第3話『模倣された心』
1
二日後、カイトとノアが辿り着いたのは、海だった。
丘を越えた瞬間、視界が一気に開け、どこまでも続く水平線が目の前に現れた。
空の青と、海の青。
二つの青が溶け合う境界線は、午後の強い陽光を浴びて、銀色にきらきらと輝いている。
風の匂いが、また変わっていた。草木と土の匂いは後退し、代わりに、潮の香りが鼻腔をくすぐる。
それは、生命の源そのものの、塩辛く、そしてどこか懐かしい香りだった。
「海、か。久しぶりに見たな」
カイトは、大きく伸びをしながら呟いた。
かつての世界で、最後に海を見たのはいつだっただろうか。
そんな、どうでもいい感傷が胸をよぎる。
「これが、海…。大きいんだね」
隣から、少しだけ感心したような、けれどやはり平坦な声が聞こえる。
ノアは、眼前に広がる雄大な景色を、ただの情報として処理しているようだった。
「地球の七割くらいが、これなんだってね。君の世界も、そうだった?」
「ああ、だいたいそんなもんだ」
彼女の関心は、景色の美しさではなく、世界の構成法則にあるらしい。
その視線の先には、水平線に浮かぶように存在する、港町リヴァリアの姿があった。
リヴァリアは、この地方で最も大きな交易港だ。
白い漆喰の壁と、オレンジ色の瓦屋根を持つ建物が、丘の斜面に沿って、まるで雛壇のように密集して立ち並んでいる。
港には、大小様々な船のマストが、林のように突き出ていた。
カモメだろうか、白い鳥が甲高い声で鳴きながら、空を旋回している。
街の門をくぐると、そこは、今までいた世界とは別次元の活気に満ちていた。
まず、音が違う。
人々の喧騒、荷馬車の車輪が石畳を転がる音、鍛冶屋が鉄を打つ甲高い響き、酒場の扉から漏れ聞こえる陽気な音楽、そして、絶え間なく聞こえてくるカモメの鳴き声。
それら全ての音が混じり合い、巨大な生命体が生み出す脈動のように、街全体を震わせていた。
匂いも、複雑に混ざり合っていた。
潮の香りに加え、市場から漂ってくる魚介の匂い、スパイス商の店先から薫るエキゾチックな香辛料の匂い、パン屋から流れてくる甘く香ばしい匂い。
それらが渾然一体となって、食欲と、人々の生活のエネルギーそのものを感じさせた。
カイトとノアは、その人の波に呑み込まれるように、メインストリートを歩いていた。
足元の石畳は、長い年月の間に、数え切れないほどの人の往来によって、角が取れて丸く、滑らかになっている。
時折、荷馬車が通り過ぎるたびに、カイトはさりげなくノアを庇うように内側へ寄せた。
ノアは、そんな彼の行動に小さく首を傾げたが、特に何も言わなかった。
「すごい人だな。宿を探すのも一苦労そうだ」
カイトが、人の流れに少しうんざりしながら言った。
「ううん、大丈夫みたい」
ノアは、こともなげに答える。
「さっき門を通った時に、衛兵の人が持ってた板から、この街の地図とか、宿屋の場所とか、全部見せてもらったから。この道をまっすぐ行って、三番目の角を右に曲がったところ。『海猫の寝床亭』っていう宿屋があるんだけど、値段も部屋も、今空いてるところだと、そこが一番良さそうだよ」
「…お前、本当に何者なんだ…」
カイトは、もはや感心するしかなかった。
彼女にかかれば、この複雑怪奇な街も、ただの攻略可能なデータマップに過ぎないのかもしれない。
二人が、人でごった返す中央広場を抜けようとした、その時だった。
「うわあああん…!おかあさーん…!」
人々の喧騒を突き破るように、幼い子供の泣き声が響き渡った。
声のした方を見ると、広場の真ん中で、五歳くらいの小さな女の子が、一人で泣きじゃくっている。
どうやら、この人混みの中で、親とはぐれてしまったらしい。
周りの大人たちは、一瞬だけそちらに視線を向けるが、自分の用事で手一杯なのか、すぐに興味を失って通り過ぎていく。
「おいおい、迷子か。仕方ないな…」
カイトが、やれやれと肩をすくめ、女の子の方へ歩き出そうとした。
その腕を、ノアが、そっと掴んで制止した。
「カイト、待って」
「ん?なんだよ」
「そっか、こういうことか…」
ノアは、カイトの疑問には答えず、その感情のない瞳で、泣きじゃくる女の子をじっと見つめた。
