶりを見せるが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「こんな場所で、いかがされました?」

「今学校の帰りなんだけど、偶然、駅前で友達と会ってね。お茶をすることにしたんだ。それで、自ずと進路の話になったんだけど……この子、薬学部を目指していてるんだって。で、将来は沢山の人の命を救う為、製薬会社に勤めたいっていう熱い夢を語り合ったのさ。僕はそれに感銘を受けてね……ぜひその気持ちを汲みたいと思ったんだ。ラッキーなことに、僕のうちは製薬会社も経営しているじゃないか。ということで、見学させてくれない?」

「…………」

 石河さんはチラリと僕を見る。

「こんにちは……」

 少し声を変えて挨拶をする。

「こんにちは。ふふ……本当に坊ちゃまは……面白いことをなされますね……」

 石河さんは笑いを堪えきれていない。

 もしかして……バレているのだろうか……?

 それにしても、こんなにも感情を表にする石河さんを見たのは初めてかもしれない。

 しかしそれ以上は何も言わず、深く息を吸って呼吸を整えた。

「恭次坊ちゃまのご友人のためでしたら、私から部長へ頼んでみましょう」

「ありがとう、石河」

 ビル入り口の自動ドアに向かって石河さんの後に続き、僕達は無事にアルカディアコーポレーションの中に潜入することができた。

 エントランスホールは一〇層吹き抜けの構造になっていて、天井が高い為とても開放感があった。

 全面ガラス窓なので、日の光が入って来てとても明るい。

 目の前には大きなエスカレーターがあり、低層階にまとまって入っているレストランやカフェまでは誰でも入れるようになっていた。

「こちらです」

 石河さんの後に続き、従業員用のゲートの前に来る。

 カードを通して何か操作をすると、僕達もすんなりと通ることができた。

 その奥にある大きなエレベーターへと乗り、アルカディアコーポレーションが入っている階層まで上がっていく。

 エレベーターは奥が透明ガラスになっていて、外の景色が一望できた。

 さっき僕達がいた公園も見えるが、僕が高所恐怖症だったら、その場に座り込んでしまうかもしれない。

 しばらくすると電子音がしてエレベーターが停止する。

 開かれた扉のすぐ目の前の廊下に、スーツを着た五〇代位の小太りの男性が立っていた。

 首から社員証をかけており、営業部部長と表記してある。

「ああ、石河さん。よくいらっしゃいまし……た……?」

 その男性の表情が固まる。

 石川さんの背後に立つ来訪者の正体を、一生懸命考えているようだ。

 エレベーターから一歩出た場所で、石河さんが口を開く。

「お疲れ様です。田中さんは初めてでしょうか? こちら、社長のご子息の恭次さんと、そのご友人です」

「!」

 田中さんと呼ばれた人は、面白いほど表情が固まったのが分かった。

 僕達を上から下まで何往復も目を動かして観察している。

 突然の状況に、頭で情報を処理するのに時間がかかっているのかもしれない。

 まさか社長の息子がアポイントも無しに来社するなんて夢にも思わなかったのだろう。

「よ……ようこそいらっしゃいました……っ!」

 予期せぬハプニングに、少し掠れた声が飛び出す。

 その急変ぶりに、僕は思わず先輩を見る。

 先輩も口を押さえ、笑うのを必死で堪えているようだ。

「友達が製薬会社に興味を持っていることを聞いてね。それならぜひ見学させてあげようと思って。石河に着いてきてしまったんだ」

「何とお優しい……!」

 田中さんはまるで揉み手のお手本のような動きをしながら、恭次先輩の隣に立つ。

「それではすぐに社員を呼んで案内させますね。ああ、でもここは本社ですので、実験施設などはないのですか……よろしいですか?」

「うん、大丈夫。雰囲気を見たいっていうのと、これで顔を売っておけるでしょ。ね、部長さん」

 スラスラと返答をする恭次先輩に、思わず心の中で拍手を送る。

 部長さんはまるで赤い牛に似せた張子のように何度も頷くと、会社用の携帯電話を取り出し何かを確認している。

