第5話 比叡山炎上

比叡山炎上 〜魂を喰らう儀式〜


夜の霧が山を覆っていた。月光すら届かぬ深い森の奥、枝葉が風に揺れ、不気味な囁き声のようにざわめいている。


カシはその中を進んでいた。

祖父がかつて語った「混沌の気」の正体――

それを探る旅は、ついにこの山へと彼女を導いた。


「比叡山……仏の山のはず、なのに」


空気は重く、吐く息すら黒く染まりそうだった。草木が枯れ、野鳥の声ひとつない。まるで、生の気配が根こそぎ消されていた。


カシは身を低くし、黒衣の僧たちの列に目を凝らした。


行列は無言のまま、奥の大講堂へと続いている。

その手には灯明ではなく、黒く揺れる炎が握られていた。


「……あれが、儀式の灯?」


カシは息を呑み、気配を殺す。祖父の形見の短弓に手をかけながら、彼は密かに講堂の裏手へと回り込んだ。


その堂の内部、仏像の代わりに据えられていたのは――

人の骨で編まれた祭壇。


その中央、血の池に囲まれて立つ法師が声をあげる。


「魂よ、門を開け。

 輪廻を越え、魔の主よ、応えたまえ……!」


その詠唱に合わせて、壇の上に置かれた幾体もの人間の遺体が、ぴくりと痙攣した。


カシの目が見開かれる。

――まだ、生きている。


「っ、これが……祖父が言っていた“混沌の気”の正体……!」


突然、天井が震え、堂の上空に黒い渦が現れた。

渦の中心に、なにかが“現れよう”としていた。

巨大な影。角。翼。そして、狂気の気配。


「魔王を……召喚しようとしているか……!」


カシは耐えきれず、弓を構えた。が、矢を放とうとしたその瞬間――

堂の奥、幾百の僧侶たちのうちの一人が、静かに振り返った。


彼の目は、もはや人間のそれではなかった。

黒く濁った瞳。

人ならぬ笑み。


「……見ていたな、小僧」


カシの身体が強張る。殺気が、周囲から一斉に湧き起こった。


「まずい……っ!」


彼は即座に矢を射放ち、煙幕の小瓶を足元に叩きつける。

紫煙が広がる中、カシは谷を駆け下りた。

黒衣の僧たちが、獣のような咆哮を上げて追ってくる。


だが、彼の目的は達せられていた


京都・本能寺の奥にて。

カシの報告を受けた織田信長は、長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。


「……やはりな。坊主どもが、魔を招いていたか」


彼の目は、燃えさかるような怒りと、冷徹な覚悟を宿していた。

配下たちは息を飲み、言葉を失う。


そのとき、信長は静かに奥の祭壇へと歩いていった。

そこに祀られていたのは、一振りの剣――


「天啓の剣」


かつて、伊勢の神宮にて神託を受けたとされる聖なる剣。

信長はその柄に手をかけ、ゆっくりと抜いた。

刃が空気を裂いた瞬間、部屋の灯火が一斉に揺らめく。


「神は言われた。“混沌を焼き払うは、正義の炎なり”」


信長は剣を地に突き立てた。

すると、大地が震え、剣先から光が走った。


――ゴォォォォ……


大地の下から湧き上がるように、聖なる火柱が天へと昇る。

その炎は赤ではなく、蒼白に輝く聖火。

魔を祓うために生まれた、“天の火”。


信長は振り返り、全軍に呼びかけた。


「皆の者、この炎を掲げよ!混沌の気を、魔の儀式を、この比叡山ごと焼き尽くせ!」


「おおおおおーーーーっ!!」


兵たちは雄叫びをあげ、聖火を松明に移す。

その火は、もはやただの武力ではない。

魔に対する、人間の魂の反撃だった。



比叡山に突入した織田軍は、聖火を掲げながら進軍した。

黒き僧兵たちはその炎に触れるたび、悲鳴をあげて灰と化す。


講堂の上空に渦巻いていた魔王の影も、天啓の火に焼かれ、消えゆく。


カシはその光景を見つめながら、胸の奥でつぶやいた。


「……祖父。やっと、あなたの意思を継げたよ。

 混沌の源は、いま、燃えている」



炎に包まれながら崩れ落ちていく比叡山。

だが、その灰の中――何かが蠢いていた。


次なる魔の胎動を、誰よりも早く察知したのは、

天啓の剣を再び鞘に収めた、織田信長であった。


「……終わりではない。まだ、混沌は眠っているだけだ」


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