第5話:ブルーベリーと、知らなかったもの
翌朝、パンケーキの生地を焼いていると、また――やって来た。
王太子、ライナルト。
扉をノックもせずに開けて、黙って中を見て。
少し、逡巡して、それから。
「なんの用かしら?」
レティシアの声が静かに響いた。
きらきらした金の髪、金の瞳。そのどちらにも笑顔はない。
でも怒りもない。ただ、事務的で、皮肉が少し混じったような口調だった。
「余っただけですけど」
差し出されたのは、焼きたてのパンケーキ。たっぷりのベリージャムが添えられている。
ライナルトはそれを受け取り、少しだけ視線を落とした。
パンケーキ。ジャム。温かなスープ。焼きたてのコーンブレッド。
どれも、見たことがあって、味わったことがないものばかり。
――あんなの、知らなかった。
昨日、ただ香りに誘われて扉を開いたとき。
目にしたのは、笑い声と食卓、家族のようなやりとりだった。
ジーラ――祖父である元国王。
ジョルジュ――元宰相。
そして、政略で嫁いだだけのはずの“妻”が、穏やかな顔で料理をし、出迎えていた。
父である王とは、国政の話しかしない。
王宮には、笑いも、団欒もなかった。
パンケーキは、“与えられるもの”ではなかった。
その事実が、妙に胸に引っかかっている。
「午後からベリー摘みなんてどうだろう?」
と、ジーラがぽつりと口にする。
レティシアはぱっと笑顔になった。
「ベリー? 大好きです! ジャム? ケーキ? 何がいいかしら。楽しみですね」
そのやりとりに、ライナルトは何も言えず。
ただそこに立って、また静かに部屋を後にした。
彼の存在を、誰も責めず、誰も歓迎しない。
けれどそこには、確かに“何か”があった。
その“何か”が、彼の心の奥を、少しずつ動かしはじめていた。
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