「大崎課長は……ああ、これから会議か。となると、その部下なら……」

 田中さんはブツブツと独り言を言いながら、すぐに捕まりそうな社員を見繕っているようだ。

 そういえばこれから会議が始まるのだ。

 もし桃矢先輩のお母さんがそこに出席してしまった場合、その姿を見付けることすらできなくなってしまうけれど……。

「ええと……あ、そこの! 平倉主任!」

「!」

 平倉という名前に、僕達は瞬時に顔を上げる。

 田中さんが見つめる廊下の先。

 桃矢先輩のお母さんと、同僚らしき男性、そして僕と似た年齢の……少し茶色がかった短髪の男の子の三人が歩いている姿が見えた。

「……あの人、どこかで」

 声にならない声が漏れる。

 しかし僕が彼の記憶を辿る前に、僕の意識は桃矢先輩のお母さんに引っ張られてしまった。

 まさかこんなにもすぐに見つけてしまうなんて……。

 思わず顔を隠すため俯いてしまう。

「部長? 呼びました?」

 名前を呼ばれたことに気付いた先輩のお母さんが、こちらへとやって来る。

 普段のフェミニンな洋服姿とはまるで違う、動きやすそうなパンツスーツの上に白衣を着用している。

 見た目だけなら本当に科学者のようだ。

「ちょうど良かった。平倉主任、この方々に社内を案内していただけませんか? ぐるりと軽く一周していただければ大丈夫ですので」

「えー!? なんで、私なんですかぁ? そんなの宗像むなかたにやらせてくださいよー」

 平倉先輩のお母さんは、明らかに嫌そうな顔をすると、離れた所で立っている同僚らしき男性を指差す。

 桃矢先輩と居る時のおっとりした姿とはかけ離れた言動に、僕は唖然としてしまった。

「宗像くんは……その……無愛想というか……。やはりね、こういうのは女性にやってもらった方が……」

「あー! それセクハラですよ! この時代に、良くそんなこと言えますね! 次それ言ったら、内部通報しますから」

「そ、その態度……少しは謹んでください……! 社長のご子息の前ですよ……っ!?」

「だから何ですか? 別にどう思われようと関係ないんですけど。私、誰かさんみたいにコネ入社なワケじゃないので」

「ぐ……っ」

「そもそも、突然会社見学っておかしいじゃないですか。ちゃんとアポ取る位してもらわないと。こっちだって予定があるんですから」

「そ、それは分かっていますがね……。想定外のことが起こるのが仕事というもので……」

「私、昨日からずっとラボに泊まってて、家に帰っていないんですよ? 今日も資料まとめないといけないから、これから仮眠取ろうと思ってたのに」

「…………」

 僕も恭次先輩も、その二人のやり取りを見てぽかんと口を開くことしかできない。

 唯一、石河さんだけが楽しそうに微笑みながらその様子を見ていた。

「と、とにかく……頼みましたよ! 休憩はその後にして下さい……っ! 少し長めに休んでいいですから……」

 ポケットから出したハンカチで汗を拭いながら、田中さんはそそくさとどこかへと行ってしまう。

 しかし、桃矢先輩のお母さんは納得いかないという表情のままだ。

「申し訳ありません、平倉さん。お願いしてもよろしいでしょうか?」

 石河さんが苦笑しながら、お母さんを見る。

「……分かりました。石河さんには何かとお世話になっていますし」

 桃矢先輩のお母さんは、諦めたように大きなため息をついた。

「それでは坊ちゃま、一時間後にここで待ち合わせましょう」

「ん。分かった」

 石河さんは一礼すると、田中さんの後に付いて、奥にあるらしい会議室へと向かって行く。

「ちょっと宗像。これ持って行って」

 桃矢先輩のお母さんは、同僚らしき男性に書類が入っていそうな分厚い紙封筒を渡す。

 そしてすぐに僕達の元へ戻って来た。

「はーい、それじゃあ行きますよー」

 胸ポケットに入ったボールペンを振ると、まるでツアーガイドさんの旗印のように高く掲げる。

 田中さんと同様に首からかけられた社員証には、平倉由衣子の横に『主任』の表記があった。

