第2話 恋の花

私は親を知らない。分かっているのは、一歳の時に、香織さんが私を引き取ったということと、本当の母は死んでいるということ。

香織さんは私にとって、ある時は母親であり、またある時は親友であり、父でもあった。あふれんばかりの愛情を受けて幸せだった。私の出生の謎について、知りたいという気持ちもあるが、それを聞くことは、香織さんの愛情を否定するようで、できなかった。

大学の入学式まであと一週間を切ったところで、ようやく引っ越しの荷物をまとめ始める。初めて香織さんと離れて生活することになる。ぎりぎりまで一緒にいたかった。三月三十日まではいつものように香織さんと寝る。翌日、引っ越し先のマンションで一人の夜を迎えた。

入学式の日は青空の中で桜が咲き始めていた。私が所属する工学部の応用物理学科は男性が多く、理系女子は私だけだった

桜が満開になった頃、一般教養の心理学の授業に出た。この授業は評判が良く、様々な学部の人が出席するらしい。私は何とか席を確保した。ガヤガヤと学生の話し声が吹きまわっているところに、講師が入ってくると、一瞬にして凪いだ。小柄で白髪をオールバックにし、紺のデニムジャケットを着ていている。体はスポーツでもしているのか、引き締まっているようだ。私の本当の父もこんな感じだったらいいな、と思う。

教壇に立つと、

「みなさん、心理って何だと思いますか?」

 講師はそう言って最前列の学生何人かに質問する。誰も答えられない。

「分からないですよね、心理を知るには、それをお見せするのが手っ取り早いです。では隣の席の人とペアになってください」

教室がざわめき始める。

「よろしくおねがいします」

という声がして右を向いた。すらっとした男子学生が、白い歯をわずかに見せながら微笑えんでいる。デュシェンヌ・スマイル、本当の笑顔だ。私は雷に撃たれた。

「では、二人は握手をしてください。手を離したらだめですよ」

教室はさらにざわめいた。

男子と握手。初めての体験に恐る恐る手を差し出す。優しく包むように手を握られる。大きな手に繋がった腕は血管が浮き上がっている。私の顔が徐々に発熱してくる。

「いま皆さんの身体には何が起こっていますか? 恥ずかしいと思いますか? 緊張していませんか? きちんと息を出来ていますか? では次はお互い目を合わせてみて下さい。手はそのままですよ」

講師は一席ぶつ。また教室はざわついた。私の心臓はおかしくなった。どうしてこんなに早く脈を打つの?

「大丈夫?」

 彼の声に顔を上げる。目が合う。私は見つめ返すことが出来ずに視線をずらした。

「今度はどんなことが起こっていますか? 照れくさいですか? 心臓がドキドキしますか? 手に汗をかいていませんか? はい、それじゃあ相手にお礼を言って、手を離してください」

 講師がそう言うと、男子生徒は私に頭を下げ

「ありがとうございます」

そして手を離した。私は自分の掌が湿っていることに気づく。

「皆さんの身体は大きな異変が起きましたね。ただ握手して目を合わせただけなのに。この働きこそ心理なのです」

 講師はそう言った。心理、確かにある。

講義が終わるとデュシェンヌ・スマイルの彼は「どうもありがとう」と言って立ち去った。私は深々と頭を下げた。キャンパスの桜は満開になったばかりなのに、もう花がほとんど散ってきていて、なにか物足りなさそうに立っている。

この日以降、心理学の授業に出席する度に、彼に会えるのではないか、と期待した。彼と会うことも、目にすることもなかった。結局会えたのはあの一回だけだった。

生協の食堂や本屋、多目的室や図書館に行っては、彼に会えないかと密かに探した。しかし願いは叶わなかった。学生の総数は五千人くらいの大学だから、一度顔を合わせたら、もう二度と会えないこともあるかもしれない。梅雨が終わる頃にはあきらめた。

