第21話「伯爵からの依頼」
実のところを言えば、ギュスターヴの根城であるジルドゥアレ城をリゼリアの操る馬に乗って脱出した後の記憶というのはあまり鮮明ではない。左腕から昇ってくる甘い疼きのような痛みのようなそんな感覚に頭を支配され、頭に霧がかかったように何もかもが不明瞭になった。
耳元で何度も俺の名前を必死に叫んでくれるリゼリアの声だけがぼんやりとした意識の中でなんとなく分かり、意識がもう一度鮮明になるとそこはヘンケンさんの工房にある自室だった。
泥濘のまどろみの中から意識を揺り起こしてみれば俺はベッドの上に寝転んでおり、左腕は執拗という言葉が似合うくらいに念入りに包帯が巻きつけられていた。
包帯には黒インクで十字とひし形を掛け合わせたようなシンボルが書き込まれており、寝起きで思考のまとまらない頭から必死に記憶を引き出してみればそのシンボルが王国が信仰する女神のものだと思い出せた。
「やぁ、ディートリヒ君。お目覚めになりましたか」
声の聞こえた方を見れば、クリーム色のよく手入れされた美しい髪の毛をウルフカットにした一目見て貴族だと分かる育ちの良さそうかつ物腰柔らかそうな男性がトレーを持って部屋に入ってきているところだった。
少なくとも顔見知りではないな、ウルフカットの男性は白いシャツの上に同じく白い付け襟を付けており、その衣服の上に貴族らしからぬクマのイラストが刺繍された白いエプロンを身に着けている。
男性は木のボウルと木のスプーンが載ったトレーを持ちながら俺の真横に近寄り、ベッドの上で上半身を起こした俺の膝の上にそっとトレーを置いた。
「まだそんなに長く人生を続けてるわけじゃないけど、エプロンを付けた家庭的な貴族の男性っていうのは初めて見ましたよ」
「あぁ、すまない……どうにもクセというのかね、元々それほど血筋に生まれたわけではないからね。幼い頃から何でも一通りできるようになっていてね。料理もついつい自分でやってしまうのだよ」
皮肉っぽい表情でこちらを見た男性は近くにあったイスを手に取り、俺のすぐ横にイスを置いて座り込んだ。膝の上に乗せられたトレーには湯気の立ち昇るスープが入ったボウルがある。左手はミイラかってくらいに包帯でぐるぐる巻きにされているので、右手だけを使ってとりあえず食事を取る。
「それで……あなたはどこのどちらですかね、まぁ少なくとも敵ではないっていうのは分かりますよ。……お、このスープ、デッカイ角切りベーコンが入ってる、美味しい」
「そうだな、どこの誰か分からないまま食事をするのも不味かろう。では、自己紹介だ。私の名前はジャン・ドラレーヌ伯爵。少し前までは子爵だったがな。……狐の不思議な商人、彼女に紹介されてな。君に会いに来たのだよ。君が私の問題を解決する力を持っていると言われて……な」
ジャン・ドラレーヌ伯爵と名乗った男性はキザっぽい仕草で前髪をふっと払うと身に着けていたエプロンを脱ぎ、イスの背もたれに掛けた。いやいや、キザっぽい仕草をしてもクマちゃんエプロンを仕舞うところで台無しですよ。
それにしてもドラレーヌか……そうか、この人が俺とリゼリアを強制連行したあのギュスターヴと敵対している貴族のドラレーヌか。王国南方の土地の治世権を巡って熱いバトルを繰り広げているはずの貴族の片方が、こんな場所で油を売っていていいのかよ。
ジトォ……とベッドの上からドラレーヌを見つめると、彼はどこかバツが悪そうにポリポリと頬をかき、俺から視線を逸らしながらこう言った。
「あー……実はな、つい最近まで中央の連中に拘束されていてな。オルデュランのことは部下に任せきりだったんだ。そのせいでどうにもあの子爵もどきが暴れ回ってしまっていたようだな、申し訳ない」
「なんだよ、あんたも身内か誰かに覚えのない罪を被せられたのか」
「いやいや、君ほど大変な目には遭っていないさ。ギュスターヴに金で雇われた審問官があることないこと私に吹っ掛けてな、身辺調査……という名の時間稼ぎだ。大方、ギュスターヴは中央に私を縛り付けている間に事を済ませたかったのだろう」