「……それで、社長の息子さん? どうしてまた、今日は突然見学に?」

 長い廊下を歩きながら、背中を向けたまま質問をしてくる。

「友達が製薬会社に興味を持っていることを聞いて。それならぜひ見学させてあげようと思って、石河に付いて来たんですよ」

 恭次先輩は田中さんに説明したものを同じことを告げる。

「……恭次君でしたっけ? カレは同じ椿乃学園ではないのかしら?」

「中学までは椿乃学園付属だったんですけど……高校からは家庭の事情で、働きながら定時制の高校に通っているんです」

「それは大変ね。私立はお金がかかるものね」

「椿乃なんてブランドだけなので、地頭が良ければどこの大学でもいけますよ」

 恭次先輩は各部屋の説明を訊きながら、さり気なく嘘を混ぜた会話を繰り広げる。

「平倉さんは、この会社……長いんですか?」

「私は新卒で入社したのよ。その後すぐにやめてしまったけれど」

 意外な情報に、僕達は見つからないように顔を見合わせる。

「それじゃあ、再入社をされたということでしょうか?」

「そうね。呼び戻された……っていうのが正しいかしら」

「優秀なんですね」

「いいえ。一人、私の能力を買ってくれていた人がいたってだけよ」

 ぶっきらぼうにそう言い放つが、その表情は思いの外嬉しそうに見えた。

「その人っていうのは……」

「私の先輩」

 桃矢先輩のお母さんはそう言うと、非常階段すぐ横にある自動ドアの向こうへと歩いていく。

 ドアが開くのと同時に、夕方の少し冷たい風が建物内に入り込んで来た。

 その先はビルの途中にある、小さなバルコニーのような場所だった。

 いくつか休憩用のベンチがあり、横には飲み物の自動販売機が三台並んでいた。

 不思議に思った僕達だが、素直にその後に付いていく。

 傾いた太陽の光が眩しい。

 すぐ下に、先程僕等がいた大きい広場のある公園が見えた。

「はいこれ」

 いつの間に買ったのか……平倉先輩のお母さんは、自動販売機で購入したばかりの飲み物を渡してくれた。

 紙パックに入ったコーヒー牛乳だ。

「ありがとうございます」

 僕達はそれを受け取ると、お母さんと一緒に、壁側に並べられたベンチへ腰かける。

 恭次先輩は慣れない眼鏡で疲れたのか、それを外すと膝の上に置いた。

「オフィスにあった部屋の説明は以上よ。本社だから、あまり見る場所もないのよ。何か気になったことはあったかしら?」

「いえ。やはり見学は各研究施設に行くべきだったなと思いました」

「ふふ……その通りね」 

 恭次先輩の言葉に、お母さんは笑う。

「昨日は泊まりだったんですか?」

「ええ。たまにあるのよ。急いで結果を出さないといけない仕事が。そういう時は否応無しにラボに籠もりっきりね。仕事にホワイトさを求めるなら、お勧めできる職場ではないわ」

 お母さんは冗談混じりにそう言うと、ベンチに座った足を組み替えた。

 やはりその表情は少し疲れているように見えた。

「……ねえ」

 しばらくの無言の後、お母さんは僕達の方をじっと見つめる。

「私からも質問、いいかしら」

「お答えできることなら」

 恭次先輩はまっすぐに見つめてくるお母さんの視線に怯むこと無く、さっきと同じ調子で淡々と返答する。

 それを聞いて、お母さんはニッコリと笑った。

「それじゃあ質問。もしかして貴方かしら? 土曜日に、イーストホテルで私と社長が食事をしていたのを見た……と言っているのは」

 桃矢先輩のお母さんは、僕の方をまっすぐに見る。

 僕は心臓が跳ね上がったのが分かった。

 自分の心情を悟られないよう、必死でそれを隠す。

 飲み物を飲んだばかりのはずなのに、喉の奥がカラカラと乾いてきた。

「……何の話をされているのでしょうか」

 固まってしまう僕に変わって答えてくれたのは、恭次先輩だった。

 多少の間があったものの、落ち着いた声色でお母さんに返答する。

「違うのならごめんなさいね。でも、あまりにもタイミングが良すぎて。私の息子ね、恭次君……貴方と同じ椿乃学園に通っているのだけど、ご存知かしら? 去年、編入生として入学したのだけれど」

