15、ルッチ楽長の個人指導

「どうした? 鍵は開いているぞ」


 中からわずかに苛立ったルッチ楽長の声が聞こえる。


 いくつもの楽器の音が漏れ聞こえる廊下で、僕は盛大なため息をついた。


 扉を押して教室に足を踏み入れると、彫刻が施された高い天井の下に年代物のチェンバロが置かれている。壁にはかつては金箔が貼られていたらしい痕跡が残っており、百年前から時が止まったような錯覚に陥った。


「しけた顔してるな。メシが足りなかったか?」


 楽譜棚の陰からルッチ楽長が姿を現した。


「それもありますけど」


 指導教官がルッチ楽長だからがっかりしたなんて言えない。僕は目をそらした。羊皮紙に書かれた古い写本から最新の印刷楽譜まで、何世紀にもわたる音楽の歴史が詰まった楽譜棚が見えた。


「けど、なんだ? 喜べよ。マエストロ・ディ・コンチェルト自ら指導してやるんだからさ」


 ルッチ楽長は僕の心を読んだのか、獲物を見つけた毒蛇を思わせる笑みを浮かべた。


 僕は思わず背筋を伸ばす。


「はい。光栄です」


「棒読みだな。そんなふてくされた顔してっと、美少女が台無しだぜ?」


 楽長は喉の奥でクククと笑いながら、チェンバロの椅子にドカッと腰を下ろした。


「午前中の聖獣召喚は見事だったな」


「知ってるんですか!?」


「そこの窓からよく見える」


 チェンバロの前に座ったまま、楽長は大きな格子窓に目をやった。


 近寄って見下ろすと、魔法陣の描かれた中庭全体が視界に収まった。


「だが、あの歌い方では話にならん」


 厳しい言葉が、後頭部を殴りつける。


「歌が器楽アンサンブルに埋もれて、三階ではほとんど聞こえなかったぞ」


 先輩たちに褒められて有頂天になっていた午前中の自分が、急に恥ずかしくなってきた。


「お前の声にあわせて曲を書いた」


 楽長が楽譜を持った手を突き出す。五線譜に流麗な音符と歌詞が並んでいるのは、楽長の手書きではなく、写譜師コピスタが清書した手稿譜だからだろう。曲名は『N.クロフォードのための練習曲第五番』と、僕の本名が書いてあった。


 第五番? ということは、この曲を書く前に楽長は、四曲も僕のために作曲してくれた……? それに偽名のクローチェじゃないってことは、一体いつ――


「今のお前の音域を想像して書いたが、合わなければ移調する。とりあえず譜読みするぞ」


 僕の思考は楽長の声に遮られた。慌てて歌詞に目を通す。聖歌でないことは明らかだが、恋の歌でもない。


 もう一度曲名の下を見ると――


「詩人カッシウス・セレヌスの詩集『光の深奥』より」


 僕は記載されている詩人の名を口の中でつぶやいた。気付いた楽長が、


「聖王都で人気の詩人だ」


 と教えてくれるが、聞いたことがない。古風な響きから筆名だと分かるが、知らなければ相槌の打ちようもないので黙っていた。


「貴族や知識層の間でサロン文化が花開いているからな。セレヌスの詩は知的で繊細だと、ご婦人方にもっぱらの評判なんだよ」


「へえ」


 僕はわざと気のない返事をした。同門の先輩が、侯爵夫人主催の音楽夜会に呼ばれていたのを思い出したからだ。先輩も聖歌隊出身で、少年時代は太って冴えないアルトだったのに、いつの間にか花形テノールとして舞台で人気を博し、貴族のパトロンまで得ていた。


 悔しさで吐きそうになる僕は、リタを負けず嫌いだと笑えない。


 楽長がチェンバロで最初の和音を弾き、僕は楽譜を見ながら歌い始めた。


「来たれ――」


 だが、最初のシラブルを歌っただけで、楽長の手が止まった。


「話し声についても言ったが、咽頭を押し下げるような発声はするな」


 再び前奏が始まり、


「来たれ、未知なる光よ」


 僕はなるべく自然に歌った。だが、楽長はまた伴奏を中断した。


「無駄に胸に響かせるな。昔のお前はそんな歌い方はしていなかったはずだ」


 鋭い指摘に、僕は唇を噛んだ。テノールの師匠に言われた発声法を試していたのだ。


「もう一度。ただ流れる息に声を乗せるだけだ」


 楽長が歌の始まる二小節前から前奏を弾き直す。僕は深呼吸をして、あまり考えずに声を出してみた。


「来たれ、未知なる光よ」


「そうだ。その響きだ」


 楽長の指が鍵盤の上を流れるように動き始めた。僕も楽譜を追いながら、旋律を紡いでいく。


「無限の可能性おもいを秘めた

 いまだ目覚めぬ命よ」


 歌い進めるうちに、この曲が単純な練習曲ではないことに気づいた。一見シンプルな旋律の中に、巧妙な転調が隠されている。高音域では華やかに、中音域では温かく、低音域では力強く――まるで僕の声域全体を探るように書かれていた。


「聖なる霊獣たちが今

 奇跡の乙女を迎える」


 召喚と題された最初の部分を歌い終えると、楽長は腕を組んで僕を見つめた。


「相変わらず無駄に力んでいるな。お前は自分の声を否定しすぎだ」


 僕は目をそらしてうつむいた。男らしい声で歌いたいんだもん、という言葉を漏らさぬよう、ぎゅっと唇を引き結ぶ。


 楽長の瞳が、まるで僕の心を見透かすように光った。


「テノール野郎に何を言われたか知らんが」


 僕は思わず息を止めた。僕が聖歌隊引退後、テノールの師匠に師事していたことも知っているのか、この人は。


「歌手にとって基本的かつ重要な要素がなんだか分かるか?」


 楽長の問いに僕は恐る恐る答えた。


「呼吸法でしょうか? あ、姿勢かな。いや、発音の正確さかも――」


「どれも違う。天から与えられた声という贈り物を信じることだ。俺の一番好きな格言は、『才能は、それを信じる者がいて初めて開花する』ってやつさ」


「僕の先生は言ったんです」


 うっかり僕は、泣き出しそうな声で打ち明けた。


「僕の変声後の声に関しては、自然が仕事をしなかったって」


「くそっ」


 ルッチ楽長がこぶしで椅子をたたいたので、僕の心臓は跳ね上がった。


「愚の骨頂だな。自分の指導力を棚に上げやがって。テノール野郎自身は、大した訓練を積まなくても歌える、扱いやすい声を手に入れたんだろうよ。だから指導法の引き出しがねえんだ」


 僕は指導力のない先生について、間違った訓練をしてきたのだろうか。うなだれて、白いショートブーツのつま先を見下ろした。


「この二年間、僕は必死で無駄な努力を重ねていたんですね」


「それは違うぞ」


 楽長はすぐに否定した。




─ * ─




楽長の真意は? 次回すぐに分かります!

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