ボウルに入った塩辛いベーコンのスープを飲み干すとドラレーヌ伯爵は自然な手つきでボウルやトレーを回収し、出入り口の横の床に置いた。
「あの不思議な狐の商人……名はイェンランと言ったかな。彼女は方々手を尽くして私が馬車に乗ってオルデュランへ向かっているのを突き止めたらしくてね、強引に馬車を停め、君に会うようにと情熱的に語ってきたよ。……あぁ、それから君をここまで連れてきたあのお嬢さん、彼女は君に治癒術を掛け続け、ほとんど失神のような形で倒れてね。隣の部屋でヘンケン殿が面倒を見ているよ」
その包帯は一時的に穢れの浸食を止めているとのことだ、外さないようにな。とドラレーヌ伯爵はイスに座り直し、俺の左腕を指差した。
「さてと、ディートリヒ・エルゼラント君。ビジネスの話をしよう」
ドラレーヌ伯爵は膝の上に肘をついて両手を合わせ、こちらと目を合わせた。
「まずは報酬の話だ。君が私の願いを叶えてくれれば、中央の権力者共が君に掛けている嫌疑を払拭して周りを気にせずに出歩けるようにしよう。まぁ、正確に言えば君に掛かっている罪状を再審議するように働きかけ、少なくとも王都以外で捕まることがないように取り計らおう」
「俺は追放罪を受けた上に勝手に脱走して、さらには王殺しの場にも居合わせた男だぞ。そんなの可能なのか、この国でよ」
「無論だ。今のこの国ではゴールドが全てだ。充分な額を握らせれば、奴隷だって大臣になれるのだよ。それから、私がギュスターヴとの戦いに勝った暁にはオルデュランの土地の一部を分け与えよう。……どうかな」
美味しい話だ。再審議を行うことで罪人から容疑者へ立場が変われば、少なくとも王都以外で人目をあまり気にせずに済む。それにオルデュランの土地の一部を貰えるというのもかなり魅力的だ。だが、そんな魅力的な話に裏がないわけがない。
「伯爵。そのとても美味しそうな果実を得るために、この俺に何をさせる気ですか」
「君にやってもらう事は二つだ。『ジャン・ドラレーヌ伯爵の名の元、蛮竜を討伐する』そして『ギュスターヴが不法に占拠するジルドゥアレ城を攻略する』この二つだ、帝国の……それもあの首狩り飛将軍ガルゼン・グラートの元で育った君であれば、可能だろうと私は信じている」
俺と彼の間に沈黙が立ち込める。互いが互いの顔を見て、その顔の奥にあるものを探り合っている。この人、俺が親父殿の元で育ったことまで知っているのか。それにこの口ぶりだと、ガルゼン・グラートその人についても詳しい感じがあるな。もしかすると元帝国軍人とかそこらへんか。
たっぷり一分間、重苦しい沈黙が流れた。沈黙を破ったのはドラレーヌ伯爵だった。
「…………ディートリヒ君。君に信頼してもらうために一つ打ち明けるのなら、私が動かせる兵士は少ない。元々は領地無しの子爵だったからな、私に今従っている騎士達は練度には自信があるが、絶対数が足りない。それに私は戦いというものに対して才能がないらしくてな……ギュスターヴと戦っても勝てる自信がないのだよ」
ドラレーヌ伯爵は部屋に他に誰もいないことを確認すると小声で俺に弱音を漏らした。俯いた顔に浮かんだ気弱な笑みはおおよそ演技とは思えない、心に来るものがあった。
きっとこれは俺に迷惑を掛けたイェンランが用意してくれたとびきりのチャンスというものなのだろう。左腕から回る穢れのタイムリミットが迫る中、蛮竜討伐の報酬を支払ってくれる人間を確保できれば御の字というやつだろう。
「伯爵。紙を一枚、いや二枚……いや三枚だな、三枚用意してくれ。帝国の流儀に乗っ取って契約書にはサインと拇印をお願いするよ」
ベッドから跳ね起きて、イスに座った伯爵の肩を叩く。窓を見てみれば光が差し込んでおり、今まさに山の尾根に隠れていた太陽が姿を現すところだった。腕の疼きから察するに穢れが全身を侵すまでのタイムリミットは今日一日ってところか。
さてと、武器も、理由も、報酬も用意はできた。いざ、蛮竜退治としゃれこむか。
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