第2話 小さな図書館、開かれる扉
夜が明け、鉛色の空が僅かに薄明かりを帯びる頃、エミリーは震える体で目を覚ました。昨夜の出来事は、夢ではなかった。肩には、まだ老婦人の毛糸のショールが温かく残っており、昨日の夕食だったパンの甘い香りが、微かに指先にまとわりついていた。しかし、最も鮮烈だったのは、老婦人の言葉だ。「お前の中には、きっと、誰もが持っていない、特別な光が宿っている」。その言葉が、エミリーの冷え切った胸の奥で、小さな炎となって灯っていた。
飢えは相変わらずエミリーの胃を掴んで離さなかったが、昨夜のパンの記憶が、飢餓感をわずかに和らげていた。彼女は、ショールを丁寧に畳み、石畳の上にそっと置いた。いつか、この恩を返す日が来るだろうか。そんな、ありえないような夢を、エミリーは胸に抱き始めた。
その日、エミリーはいつもとは違う行動に出た。路地の奥から聞こえる人々の話し声や、子供たちの笑い声に、彼女は耳を傾けた。これまで、自分の世界に閉じこもっていた彼女にとって、それは新しい感覚だった。通りを歩く人々は、相変わらず彼女に目を向けなかったが、エミリーの視線は、彼らが持つ「何か」を追いかけていた。
その日の午後、エミリーは、見慣れない光景に目を奪われた。路地の入り口近くに、一台の荷馬車が止まっている。荷台からは、使い古された木箱が次々と運び出され、近くの空き家の中に運び込まれていく。その空き家は、長らく廃墟と化しており、住民も誰も近づこうとはしなかった場所だ。何が行われるのだろうか。エミリーの好奇心は、彼女の体を突き動かした。
数日後、空き家はまるで魔法にかかったかのように変貌していた。壁には真新しいペンキが塗られ、汚れていた窓ガラスは磨き上げられ、陽光が差し込むようになっていた。そして、正面の扉には、真新しい木の看板が掲げられた。そこに書かれていたのは、「路地裏図書館」という文字だった。
「図書館?」エミリーは呟いた。文字を読むことはできなかったが、そこが本を読むための場所であることは、幼いながらに理解できた。路地の子供たちが、恐る恐るその扉に近づき、中を覗き込んでいる。エミリーもまた、彼らに混じって、図書館の様子を伺った。
図書館の中は、想像以上に明るく、温かかった。壁には木製の棚がずらりと並び、色とりどりの本がぎっしりと収められている。中央には、いくつもの小さな机と椅子が置かれ、そこには既に、何人かの子供たちが座っていた。そして、その中央に立っていたのは、見慣れない一人の女性だった。彼女は穏やかな笑顔で、子供たちに本の読み聞かせをしていた。
エミリーは、生まれて初めて「本」というものを見た。表紙に描かれた絵は、これまで見たことのないほど鮮やかで、まるで魔法の世界へと誘う入り口のようだった。彼女の視線は、瞬く間に釘付けになった。それは、まるで、あの古びた絵本が、現実世界に現れたかのようだった。
次の日から、エミリーは図書館の前に通い詰めた。彼女は、中に入る勇気はなかった。薄汚れた自分の姿が、あの清潔な場所に似つかわしくないと感じたからだ。しかし、それでも、彼女は毎日、図書館の扉の隙間から、中の様子を覗き続けた。子供たちが朗読する声に耳を傾け、楽しそうに笑い合う彼らの顔を眺めた。
ある日、図書館の女性が、扉の前に佇むエミリーに気づいた。彼女は、驚くほど優しい笑顔でエミリーに近づいてきた。
「あなた、中に入って、本を読んでいかない?」
女性は、どこまでも澄んだ声で、エミリーに語りかけた。エミリーは、身を硬くした。汚れた自分が入るなんて、とっさに体が拒否した。
「汚いから…」エミリーは、掠れた声で呟いた。これまで、自分が「汚い」と指摘されたことは何度かあったが、それを自分で口にしたのは初めてだった。
女性は、ふっと笑った。それは、老婦人の笑みと同じくらい、温かい笑みだった。
「大丈夫よ。ここは、誰もが歓迎される場所よ。それに、あなたは汚くない。ただ、少しだけ、埃をかぶっているだけよ」
女性の言葉は、エミリーの心に深く響いた。埃をかぶっているだけ。そう、汚れているのではない。ただ、埃をかぶっているだけなのだ。その言葉は、エミリーの凝り固まった心を、ゆっくりと解きほぐしていった。
エミリーは、震える足で、図書館の敷居をまたいだ。足を踏み入れた瞬間、彼女は、これまで経験したことのない、温かく、そして希望に満ちた空気に包まれた。埃一つない床、整然と並んだ本、そして、穏やかな笑顔で彼女を見つめる女性。すべてが、彼女の人生に、新たな色彩を与えていくようだった。
女性は、エミリーを小さな椅子に座らせ、目の前に一冊の絵本を置いた。それは、色鮮やかな挿絵が描かれた、美しい絵本だった。
「これは、勇敢な騎士の物語よ。あなたも、この物語を読んでみない?」
女性は、優しくエミリーに語りかけた。エミリーは、絵本を手に取った。指先が、紙の柔らかさに触れる。これまで、古びた絵本しか見たことのなかったエミリーにとって、それはまるで、魔法に触れたような感覚だった。
女性は、エミリーの隣に座り、ゆっくりと絵本を読み始めた。彼女の声は、まるで歌を歌うかのように美しく、エミリーは、その物語の世界に、あっという間に引き込まれていった。騎士の冒険、魔物の襲撃、そして、困難を乗り越えていく勇気。物語が語られるたびに、エミリーの心の中に、新たな感情が芽生えていく。
文字が読めないエミリーにとって、絵本は、ただ絵を見ることしかできなかった。しかし、女性が読み聞かせをしてくれることで、絵と文字が繋がり、物語が立体的に立ち上がっていくのを感じた。
その日以来、エミリーは毎日図書館に通い詰めた。彼女は、女性に文字の読み方を教わり始めた。最初は、一本の線、一つの記号を覚えるのも精一杯だったが、彼女の瞳は、決して諦めなかった。老婦人の言葉、「特別な光」が、彼女の心の中で、学びへの渇望へと姿を変えていたのだ。
女性は、根気強く、そして優しくエミリーを教えた。そして、エミリーは、驚くべき速さで文字を習得していった。彼女の頭の中には、これまで知らなかった言葉や知識が、まるで乾いた大地に水が染み込むように、吸収されていく。
ある日、エミリーは、初めて自分で絵本の物語を読み終えた。その達成感は、彼女の全身を駆け巡った。それは、空腹を満たした時以上の、魂の充足感だった。
図書館の女性は、エミリーの進歩に目を細めた。彼女は、エミリーの瞳の中に、類稀なる知的好奇心と、無限の可能性を見出していた。
「あなたは、本当に特別な子よ。きっと、いつか、この世界で、大きなことを成し遂げると思うの」
女性の言葉は、かつて老婦人が語った言葉と重なった。エミリーは、自分の未来が、少しずつ、しかし確実に、明るい方へと向かっているのを感じていた。図書館の扉は、エミリーにとって、知識の世界への入り口であり、そして、希望への道を照らす、まばゆい光だった。その小さな空間で、路地の花は、静かに、しかし力強く、その根を張り始めていたのだ。
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