第10話 次女ダリア・グエン・ローリー〈2〉

 「家」から少し歩いた森の中で、イーサが短く呪文を唱えた。すると目の前の空間がゆらゆらと揺らぎ始めた。


「アッシュ兄さん、街はこの先です」

 イーサは丁寧にそう言い、俺をその揺らぎの向こうへと促した。

「グリムが兄さんの静養のためにって、街との間に結界を張ってくれたんです」

「結界なんて初めて見たよ。グリムか。あいつは物を作るのが好きだったもんな。それにしても、結界まで作るとは……」


 イーサの言葉に頷きながら、俺は目をぎゅっと閉じて恐る恐る揺らぐ空間に一歩を踏み入れた。肌を包む空気感が変わる気がした。そして、ふたたび目を開けた時、俺の目に飛び込んできたのは信じがたい光景だった。


「ここが……ガウルなのか?」

 俺は呆然としてつぶやいた。

「兄さんが知っている頃とは、ずいぶん変わりましたものね」


 遅れて姿を現したイーサが背後から静かに言った。俺たちは、ガウルの街全体を見渡せる、高い建物の見張り台のような場所に立っていた。


「兄さんを驚かせようと思って、グリムに頼んでここに繋げておいてもらって正解でした!」

 俺の表情を見たアイリッシュも嬉しそうに微笑んだ。


「いや、なんて言ったらいいか、あまりにも驚いてしまってな……」

 それ以上の言葉が、なかなか出てこなかった。


 それほどまでに、俺の知っているガウル村と、目の前に広がるガウルの街は大きく違っていた。空はどこまでも高く晴れて、そこかしこから活気ある声が響き、人々の営みが、飯炊の煙とともに、まるで音になって立ち上ってくるようだった。

「実際にこの目で見てみて、ますます疑いが深くなった感じだよ」

 俺は思わず笑ってしまった。


「ハイネちゃんが、住人が無造作に集まり、乱雑に広がっていた街の整理と設計を提案して、これもまたグリムがあっという間に大まかな土台を作ってくれたんですよ。ほんの少し悶着はありましたが……。でも一番は、この土地に集まってきた街の人たちが協力し合って、一生懸命、自分たち自身の生活を築こうと努力してくれたおかげです!」

「そうか、あの二人が……」

 俺は兄妹たちが今日まで積み上げてきたものの大きさと、その成長に込み上げるものがあった。それが、こうして形あるものとして現れていたのだ。


「アッシュお兄様に見ていただきたい場所は、他にもたくさんあるんです」

 アイリッシュも控えめに言った。まだこの子からは、初めて会う俺にも、そして兄妹たちにもどこか遠慮が見える。

「こっちにも、アイリッシュが中心になって設えてくれた、アッシュ兄さんのためのお部屋もあるんです。そうですね──言わば、魔王様の執務室!」


 イーサは、下へと続く階段へと俺の手を引いた。しかし、そのときだった──。


 それは、あまりにも突然のことだった。俺は頭上にただならぬ気配を感じ、咄嗟にイーサとアイリッシュを背後にかばうようにして身構えた。まるで俺たちの到着を待っていたかのように、それは現れた。耳をつんざくような猛々しい声と羽ばたきとともに、巨大な影が次々と飛来し、俺たちの頭上を覆ったのだ。


 見上げた先に円を描くように飛び回っていたのは、巨大なガーゴイルの群れだった。それも数十体はいる。禍々しい巨体を震わし、人面に奇妙な笑みを湛え、その目が怪しく光る。

「あれは、エンペラーガーゴイル……」

 俺は呟いていた。数匹でも、この街くらいなら平気で蹂躙してしまうだろう。それが、群れをなしていた。

「あんなのが、あんな数……なぜ……」

 俺は無意識に腰元に手をやった。その手は何にも触れない。俺は丸腰だった。何ひとつ武器になるものを手にしていない。それに、新しいガウルの街の形状も人々の現状も、全く把握しきれていないことに思い至った。


 俺は、今できる限りの手段を思案していた。


「イーサ、アイリッシュ。俺がお前たちと、この街を必ず守る。二人は街に降りて、住民たちの避難を!」

「アッシュ兄さん、大丈夫です……!」

「イーサ、いいからアイリッシュを連れて早く!」


 俺が怒鳴るように言っても、二人は動こうとしなかった。二人のあまりに平静な声色が、むしろ俺の焦りを際立てていた。


「早く行くんだ! 行け、二人とも!」


 俺が叫んだその瞬間だった。


「アッシュお兄ちゃあぁぁぁーーーん!」


 黄色くかん高い声が青空いっぱいに響きわたった。その声とともに、小さな人影が俺を目掛けて一直線に飛び込んできたのだ。


 何が起きたのか、さっぱりわからなかった。

 人影はぶつかる直前で奇妙に減速しながらも、俺の胸に勢いよくしがみついた。俺はその勢いに耐えきれず、そのまま尻もちをついた。驚きと、尻もちをついた軽い痛みとで、張り詰めた緊張の糸が途切れ、一気に脱力してしまった。


「うんうん、お兄ちゃんだ、あたしのお兄ちゃんだ」

 胸の中にその小さな頭部を擦り付けるようにしながら、可愛らしい声が何度も何度も唱えていた。


「やっぱりだ。やっぱり、お兄ちゃんの匂いだった! うん、あたしの大好きな匂い! 大大大好きなアッシュお兄ちゃんの匂いだ!」


 目を開けると、ふかく青い短い髪をさわやかな風に揺らし、見覚えるのあるより少し大人びた少女が、屈託のない笑みを浮かべて、ただまっすぐに俺を見つめていた。


「……ダリアなのか?」


「うん!」


 つぶらな瞳が、きらりと輝いた。

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