第37話 身勝手な葬送〈2〉

 イーサは岩壁の淵に立つ。彼女の立ち姿には決意を宿したものの凛々しさが備わる。

「頼んだぞ、イーサ」

 俺の言葉に、彼女は正面を見据えたまま、しっかりと頷いた。


 彼女はそっと目を伏せる。そして、祈るように手を合わせる。静寂の帷が降りて、彼女のうちから銀色の光の粒が美しく零れだし、撫でるようにその身体を包み始める。


「銀の理よ、星のめぐりよ、いまし遍く魂に微睡みを──荒ぶる嘆きを、静けき夜へと還せ」


 彼女の吐息に呼応するように、光の粒はゆっくりと彼女を離れ、宙に舞い上がる。奈落に落ちてもなお、猛り、荒ぶり続ける魔物たちの真上に、光輪を描いて浮かぶ。月夜の雫が落ちるかのように、やがて煌めく驟雨となって、その頭上に降り注ぐ。ゆっくりと魔物たち各々の身体に沁み入り、その魂を優しく濡らしてゆく。


「どうか、わずかでも、穏やかに眠れますように──」


「兄さん、今の私にはこれが限界です。精霊の数が少ない、少しの間落ち着いているだけです……たぶん、そう長くは持たないと思います」

「十分だよ、イーサ!」


 猛り、荒ぶっていた魔物たちの声が鳴り止んでいる。まるで赤子が寝息を立てるかのような、微かな呼吸音のみが、奈落を満たし、洞窟内は束の間の静寂に包まれる。


 俺はアイリッシュに合図を送る。彼女の正面に立ち、その手をとる。その白く、細い手をしっかりと握りしめる。指先は冷たく、まだ少し震えている。

「大丈夫か、アイリッシュ」

 その瞳がはっきりと頷く。

「きっと、辛い思いをさせることになる。誰よりも辛い役目を担わせてしまうことになる」

「それでも、やらせてください。お兄様が見てきたこと、聞いてきたこと、感じてきたこと。私は全てを受け入れたい──」

「わかった。それじゃあ、やるぞ」

 俺たちは目を閉じる。そして、彼女の額に、そっと額を重ねる。ゆっくりと彼女の魂に、俺の魂を重ね合わせるように。


(本当にできるのだろうか? でも、何故だかという確信がある。彼らがお前ならできると言っている気がする。やるんだ──今の俺にできるのはこれくらいなのだから)


 彼女の表情が次第に歪んでゆくのを感じる。俺は、自分自身の魂が見てきた景色を、彼女の魂にじかに重ねていた。何百、何千もの、彼ら──魔物とされた者たちの痛みが、記憶が、表情が、声が、俺と彼らとの間で交わされた言葉の数々が、彼女の魂に染み込んでゆくのがわかった。


 永遠にも感じられながら、一瞬に満たない時間が、俺と彼女の間を流れた。再び目を開けると、彼女は静かに涙を流していた。

「……ごめんな、アイリッシュ」

「お兄様は謝らないでください!」

 彼女は叫ぶように言った。

「こんなこと、お兄様一人で抱え込まないでください」

 そう言って、俺の胸にその身を寄せると、少しの間、声をあげて泣いた。立っているのがやっとなほど、彼女のか細いからだは震えていた。俺は彼女をその腕で抱き寄せて言った。