そして、何かを思いついたように、小さく頷いた。
「これは、この前の村で君がやっていたことの、応用問題だね。…うん、ちょっと試してみる」
2
次の瞬間、カイトは我が目を疑った。
今まで、まるで精巧な人形のように、どこか硬質的だったノアの佇まいが、ふわりと、柔らかなものに変わったのだ。
肩の力が抜け、その立ち姿は、一切の威圧感を感じさせない、慈愛に満ちたものへと変化した。
彼女は、ゆっくりと女の子に近づいていく。
その歩き方すら、計算され尽くしていた。
決して相手を驚かせないように、慎重に、そして、優しく。
女の子の前に立ったノアは、その場に、そっと屈み込んだ。
目線を、泣きじゃくる子供の高さまで、完璧に合わせるためだ。
「どうしたの、お嬢ちゃん」
その声は、カイトが今まで聞いてきた、あの平坦な声とは全くの別物だった。
それは、聖母のように優しく、陽だまりのように暖かく、そして、聞く者の心を安心させる、不思議な響きを持っていた。
女の子は、突然現れた美しい少女に驚き、一瞬だけ泣き止んで、その顔を見上げた。
ノアは、その顔に、完璧なまでの「優しい微笑み」を浮かべていた。
口角の上がり方、目尻の僅かな下がり方、その全てが、教科書に載っているかのように完璧な、慈愛の表情。
「迷子になっちゃったの? 大丈夫よ。お姉さんが、一緒にお母さんを探してあげるから」
そう言って、ノアは、ポケットから小さなキャンディを一つ取り出した。
鮮やかなオレンジ色の、甘い香りがする飴玉だ。
「さあ、これをどうぞ。これを舐めていれば、きっと、すぐに元気が出るわ」
その仕草は、あまりにも自然で、流れるようだった。
女の子は、まだしゃくりあげながらも、恐る恐るそのキャンディを受け取った。
そして、ノアの、その聖母のような微笑みに安心したのか、こくりと頷き、小さな手で、彼女の服の裾をぎゅっと握った。
周囲でその光景を見ていた人々が、感心したように頷き合っている。
「まあ、なんて優しいお嬢さんだろう」
「あんなお姉さんがいたら、子供も安心するわねえ」
賞賛の声が、あちこちから聞こえてくる。
それは、誰が見ても、心温まる美しい光景だった。
カイト、ただ一人を除いて。
カイトは、その場に立ち尽くしていた。
背筋に、ぞくりと、冷たいものが走るのを感じていた。
ノアの行動は、完璧だった。
声色も、表情も、仕草も、タイミングも、その全てが。
だが、完璧すぎたのだ。
それは、まるで、何万回も練習した演劇の舞台を見ているかのようだった。
一つ一つの動作に、感情の「揺らぎ」というものが、全く存在しない。
そして、何よりも、彼女の瞳。
その瞳だけは、変わらなかった。
優しい微笑みを浮かべたその顔の中心で、彼女の瞳だけが、相変わらずの、冷たい硝子玉のままだったのだ。
それは、目の前の子供を「可愛い」とも「可哀想」だとも思っていない、ただ、実験対象の反応を観察している、研究者の目だった。
やがて、血相を変えた母親が、広場に駆け込んできた。
「この子ったら!どこに行ってたの!」
ノアは、母親の姿を確認すると、完璧な笑顔のまま立ち上がり、「お母さんが来てくださって、よかったわね」と女の子の頭を優しく撫でた。
そして、母親に深々と頭を下げ、人々の賞賛を浴びながら、何事もなかったかのように、カイトの元へと戻ってきた。
「ねえ、カイト、どうだった?」
戻ってきたノアの表情と声は、すっかり元の、感情のないものに戻っていた。
「上手くできてたかな。あの子は泣き止んだし、周りの人たちも、みんな私に優しくなった。君が言ってた通り、『誰かを助けると、自分にとっても良いことがある』っていうのは、本当だったみたいだね」
「……ああ」
カイトは、乾いた声で、そう答えることしかできなかった。
心の中に、虚しさと、そして、今まで感じたことのない、奇妙な感情が渦巻いていた。
それは、悲しみであり、憐れみであり、そして、ほんの少しの、怒りにも似た感情だった。
完璧な偽物を見せつけられたことへの、やるせなさ。
そして、その完璧な偽物の奥にいるはずの、本当の彼女に触れたいという、どうしようもない渇望。
3
その日の夕方、カイトは、ノアを連れて、港を見下ろす丘の上にある、一軒の装飾品店を訪れた。