「……なんとなくは」

「その息子からね、土曜日……誰とランチをしていたのか詳細を訊かれてね。いつもそんなこと気にする子じゃないから、おかしいなって。だから、誰か……例えば、同じ学校の友達が見ていたのかなって思って」

「…………」

「社長は貴方達の学校の理事長も務めているから、顔を知っていてもおかしくない。その理事長が誰と食事をしていようが別に大したことじゃないでしょう? もしかしたら、ただの知り合いかもしれないし。それじゃあ、その相手がとーやくんの母親であることが分かったのはどうして? つまり、目撃者は社長と私の顔を知っている。でも……その関係性を知らない人物に限定される」

 順序良く情報を説明していく桃矢先輩のお母さんに、僕達二人は何も言うことができない。

 僕は頭が真っ白になっていくのを感じた。

「それに当てはまる子が一人いるんだけど……」

 背中に冷たい汗が流れていく。

 理事長の顔も桃矢先輩のお母さんの顔も……両方知っているのは僕なのだ。

 桃矢先輩のお母さんは、あくまで仮定として話を進めているが……それは違う。

 全てバレているのだ。

 さすがの恭次先輩も、コーヒー牛乳のパックを持った手が固まっている。

 お母さんはゆっくりと立ち上がり、白衣を翻しながら僕達の前に立つと――――何故かニコリと笑った。

「でも、それが誰であろうとどうでもいいの。だって私の最終的な目的は、恭次君と息子の誤解を解くことだもの。だから今日は貴方達が乗り込んで来てくれて、本当は助かったわ」

「……その誤解、どうやって解くつもりですか?」

 恭次先輩は観念したように、ぽつりと声を漏らす。

 お母さんは顎に手を当てながら、目を伏せる。

「そうね……正直、難しいわ。ここで私が不倫疑惑を否定したところで、君は信じられる? 私が本当のことを言っているなんて分からないものね。まさに悪魔の証明よ。噂なんて勝手に収まるだろうって思ってた私の見立てが甘かったわ」