「アイリッシュ、やっぱりお前は俺なんかよりずっと強いな」

 彼女は胸の中で押し付けるように首を横にふる。

「あと少し。あと少しだけ、力を貸してくれるか」

 アイリッシュは顔を上げて頷く。涙に潤んだ、その瞳の奥には、揺らぐことのない強い光が灯っていた。


「フェリム、アイリッシュを頼む!」

「わかったのだ! やるのだ!」

 ダーリャが言葉もなく、アイリッシュの足元にその頬を擦り付けて見上げる。すると、フェリムはアイリッシュを抱えて、空へと舞い上がった。

「お兄様! 私にも見えます。彼ら一人ひとりの表情が、仕草が。聞こえます。彼ら一人ひとりの声が、言葉が」

「あとは任せたぞ、アイリッシュ!」

 俺は頷き応える。

「はい!」


「不思議ですね、フェリムお姉様」

「ん? 何がなのだ?」

「お兄様の声を聞いていると、不思議と力が湧き出てくるというか……胸の奥が奮い立つというか」

「ふふん、わらわ知ってるのだ。お兄ちゃまは昔からそうなのだ!」


 二人を脇目に見ながら、俺はイーサとダーリャと共に、崖下へと続く降り口へと急ぐ。フェリムに抱えられたアイリッシュはちょうど魔物たちの真上まで行くとゆっくりと静止する。俺たちは走りながらも、それを見守る。


 彼女の口元がそっと揺れて詠唱が始まる。

 魔法陣が奈落全体を覆うほどの大きさに広がる。アイリッシュの身体が、淡くたゆたう菫色の光に包まれる。大きく見開かれた瞳が、足元の暗闇に横たわる数百、数千という魔物たちの姿を一つ一つ丹念に捉えてゆく。その瞳に映る彼らは、もはや魔物たちの姿をしてはいない。


「変光──」


 その一語が紡がれた瞬間、洞窟の濁った闇がゆっくりと揺らぎ、魔法陣が淡く脈うった。淡い菫色の光は鼓動と共に強く、そして優しく波紋を描いた。光は魔物たちの身体に触れると、音もなく、その外皮を溶かすように変化をもたらしてゆく。


 アイリッシュの視線が動くたびに、数百、数千の赤黒く脈打つ異形の姿は、かつての素肌の色合いとやわらかさを取り戻してゆく。異形の咆哮が止み、牙が砕け、腕が人の形を取り戻し、懐かしい輪郭が蘇る。そして、一人ひとり異なった仮面の奥から、かつての“彼ら”の涙が、ゆっくりと浮かび上がる。


 フェリムが、眼前の光景に大きく目を見ひらいた。

「アイシュ、すごいのだ!」

「お姉様、まだ、ここからです」

 呼吸が浅くなっているのを、彼女自身も気づいていないのかもしれない。それでも、瞳は揺らがず、ただひたすらに“視て”いた。──その下に蠢く数百、数千の魔物たち。そのすべてを、一つひとつ、一人ひとり、丁寧に見つめる。


「すごいのだ。すごいのだ。わらわ、びっくりなのだ」

 アイリッシュは唇を震わせながら、かすれた声で答えた。

「お兄様が、みんなの魂の声を聞き、伝えてくれたから。イーサお姉様が、安らぎと静けさを与えてくれたから。フェリムお姉様が、ダーリャが、私のそばにいてくれたから。そうやって、皆が繋いできた意志がここにあったから……私ひとりの力じゃないです……から……」

 彼女はそっと胸の辺りに手を置いた。


 それは決して無償の奇跡ではなかった。

 魔法陣の光が脈打つたびに、彼女は揺らぎ、身体は小刻みに震える。汗が額を伝い、指先がわずかに痙攣する。


「もう少し、もう少しだけ、力を……」

 そして──最後の力を振り絞るように両手を組み、深く、深く目を閉じて祈った。彼女の魔力はすでに限界を超えていた。だが、まだ終わらない。まだ、見つめるべき魂が、声なき叫びが、あまりに多すぎる。再び彼女は目を見ひらくと、視線を下ろし、最後の詠唱を口にした。


 そうして、アイリッシュは、全てをやり遂げた。

 全てが終わった後には──歓喜でも、混乱でもなく、ただ静かに、眠るように。数百、数千のが美しすぎるほどに、ただ美しく横たわっていた。


 アイリッシュはフェリムの腕の中ですでに気を失っていた。それでも、その表情は、どこか安らかに見えた。


「ありがとう、アイリッシュ……本当に」

 俺は上空での彼女の姿を見届けると、そう心に唱えて先を急いだ。そして、ようやく懐かしい姿と安らかな眠りを取り戻した、皆のいる場所へとたどり着こうとしていた。

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