3 飲み込まれる
やがて授業は始まった。先生ははっきり見える。なのに、内容は聞こえない上に板書は見えてはぼやけるの繰り返し。
果てには知らない文字が現れるようにすら感じられる。どうしようもなく退屈な中、キーホルダーにはあれから異変はない。
どうせ現実じゃないのだから、今のうちに学校の外を調べてみようと思って三時間目に教室を出ようともしてみた。
けれど途端に周りの音がはっきりして、血相を変えた先生に怒鳴られてしまった。理不尽だ。
そうしているうちに昼休みになった。未だに月ノ瀬の記憶の核は何なのかが掴めない。
どうしようもなく焦りだけが募っていく。月ノ瀬の母親は期限なんて付けていなかったけれど、この世界でぼんやりと過ごそうものなら、僕までここの世界の住人にされてしまいそうだ。
改めて眺めた昼休みの教室は違和感だらけだ。何人かは現実と変わり無いのに、同じ言葉ばかり繰り返す奴や、果てには一言も話さない奴もいる。
かと思えば、見知らぬ女子が流暢に話している。
やっぱり、誰と会話できて何がはっきりしているか。それは僕だけの記憶じゃない。囚われている月ノ瀬の記憶も混じってできているのだろう。
その日の弁当は、まるで普通にできたものに砂を混ぜたみたいだった。
明らかに母が作ったものであるはずなのにだ。
ぼんやりと、朝ごはんも同じようだったと思い出す。味の全てを覚えているわけではないからだろう。けれど、残さずにはいられなかった。
そして、それはまた起きた。
「……ぎんか、そ……めて……」
『ぎんか』とは、何のことだろう。けれど、それが意味のある言葉のように思えてならない。
誰かを必死に説得しようとする月ノ瀬の声、それに混じって高い声で微かに、センパ、コトワ、ナイ。
朝よりはるかにはっきりと聞こえる。それに、教室ではなく頭の中に直接響くような衝撃だった。先輩の誘いを断れないと叫ぶ少女と、止めようとする月ノ瀬。
そんな場面が目に浮かぶ。月ノ瀬に、一体何が起きているのだろう。それを知る術をまだ、僕は持ち合わせていなかった。
♦︎
キーホルダー片手に校内を走り回ってみる。二年の教室の前で、月ノ瀬が誰かと談笑しているのが見えた。
この世界だからこそあり得るのかもしれない。全力で走る。
「誰?」と言われるかもしれないけれど無事を確かめたい。
あと、少しだ。突然、何かにぶつかる感覚がやってくる。
「また? アタシの席に座るわ、ぶつかってくるわ。君、本当に何なの?大体廊下で走るなんて……」
二重の吊り目が僕に向く。朝に会った先輩にぶつかってしまった。お小言を受けているうちに月ノ瀬は遠ざかっていく。
チャイムが鳴って、教室に戻るしかなくなった。まるで、この記憶の世界が僕らを会わせたがらないみたいだ。
♦︎
だんだん、僕も飲み込まれかけていたのかもしれない。午後、僕はまるで元からこの世界の住人のように過ごしてしまった。
「五十井、じゃあなー」
「また明日」
学校の時計で五時を回った頃。周りが薄暗くなる中、帰っていく去年の友人たちを駐輪場で見送り終わった時、恐ろしくなった。
何日なんてものじゃない。今日の夜まで過ごそうものなら、もうここにいることに違和感すら感じなくなっているだろう。
手がかりすらないことに絶望しかけた時、カバンが突然、痛いほど引っ張られる。
一体誰がこんなことをと目を向ければ、そこには誰もいない。短刀のキーホルダー自体が僕をどこかに導こうとしていることに気がつくまで、そう時間は掛からなかった。
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