第9話 一度きりの長靴

「お母さん! 雨! 雨降ってる!!」


 そんな理由で日曜の朝に叩き起こされると知っていたら、長靴なんて買ってあげなかったのに。

 雨と霧に白く霞む朝の畦道。

 ぴょんぴょんと雨の中を跳ねまわるレインコートの少女の後ろを、やや距離を空けて母親は歩いていた。

 眠い目をこすり、大きなため息を吐いて、タバコを取り出して火をつける。


「おーかーあーさーーーん!」


 母親はタバコを咥えて、だるそうに手を上げて応える。


 何が楽しいんだか。


 雨のなか濡れずに動けることがそんなに面白いものなのか。

 それだけ動いたらいまに中まで水が入り込んでくるだろうに。

 そもそも顔は守れていないし。びしょびしょに濡れて気持ち悪くないのか。

 わからない。


 子供を育て始めて三年。

 彼女は一度として子供と心を通わせたことがなかった。

 ただただ野蛮で、未熟で、意味不明なもの。

 責任があるから、法律があるから、親の目があるから。

 それだけの理由で育てていたもの。


「あはははっ、あっ、ははっ、きゃはっ、きゃはははっ!」

「…………何が、楽しいんだか」


 娘はぴょんぴょん飛び跳ねて、水たまりという水たまりすべてを長靴で蹂躙する遊びに興じていた。

 目についた端から両足で踏みつけて、地団駄の連打で踏み散らし、水かさが減れば次の水たまりへ。

 大きく飛び上がって、足を畳んで飛びこむように。



 消えた。



「………………ぁ?」


 田んぼに挟まれた無人の道。

 目の前に今あるのはそれだけ。

 視界の中を煩わしく動き回っていたあの小さな生き物は、消えていなくなっていた。


「……は? ……カスミ? カスミ、どこいったの!」


 傘を放り出しさっきまでいたはずの場所へ駆け寄る。

 水たまり、それしかない。

 田んぼに落ちた?

 左右を見回してもいない。

 隠れる場所なんてない。

 こんな開けた場所で、子供の足で、そんなすぐに遠くに行けるはずない。


 いない。

 どこにもいない。

 さっきまでいたのに。

 ここに。飛び跳ねていたのに。

 ありえない。

 一瞬で消えた?

 ありえないありえないありえないありえない。

 でもいない。

 いない、いないいないいないいない。

 どこにも、どこにも。

 いなくなった……?


「カスミっ!! カスミ、カスミかすみ、かすみっ、どこ、カスミっ!!」


 半狂乱で娘の名前を叫ぶ母親。

 四方八方へ呼び掛ける彼女の足が、こつんとなにかにぶつかった。


「は……ぁ……、…………ぇ、…………え?」


 さっきまでなかったもの。


 さっきまで、娘が履いていたもの。


 黄色い長靴。

 水たまりに、浮かんできたように、今はそこにあった。


「かすみ…………、だっ、どこ、どこに」


 膝から崩れ落ちて、水たまりに手をつく。

 手は、着く。汚い泥水の底に、簡単に手が付いている。


 なのに長靴は半分沈んでいる。

 そんな深さすらここにはないはずなのに。



「嫌……いや、いや、いや、かすみっ、そんな、ぁ、っか、すみ……!」



 ありえないと理解を拒みながら。

 母親は、突然に娘を失った事実に、ただただ咽び泣くことしかできなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る