ミュージックボランティアサークルの存在を知ったのは初夏だった。ボランティアに興味があった。私の人生は香織さんの無償の愛に支えられてきたから、私も誰かのためになってみたいと思う。ポスターには見学大歓迎と書かれ、その下に部長のメールアドレスが書かれている。見学をしたいとメールを送るとすぐに、日時と場所を書いたメールが帰ってきた。

 共通教育棟は古い。多目的室からはピアノの音が聞こえる。ノックして引き戸を開けると、ギギギと音を立てた。正面奥にアップライトのピアノが置かれ、女性が童謡を演奏している。その手前には丸テーブル戸椅子があり、もう一人女性が一人座っている。部屋の隅にはパソコンとプリンターが乗った机がある。その前にいる人が私に気づいてこちらに歩いてくる。

「メールをくださった和野さんですね。部長の谷越拓海です。看護学部四年生です」

デュシェン・ヌスマイル。本物の笑顔だ。このサークルの部長だったとは。タニゴシタクミ、私はその名を脳に深く刻み込んだ。

「僕たちの活動は、土曜日に高齢者のデイサービス施設に行って、音楽を使ったレクリエーションをすることです。平日の十五時から十八時にその準備をしています。」

 すらっと背が高く細身の拓海さんにくぎ付けになった。

「今週の土曜日の活動に見学してみたらどうですか?」

女性部員に提案され、そうすることになった。施設までは、副部長が車でメンバー二人を拾って現地まで赴くという。谷越さんも車で、修士課程のメンバー一人を乗せて施設に行く。

「和野さんの家はどのあたり?」

と女子部員に聞かれ

「明治塔駅付近です」

と答える。

「じゃあ見学の送り迎えは僕がしますよ。施設に行くときそのあたりを通りますから。修士のハルカさんを乗せた後、駅前のコンビニまで迎えにましょうか」

 と部長の谷越さんは言う。三人で乗り合わせるなら安全か、と思って承諾した。

 帰る頃には日が沈みかけていた。あと少しで完成しそうな満月が黄昏の空に昇っている。


 土曜日。私は拓海さんの車の助手席に乗り込んだ。車には私と谷越さんしか乗っておらず、修士課程の学生は乗っていない。

「あー、ハルカさんね、最近、修士論文が忙しくて参加できないんだって」

突然二人きりになったと分かり心がざわついた。軽乗用車なので谷越さんと距離が近い。

「和野さん、心理学の授業で僕と一度お会いしましたよね、覚えてみえますか?」

 谷越さんは信号で止まりながらそう言った。

「はい、よく覚えています。第一回の授業以降は出席されていませんでしたよね」

 私の言葉にちょっと驚いたような顔をして

「良く分ったね。僕ら看護学部は四年生になると病院実習が始まるの。それで心理学の授業には第一回しか出られなくなったんだ。握手したけどもう会うこともないか、と思っていたから、サークル見学に来た時は驚いたよ」

 谷越さんは青信号を確認してアクセルを踏んだ。

「私も、もう会うことはないのかなって思っていたので、再会した時は本当にびっくりしました」

 言い終わった後、恥かしくなってうつむいた。


施設に着くと他のメンバーが集まり、準備をはじめる。二十人くらいのデイサービス利用者さんを前にして、みんなで歌ったりクイズをしたりする。キーボードの担当者、司会の担当者。みんな何かしらの役割を持っている。谷越さんは、利用者さんがレクリエーションについて来られているか確認し、サポートをする。私はその後ろについてまわる。谷越さんは利用者さんに話しかける時は対面して話さず、横にしゃがんで目線の高さを合わせる。高齢者と接する拓海さんはとてもあたたかい。

活動後に学生と施設の職員さんで振り返りをする。サークル活動は利用者さんの生活を彩る一つの要素になっている、と職員は言った。「人の役に立てる」と思った私はサークルに入ることにした。

帰り際、私は施設の中から花見ができるようになっていると気づく。ここの桜の木はどれも満ち足りていた。


 サークル活動を重ねていくうちに、私は谷越さんと二人で出かけるようになった。

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