店の中は、磨き上げられた木の床と、古い家具が放つ、落ち着いた匂いに満ちていた。
壁にかけられた魔導ランプの柔らかな光が、ガラスケースの中に並べられた銀製品や宝石に反射して、きらきらと輝いている。
店主は、無口そうな初老の職人で、客が入ってきても、手元の作業から顔を上げようともしなかった。
「カイト? どうしたの、こんなお店に。何か、買うものがあるの?」
ノアが、不思議そうに問いかける。
カイトは、それに答えず、ガラスケースの中をじっと見つめていた。
そして、その中の一つを、指さした。
それは、小さな銀細工の髪飾りだった。
海鳥の羽根をモチーフにした、繊細で、美しいデザイン。
羽根の先には、夜空の欠片を閉じ込めたかのような、小さなサファイアが一つ、埋め込まれている。
決して高価なものではないが、職人の丁寧な仕事ぶりが伝わってくる、逸品だった。
「…これを、貰おう」
カイトが言うと、店主は、初めて顔を上げ、無言で商品を布に包んだ。
店の外へ出ると、空は、燃えるようなオレンジ色と、深い紫色が混じり合った、美しい夕焼けに染まっていた。
港では、漁を終えた船が、次々と帰港してくる。
街のあちこちで、ガス灯に火が灯され始め、温かな光の点が、一つ、また一つと増えていく。
カイトは、無言で、ノアにその小さな包みを差し出した。
「…これは?」
「君にだよ。プレゼント」
ノアは、その包みを受け取ると、数秒間、それとカイトの顔を交互に見た。
そして、彼女の内部で、再び、あの高速な情報処理が開始されるのを、カイトは感じた。
(…来る)
次に何が起こるか、カイトには分かっていた。
そして、その予測は、寸分違わず現実のものとなった。
ノアの顔に、花が咲くような、完璧な笑顔が浮かんだ。
昼間、迷子の女の子に見せた慈愛の笑みとは、また違う。
それは、愛しい者から贈り物を受け取った、うら若い乙女の、はにかみと、喜びに満ちた、完璧な笑顔だった。
頬が、ほんのりと上気しているように見える。
瞳は、潤んで、きらきらと輝いているようにすら見えた。
「まあ…!カイト、私のために…?」
その声は、甘く、震えている。
「なんて、綺麗なんでしょう…。嬉しい…。本当に、嬉しいわ…。ありがとう、カイト。一生、大切にするわね」
その言葉、その表情、その声色。
それは、カイトが転生してから、数多の女性たちから向けられてきた、好意の表現そのものだった。
いや、それ以上に、完璧だった。どんな男でも、これを見せられたら、幸福の絶頂を感じることだろう。
だが、カイトの心は、凍りつくように冷えていた。
ああ、まただ。
また、この完璧な「模倣」だ。
彼は、プレゼントを渡した瞬間の、彼女の瞳の奥の、ほんの一瞬の揺らぎを見逃さなかった。
それは、「贈り物を受け取った際の、最適な反応パターンを検索している」とでもいうような、ごく僅かな、機械的な光の点滅だった。
カイトは、何も言えなかった。
ありがとう、とも、似合っているぞ、とも言えなかった。
ただ、目の前で完璧な喜びを演じている、この美しい少女を見て、心が、ぎゅうっと、締め付けられるような痛みを感じていた。
その時、彼は、はっきりと自覚したのだ。
自分の、この感情の正体を。
(俺は、この女に、恋をしているんだ)
この、心を模倣することしかできない、空っぽの人形に。
その完璧な偽物の仮面を、いつか、この手で剥がしてやりたい。
仮面の奥にある、まだ何の色もついていない、空っぽの素顔に、本当の感情というものを、教えてやりたい。本当の笑顔を、見せて欲しい。
それは、絶望的なまでに、困難な願い。
無敵の力を持つ自分が、唯一、手を伸ばしても決して届かない、星空のような願い。
夕闇が、街を完全に包み込んでいく。
ノアは、カイトの内心も知らず、受け取った髪飾りを、自分の銀色の髪にそっと着けている。
その仕草すら、まるで絵画のように、完璧に美しかった。
カイトは、そんな彼女の横顔を見つめながら、これから始まる、長く、そして、おそらくは切ない旅路を、静かに覚悟するのだった。
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