「…………」

「まあ……暫くの間、興信所の人間でも雇って貰えば自ずと結果は明らかになると思うけれど」

 自信満々に答える恭次先輩のお母さんの姿に、僕達は完全に敗北したことを感じた。

「……分かりました。今は貴女の言葉を信じます」

 恭次先輩は目を伏せ、小さな声を絞り出した。

「この話し合いをしたことも、牽制になると思いますから」

「信用されてないわね」

 桃矢先輩のお母さんはそう言うと、今まで見た中で一番の笑顔を見せた。

 恭次先輩は膝に置いた眼鏡の柄の部分を両手で持つと、再びそれを装着した。

「申し訳ありませんが、もう一度貴女の口から訊かせて下さい。不倫の事実はない、と」

「自信を持ってイエスと答えるわ。私だっていい加減にして欲しいと思っているのよ。私は私の実力でこの地位を勝ち取っているの。決して卑怯な手を使ってなどいないわ」

 そう答えるお母さんの目には、強い光が宿っている気がした。

「ああ。こんなところにいらしたんですか」

 聞き覚えのある声に、僕達三人は一斉にそちらを見る。

「坊ちゃま、お迎えに上がりました」

 石河さんがいつもの笑顔を携えて、そこに立っていた。

 いつの間にか、会議が終わるほどに時間が経過していたようだ。

「会社見学は楽しめましたか?」

「うん。とても有意義な時間を過ごすことができたよ」

「それは良かったです。平倉主任、本日は突然のお願いにも関わらず対応頂きありがとうございました」

「問題ないですわ。私も気分転換になりましたし。それでは私はこれで失礼します」

 桃矢先輩のお母さんは、そのまま自動ドアの前に歩いて行くと、一礼してオフィスの中に入って行った。

「……目的は達成できました?」

「ま。ひとまずは」

 恭次先輩の言葉に、石河さんは大きく首を縦に振る。

「それでは、我々も帰りましょうか」

 いつの間にか空はオレンジ色から紫色へと変化していた。

 再び石河さんの後ろに付いて、さっき来た道を戻っていく。

「ああ! 石河さん!」

 エレベーターの前に来た所で、田中さんに呼び止められた。

「ちょっと行ってきますね」

 石河さんは僕達を置いて呼ばれた方へ向かう。

 何を話しているのかは分からなかったが、田中さんは石河さんに向かって何度も頭を下げているようだった。

「四季くん」

 すぐ耳元で、恭次先輩が名前を呼ぶ。

「なんか色々とごめんね。まさかあそこまでバレてるなんて思わなかったよ」

「僕もです。桃矢先輩のお母さん……探偵になれるんじゃないですかね」

「僕もそう思う。推理小説の犯人になった気分だったよ」

 恭次先輩は疲れた表情で笑った。

「でも、収穫はあったよ。これ見て」

 そう言って、身に付けていた眼鏡を外す。

「……これね、イリーナちゃんから買った『魔法道具』マジックアイテムなんだ」

「え……ええっ!?」

 まさかの正体に、僕は思わず声を上げてしまう。

「これ……分かりやすく言うと、嘘発見器。レンズ部分が水晶で作られていて、相手が嘘をつくと薄らと色が濁るようになってるんだ」

 まさかそんなものを付けているなんて、思ってもいなかった。

 抜かりない恭次先輩の詰め方に、拍手を送りたい気持ちになる。

「それじゃあ、最後……桃矢先輩のお母さんに質問をしたのは……」

「そ。本人の口から出た言葉が、事実かどうか確認するため」

「ど、どうでしたか……?」

 恭次先輩は眼鏡を僕に渡す。

 レンズに濁りは一切見つからなかった。

「一応、潜入した意味はあったかな……」

 恭次先輩はそう言って、安堵した声で呟いた。

「お待たせ致しました」

 戻ってきた石河さんと合流して、僕達はエレベーターに乗る。

 ガラス窓から見える景色が、チカチカと点灯するネオンへと切り替わって行くのが見えた。

「…………」

 恭次先輩と僕は何も言わずにそれを見つめる。

 何だか妙にすっきりとした気分だった。

「さ、お降りください」

 一階に到着したエレベーターの扉が開く。

 僕達は無言のまま降り、ゲートを石河さんが開けてくれるのを待つ。

「……ねえ、四季くん。この後、少しだけ時間ある?」

 恭次先輩は僕の腕にギュッと捕まると、石河さんにも聞こえないであろう小さな声で耳打ちする。

「え? あ、はい……まだ門限まで時間がありますので……」

「石河」

 僕の返事を聞くとすぐに、恭次先輩は石河さんに声をかけた。

「何でしょうか」

「悪いけど、このまま僕達を病院に送ってくれないかな」

「畏まりました」

 病院?

