第7話 決断の時、そして旅立ち

アンナの言葉は、エミリーの心に、まるで雷鳴のように響き渡った。彼女の胸は、期待と不安がないまぜになった複雑な感情で満たされていた。アンナの工房で働く。それは、これまでの路地での生活とは全く異なる、未知の世界への誘いだった。古びた絵本の中に描かれたような、光り輝く場所へ。


「私の工房に来てみない?あなたの才能を、もっと大きく花開かせてみない?」


アンナの声が、エミリーの耳元で何度も繰り返される。エミリーの脳裏には、図書館の女性が語った「特別な光」という言葉、そして、老婦人が託してくれた希望が、鮮やかに蘇った。もしかしたら、このチャンスこそが、その「特別な光」を現実のものにするための、運命の扉なのかもしれない。


しかし、同時に、エミリーの心には不安の影も忍び寄っていた。路地での生活は、決して楽なものではなかったが、それでも、そこには彼女が慣れ親しんだ日常があった。図書館の女性、そして、彼女のささやかな隠れ家。それらすべてを捨てて、全く新しい環境に飛び込むことへの恐れが、エミリーの心を締め付けた。


アンナは、エミリーの戸惑いを察したかのように、静かに微笑んだ。


「すぐに返事を出す必要はないわ。よく考えて、あなたの本当の気持ちを聞かせてちょうだい。私の工房は、いつでもあなたを歓迎するわ」


アンナはそう言い残し、立ち去った。エミリーは、その場に立ち尽くしたまま、アンナの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。彼女の心は、激しく波立っていた。


その日の夜、エミリーは、自分の隠れ家で、じっと考え込んだ。拾い集めた布の切れ端、そして、自らが心を込めて作り上げた布人形たち。それらが、彼女のこれまでの人生のすべてだった。しかし、このまま路地で人形を作り続けても、果たして本当に絵本のようなドレスを作れるのだろうか?


彼女は、古びた絵本を開いた。ページをめくるたびに、美しいドレスの挿絵が、エミリーの目から離れない。特に、あのウェディングドレスの輝きは、彼女の心に、燃えるような憧れを呼び起こした。この憧れは、路地の生活で培われたどんな現実よりも、強く、彼女の心を掴んで離さなかった。


エミリーは、次の日、図書館へ向かった。図書館の女性に、アンナからの提案を話した。女性は、エミリーの話を最後まで静かに聞き、そして、深く頷いた。


「それは、エミリーにとって、素晴らしい機会だわ。あなたの才能を、もっと大きく伸ばすことができる場所。私にとって、エミリーは、この図書館で学んだ、最も輝かしい生徒よ。だからこそ、私は、あなたがもっと大きな世界へ羽ばたくことを、心から願っている」


女性の言葉は、エミリーの背中を、優しく、しかし力強く押してくれた。彼女は、不安でいっぱいだった心を、少しずつ落ち着かせることができた。そして、この機会を逃せば、一生後悔するだろうと、直感した。


その夜、エミリーは、路地の星空を見上げた。満点の星々が、まるで彼女の未来を祝福するかのように、キラキラと輝いていた。彼女の心の中には、決意の光が灯っていた。この路地で生まれ育った自分にとって、未知の世界へ踏み出すことは、決して簡単なことではない。しかし、彼女は、自分の夢を追いかけることを選んだ。


翌朝、エミリーは、決意を固めてアンナの工房へと向かった。工房の扉を叩くエミリーの手は、微かに震えていたが、その瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。


扉が開くと、アンナが笑顔で彼女を迎えた。


「エミリー、来てくれたのね。あなたの決断、聞かせてちょうだい」


エミリーは、深呼吸をして、はっきりと答えた。


「はい…アンナさんの工房で、働かせてください。そして、ドレス作りを、教えてください」


アンナの顔に、満面の笑みが広がった。


「ようこそ、エミリー!あなたは、最高の選択をしたわ。さあ、中へどうぞ。ここが、あなたの新しい学びの場所よ」


エミリーは、アンナに招かれるまま、工房の敷居をまたいだ。足を踏み入れた瞬間、彼女は、これまで経験したことのない、希望に満ちた空気に包まれた。工房の中は、様々な種類の布地が積まれ、色とりどりの糸が棚に並べられ、まるで、絵本の中の世界が現実になったかのようだった。ミシンの規則正しい音、針が布を貫く微かな音、そして、布を裁つハサミの音が、心地よく響いていた。


アンナは、エミリーに工房の中を案内した。作業台、裁縫道具、そして、完成したばかりの美しいドレスがかけられているのを見て、エミリーの瞳は、感動の光で輝いた。彼女は、自分がこれから、この場所で、夢に見たドレスを作ることができるのだと、強く実感した。


アンナは、エミリーに、新しい生活の場として、工房の奥にある小さな部屋を与えた。そこは、路地の隠れ家とは比べ物にならないほど、清潔で温かい場所だった。エミリーは、自分の荷物を置き、新しい生活への期待を胸いっぱいに膨らませた。


その日の午後から、エミリーの新しい学びの日々が始まった。アンナは、エミリーに、裁縫の基礎から応用まで、惜しみなく知識と技術を教え込んだ。針の持ち方一つから、布の選び方、そして、複雑な縫い合わせ方まで。アンナの指導は厳しかったが、そこには、エミリーの才能を信じ、それを開花させようとする、深い愛情が込められていた。


エミリーは、アンナの教えを、まるで乾いたスポンジが水を吸い込むように、貪欲に吸収していった。彼女の指先は、布と針の感覚を覚え、次第に、アンナの指示通りに動くようになった。夜遅くまで、エミリーは、アンナから与えられた課題に没頭した。時には、あまりの難しさに、心が折れそうになることもあった。しかし、その度に、彼女は、絵本の中のドレスメーカーの姿を思い出し、諦めない心で、再び針を握り直した。


エミリーの驚異的な学習能力と、持ち前の繊細な感性は、アンナを感嘆させた。アンナは、エミリーの中に、かつて自分も追い求めた、真の芸術性の片鱗を見出していたのだ。


路地の花は、今、新たな土壌に根を下ろし、才能の蕾を膨らませ始めた。この工房で、エミリーは、ドレス作りの真髄を学び、やがて、その小さな指先から、世界を魅了するような、光り輝くドレスを生み出すことになる。路地の片隅で始まった小さな旅は、今、広大な夢への序章へと、その舞台を移したのだ。


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