第4話 小さな針と糸、そして秘めたる決意

図書館での学びと、古びた絵本との出会いは、エミリーの心を根底から揺さぶった。かつては、ただ生き延びるために一日を過ごしていた彼女の瞳に、今は、明確な目標の光が宿っていた。それは、絵本の中のドレスメーカーのように、美しいドレスを創造するという、途方もなく壮大な夢だった。


毎日、エミリーは図書館の開館を心待ちにした。本を読み、文字を覚え、そして何よりも、あの古びた絵本を何度も何度も読み返した。彼女は、絵本の中のドレスメーカーの技術だけでなく、その人物がどれほどの情熱と愛情をドレスに注いでいたかを感じ取ろうとした。しかし、絵本は物語を語るだけで、具体的な制作のノウハウまでは教えてくれない。


「どうすれば、もっと上手になれるのだろう…」


エミリーは、自分の作った歪な布の塊を眺めながら、もどかしい思いを抱いた。針と糸は、図書館の女性が与えてくれたものだが、それだけでは足りない。彼女は、もっと多くの布、もっと多様な道具が必要だと直感した。


ある日の夕暮れ、エミリーは、路地をいつもより遠くまで歩いてみた。ゴミの山を漁り、使えそうなものを探す。その中で、彼女の目に留まったのは、一軒の仕立て屋だった。窓からは、ミシンの音がカタカタと聞こえ、色とりどりの布の切れ端が、ショーウィンドウからこぼれ落ちていた。


エミリーは、仕立て屋の前に立ち止まった。ガラス越しに見える店内は、彼女の目には、まるで宝物庫のように見えた。様々な色の糸、光沢を放つ布地、そして、見たこともない奇妙な形の道具たち。彼女は、それらすべてを、自分のものにしたいと、強く願った。


しかし、店に入る勇気はなかった。薄汚れた自分の姿が、あの美しい店に似つかわしくない。そう思うと、足がすくんだ。それでも、エミリーは、毎日その仕立て屋の前を通るようになった。通り過ぎる人々には気づかれないように、彼女は店の様子を観察した。どんな布が使われているのか、どんな道具が並んでいるのか。彼女の目は、まるで探偵のように、細部にまで注意を払った。


ある日、仕立て屋の店主が、店の前のゴミ箱に、大量の布の切れ端を捨てているのを目撃した。それは、ドレスを作る際に余った、小さく、不揃いな切れ端だった。エミリーの心臓が、ドクンと音を立てた。彼女にとっては、それが宝物に見えた。


しかし、他の子供たちも、そのゴミ箱に群がっていた。彼らは、使えそうなものを漁り、奪い合うように争っていた。エミリーは、争いを好まなかった。彼女は、静かに、他の子供たちが去るのを待った。


夜になり、あたりが静まり返った頃、エミリーはゴミ箱に近づいた。残っていたのは、さらに小さく、汚れた切れ端ばかりだった。それでも、エミリーは、その一つ一つを丁寧に拾い集めた。色も形もバラバラな布の切れ端を、まるで宝石のように大切に抱え、自分の隠れ家へと持ち帰った。


隠れ家に戻ったエミリーは、拾い集めた布の切れ端を広げた。その中には、絹のような滑らかな布、麻のような粗い布、そして、光沢を放つ刺繍糸の残りまであった。彼女は、それらをじっと見つめ、絵本の中のドレスを思い浮かべた。


「これを使って、何か作れないかなぁ…」


彼女の心に、小さな創作意欲の炎が灯った。手元には、図書館の女性がくれた針と糸がある。エミリーは、一枚の布の切れ端を手に取り、針を通した。拙い手つきだが、その一針一針に、彼女の夢と、未来への希望が込められていた。


夜が更け、路地の奥からは、微かな風の音が聞こえてくるだけだった。エミリーは、その中で、ひたすら針と布に向き合った。彼女は、ドレスの形を作るのではなく、まずは、小さな人形を作ってみることにした。絵本の中のドレスメーカーが、幼い頃に布人形で遊んでいたという記述が、彼女の記憶に残っていたからだ。


小さな針が、布を縫い合わせるたびに、エミリーの心は、達成感で満たされていった。指先には、何度も針が刺さり、血が滲んだ。しかし、その痛みも、彼女の集中力を削ぐことはなかった。むしろ、痛みが、彼女を現実に引き戻し、より一層、創作に没頭させた。


数日後、エミリーの隠れ家には、いくつもの小さな布人形が並んでいた。一つ一つが、彼女の努力の結晶だった。形は不格好だが、どことなく愛嬌があり、その一つ一つに、エミリーの魂が宿っているようだった。彼女は、それらの人形を眺めながら、微かな自信を感じていた。


翌日、エミリーは、自分が作った布人形の一つを、図書館に持っていった。図書館の女性は、その人形を見て、驚きと喜びの声を上げた。


「エミリー!これは、あなたが作ったの?なんて可愛らしい!まるで、生きているようだわ!」


女性は、人形を手に取り、感嘆の声を上げた。その言葉は、エミリーの心に、これまで感じたことのない喜びと誇りを与えた。自分の作ったものが、誰かに認められる。その感動は、何物にも代えがたいものだった。


「どうして、こんなに素晴らしいものが作れるの?教えてちょうだい」


女性は、エミリーに尋ねた。エミリーは、言葉を選びながら、自分が絵本から得たインスピレーションや、布の切れ端を拾って作った経緯を話した。女性は、エミリーの言葉に、深く感動していた。


「エミリー、あなたは、本当に特別な才能を持っている。その小さな指先には、魔法が宿っているのかもしれない」


女性の言葉は、エミリーの心に、老婦人の言葉と重なり、確かな確信を与えた。自分には、特別な力がある。この小さな針と糸で、何かを創造することができる。


その日から、エミリーの創作活動は、さらに加速していった。彼女は、図書館での学びを深め、布の知識や、裁縫の技術に関する本を読み漁った。そして、路地で拾った布の切れ端で、さらに多くの人形や、小さな小物を作り始めた。彼女の作るものは、素朴ながらも、不思議な魅力を放っていた。


ある日、図書館に、一人の少女が訪れた。彼女は、エミリーが作った布人形の一つに目を奪われた。


「これ、売ってくれる?」


少女は、瞳を輝かせながら、エミリーに尋ねた。エミリーは、戸惑った。これまで、自分の作ったものが、誰かに求められるなど、考えたこともなかったからだ。


「え…?」


エミリーが言葉に詰まっていると、少女は、手のひらに握りしめていた、たった一枚の銅貨を差し出した。それは、エミリーにとって、途方もなく大きな金額に見えた。彼女は、躊躇しながらも、その銅貨と人形を交換した。


銅貨を手にし、エミリーの心臓は、激しく鼓動した。それは、単なるお金ではなかった。それは、彼女の才能が認められた証であり、そして、未来への第一歩を刻む、確かな音だった。この小さな銅貨が、路地の片隅で始まった、一人の少女の夢の物語を、大きく動かし始めることを、その時のエミリーはまだ知る由もなかった。


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