 僕は先輩の意図が分からず、首を傾げるしかなかった。



 *四月一六日 火曜日 東郷総合病院



 ロッカーからボストンバッグを回収し、僕達は石河さんの運転する車に乗り込んだ。

 その時に今から向かう場所の説明を尋ねたのだが……。

 先輩は言葉を濁すだけで詳細を答えてくれなかった。

 車は静かに夜の街を走り出す。

 ネオンが次々と車窓に映り込み、昼間とはまた違う場所のように感じた。

 しばらくすると、この前石河さんとドライブの時に通った郊外の道までやってくる。

 そして何度か太い道を曲がると、大きな総合病院に到着した。

 何百台も停まれそうな大きな駐車場だが、もう一九時近いせいか車はほとんど無かった。

「それでは、こちらでお待ちしています」

「うん。ありがとう」

 恭次先輩は少し急いだ様子で車から降りると、僕の手を引き、正面玄関の横を通り過ぎる。

「先輩、入り口はここ……」

「面会時間過ぎてるから、ここからは入れないよ」

 先輩に手を引かれるまま、従業員入口と書かれた小さなドアの前で立ち止まる。

 先輩がドア横に設置された受話器を手に取り、一言声をかけると、すぐにそのドアが開いた。

「お待ちしておりました。連絡はいただいております」

 白衣を着た白髪の男性が、僕達を迎え入れる。

 胸元の名札に、副院長……じゃなく、病院長の文字を見つけた。

「ありがとう」

 今度はその人の後ろについて、病院内を進んでいく。

 夜の病院は昼間よりも薄暗く、三人分の足音が不気味に廊下中に反響する。

「……ここもうちで経営しているんだ」

 恭次先輩が小さな声で教えてくれる。

 しばらく歩くと、病室が並ぶ病棟に到着した。

 まだ消灯時間は過ぎていないのに静かなのは、ここが個室棟だからだろうか。

 通り過ぎる部屋はほぼ全室が埋まっていた。

 しかし、いや……だからこそ人の声は聞こえず、病棟自体がシンとしているのかもしれない。

「…………」

 その長い廊下の中でただ一つ。

 ぽっかりと空いた部屋が目に入る。

 そこは扉が開けっぱなしになっていて、中は真っ暗だった。

 僕は立ち止まり、廊下からその部屋の中を見つめる。

 綺麗に片付けられ、整頓されている真っ暗なその部屋は――――まるで時が止まっているかのようだ。

「四季くん? どうしたの?」

「あ……すみません」

 僕は我に返ると、すぐに先輩の元へ戻る。

 しばらく歩き続け、ようやく辿り着いたのは最奥にある個室だった。

 他の病室とは明らかに扉の形状が違っていて、もしかしたら特別な部屋かもしれないと思った。

「それでは、ご帰宅の際は一声おかけください」

「うん」

 先輩は簡素に返事をすると、ノックをしてから横開きの扉を開く。

 室内は僕が想像していたよりもずっと広く、ベッドの他に作業用デスクや洗面台が備え付けてあったりと……まるでホテルのような造りになっていた。

 しかし天井にある電気は点いておらず、唯一の明かりは、ベッドサイドに置かれたカバー付きの間接照明のみだった。

 ほのかな光を放つその照明器具のすぐ横……。

 テーブルの付いたセミダブルのベッドで、点滴に身体を繋げられた女性が、小さな寝息を立てている。

 年齢は四〇代位だろうか。

 真っ白なその肌のせいか、もっと若くも……逆にもっと年齢が上にも見えた。

「この人、俺の母さん」

「え……?」

 先輩の声に、上手く反応することができなかった。

「何年になるだろ……もうずっと入院してるんだ」

 そう言って先輩は、すぐ横にある黒革のソファに座る。

 僕もそれに倣って、向かい側にある同じ形のソファに腰を下ろした。

「……ご病気、なんですか?」

「うん。心の病気」

 先輩は布団から出ている骨の形が浮き出た細い手にそっと触れる。

 その青白い腕には、この前僕がイリーナさんのお店に取りに行くよう頼まれた、ブレスレットが付けられていた。

「……四季くんさ、うちの親父の年齢知ってる?」

「ええと……」

 先輩からの質問に、僕は学校のパンフレットに掲載されていた理事長の生年月日を思い出す。

「今年で六五歳でしたっけ」

「凄いね、正解」

 僕の答えに先輩は目を見開くが、しかしすぐにその表情を暗くしてしまう。

「ちなみに母さんは今、四二歳」

「凄い歳の差なんですね……!」

 僕は素直に感想を伝える。

 昔はそれなりにあっただろうが、現代ではかなり珍しい気がする。

「三人目の奥さんだからね」

「え、三人……!?」

 思ってもみなかった人数に、思わず聞き返してしまう。

 しかし先輩は表情を変えることなく立ち上がり、今度はカーテンの開かれた窓のすぐ横に立つ。

 ここは郊外にあるため、駅前のような人工的な明るさはないのだが、今日は月明かりのおかげか景色がはっきりと見えた。

「親父は、東郷の跡継ぎのために、どうしても子供が必要だった。でも一人目の奥さんの時も二人目の時も、子供に恵まれなかった。そして三人目にしてようやく念願の男の子が二人産まれましたとさ」

 まるで何かの物語を読むような語り口調で、話を続ける。

「……でも、めでたしめでたしにはならなかった。俺と兄貴って、一学年差でしょ? 母さんは兄貴を産んだ後、すぐに俺を身籠ったんだ。年子ってさ、母体にすごく負担がかかるんだ。親父は母さんに無理させて子供産ませたんだよ……」

 恭次先輩は悔しそうに歯を噛み締める。

 東郷家程の大きな家を維持するための跡継ぎ……お母さんの受けるプレッシャーも相当なものだったのかもしれない。

「それで……育児ノイローゼみたいなことになっちゃったみたい。どうしてそうなってしまったのか、根本的な原因は分からない……。もしかしたら、親父が不貞をはたらいたのかもって思ったから、今日も調べに行ったけど……今回のとーやのお母さんとは関係無かったね。でも、肉体的にも精神的にも追い詰められた母さんが辿り着いた結末は……自殺未遂だった」

「!」

「俺は小さ過ぎて覚えてないけどね。家にはお手伝いさん達が何人もいたから、早く発見されて助かったけど……。でも、脳に後遺症が残ってしまった」

 そう淡々と語る先輩の姿に、僕は何も言葉をかけることができなかった。

「その事件のおかげでようやく親父もことの深刻さに気が付いて、母さんを入院させたんだ。そしてずっとそのまま。この部屋に母さんを閉じ込めている」

 恭次先輩はそう言って目を伏せる。

 不自由とは無縁だと思っていた人が背負わされた運命は、あまりにも重いものだった。

 それを学校生活では全く見せずにいるなんて……なんて強い人なんだろう。

 僕は自分の目頭が熱くなっていくことに気付く。

「最近ね、少しだけ会話ができる位に元気になったんだ。でも……ダメだった」

 先輩の声も、僅かに震えていた。

「それが、俺が土曜日に帰った理由。元気になってきたと思うと、たまにやるんだよね――――自殺未遂。病院だから、すぐ見つかって良かったけど……」

 土曜日、石河さんが病院から連絡があったと言っていた。

 今なら恭次先輩が血相を変えて病院ヘ向かった理由が痛いほど分かる。

「『心』って何なんだろうね」

 先輩はもう一度お母さんの元に戻ると、その手に付けられたブレスレットに触れる。

「身体と違って、今どんな状態なのか目で見ることができない。だからこそ、それを治すためなら……どんな眉唾物であっても縋ってしまうんだよね」

 そう言って先輩は、力無く笑う。

「イリーナちゃんの『魔法道具』マジックアイテムだってそう。不思議な力を使えるようになるっていう噂を聞いて、それでお店に通うようになったんだ。もしかしたら、母さんの心が元に戻るかもしれないって。でも、『魔法道具』マジックアイテムでは外傷の治りを早めることはできても、精神的な物はお守り程度の効果しかないんだって」

 ブレスレットに触れる先輩の手は、僅かに震えているように見えた。

「どんなものでも探したんだ。『なんでも願いが叶う絵』なんて、その典型。……バカだよね、そんな物あるわけないのに。俺に何か力があったら……治せたのかもなんて思うと……悔しくて堪らないよ」

 部室にずらりと並べられたオカルトグッズ……。

 先輩が科学的に何も保証されていない様々なモノに手を出す理由は……ここにあったのだ。

 そして、特別な力を求める理由も。

 先輩は藁を掴む思いで必死に探していたんだ……お母さんの心を治してくれる救世主を。

「俺はただ……もう一度母さんに抱き締めて欲しいだけなのにね」

 そう言って悲しげに笑う恭次先輩の顔は、月明かりに照らされ……今にも消えてしまいそうな程に儚げだった。

 それは、どんなことがあっても表情を変えず僕達を導いてくれる部長の……初めて見る弱々しい姿だった。

「ごめんね、こんな話して……色々巻き込んじゃったから、四季くんにも、ちゃんも説明したかったんだけど……今の僕じゃ上手くできないみたい」

「っ」

 思わず僕は自ずと立ち上がり……ソファに座る恭次先輩の背中に抱き着いていた。

「四季く――――」

「そんなことないですっ! お母さんに抱き締めて欲しいなんて……そんなの、当たり前じゃないですか!」

 一瞬身体が強張る先輩だったが、何かを言いかけて、そのまま力無く頭を下げる。

「俺は……俺を産んだせいでこうなってしまったんじゃないかって、ずっと後悔してて……」

「そんなことないです! 先輩は何も悪くないです……だから、自分を否定しないでください……。先輩は、お母さんの為にこんなにも頑張ってるんです。だから……お母さんは目を覚ましたら、たくさん褒めてもらいましょう」

 先輩は抱き着かれたまま、そっと僕の頭に手を置いた。

「四季くんは優しいね……」

 すぐ耳元で聞こえる先輩の声。

 それが、傷を舐め合う行為以外の何物でもなかったとしても……。

 僕達はそうすることしかできないのだから。

「四季くんのお母さんは……どんな人なの?」

「僕の母は……」

 ここ嘘をつくこともできたけれど……。

 僕はそれをしたくなかった。

「僕を産んだ直後に亡くなったと聞いています……」

「ご……ごめん……」

 先輩の声が震える。

 しかし僕はそれに臆することなく話を続ける。

「いえ、だからこそ……思い出がないからこそ、あまり寂しくないんです。僕にはおじいちゃんがいて、おじいちゃんが大切に育ててくれたので……寂しいとか、辛いとか……思ったことなかったんです。だから気にしないでください。今はそのおじいちゃんもいないので……ちょっとだけ寂しいですけど……。でも、先輩達のおかげで毎日が楽しいんです。それこそ……その寂しさを忘れるほどに……」

 それが僕の本心だった。

「恭次先輩は、お母さんを大切にしてあげてください。思い出なら、これからいくらでも作ることができます。生きていればきっと……きっと奇跡は起きますから」

「うん……」

 それはとても小さな声だったけれど、先輩は頷いてくれる。

「ありがとう、四季くん」



 *四月一六日 火曜日 学生寮



「ただいま、です」

 学生寮の自分の部屋へと帰って来る。

 先輩に渡されたボストンバッグを床へ置き、丁寧に畳まれた制服を取り出してハンガーにかけておく。

 特にシワにもなっておらず、明日はそのまま着ていけそうだ。

 金髪のウィッグは、寮に入る直前に急いで取り外したため、髪の毛は朝起きたてのようにボサボサだった。

 ここまでの間に、誰にも会わなくて良かった。

 まるで台風が直撃したような頭になってしまっていたから。

「さて、夕ご飯にしましょうかね」

 石河さんが、近くのデパートで購入しておいてくれたお弁当を机の上に置く。

 正方形方に区切った仕切りがいくつもあり、沢山の種類のおかずが入っている。

 値段は剥がされていたが、きっと凄く高い物なんだろう。

 石河さんは変装した僕の正体にも気が付いているはずなのに、最後まで何も言ってこなかった。

 何から何まで気が回る、凄い人だと思う。

「いただきます」

 僕は幕の内と書かれたお弁当の蓋を開き、里芋の煮物を口へ入れる。

 今まで食べたことのない上品な味が、口の中いっぱいに広がった。

「…………」

 窓の外には、やはり月が出ていて、夜の景色を明るく照らしている。

 まさか……。

 まさか……あの病院に行く日が再びやって来るなんて、夢にも思わなかった。

 もしも運命というものがあるのだとしたら……きっと無様に抗う僕の姿を見て嘲笑っているのだろう。

 けれど、変装をしたまま入ることになったのは嬉しい誤算だった。

 そして、それが視界の悪い夜だったことも。

「…………」

 深くついたため息は、誰にも聞かれることなく消えていく。

 周りにいる人が、少しでも笑顔でいる時間が増えて欲しい……。

 そう無責任に願うのは……僕の身勝手なのだろうか――――。

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