最強すぎて人生が退屈だった俺は、感情のない魔族の少女に「愛」を教えた。――その結果、彼女は俺の「絶望」を研究するため、目の前で自らの死を偽装した。

Gaku

第1話『無敵と探求』

1



風が、森の匂いを運んでいた。



雨上がりの土が放つ湿った芳香と、幾千年もの時を重ねた大樹の皮が発する、深く落ち着いた香り。


それらが混じり合い、カイトの肺を静かに満たしていく。


頭上では、幾重にも重なった葉の隙間から、午後の柔らかな木漏れ日が金色の粉のように降り注ぎ、苔むした地面にまだらの模様を描き出していた。


鳥の声がする。名も知らぬ虫の羽音が、すぐ近くで聞こえる。


世界の全てが、穏やかな生命の営みに満ちている。


カイトは、その静寂の中でゆっくりと目を閉じた。


(退屈だ)


心が、凪いだ海のように静まり返っている。


喜びも、怒りも、悲しみも、楽しみも、その水面には何の波紋も描かない。


異世界と呼ばれるこの地に転生してから、もう五年になるだろうか。


神を名乗る光の塊から与えられた「あらゆる事象を凌駕する力」は、文字通り絶対だった。


王国の最強騎士団が束になっても傷一つ負わせられない古竜(エンシェントドラゴン)を、彼はデコピン一つで沈黙させた。


賢者が百年かけても解けなかった古代文明の封印を、彼は軽く指でなぞるだけで解き放った。


不治の病は手をかざせば治り、枯れた大地は歩けば緑が甦った。


最初は、楽しかった。


見るもの全てが新鮮で、自分の力がどこまで通用するのか試すのが面白かった。


人々は彼を「勇者」と呼び、王は彼に「英雄」の称号を与え、美しい姫は彼に熱い視線を送った。


だが、それもすぐに色褪せた。


どんな強敵も、どんな難題も、彼にとっては道端の石を蹴飛ばすのと変わらない。


喝采も、称賛も、嫉妬も、何もかもが心を揺らさなくなった。


全てが予測の範囲内。


全てが容易く、故に、全てが等しく無価値。


無敵とは、最強とは、かくも孤独で、退屈なものなのか。


カイトはゆっくりと目を開け、背中を預けていた大樹から身を起こす。


ざらりとした樹皮の感触が、手のひらに伝わる。そろそろ、依頼主の待つ街へ戻らねばならない。


今回の依頼は、この「静寂の森」に住み着き、近隣の村を脅かしているという魔獣の討伐。


おそらく、これも一瞬で終わるのだろう。


そう思った、瞬間だった。


森の空気が、一変した。


鳥の声が止み、虫の羽音が消える。


生命の気配が急速に失われ、代わりに、腹の底を這いずるような、濃密な瘴気が満ちていく。


地面が、微かに揺れている。


「グルルルル……」


地響きと共に、獣の唸り声が聞こえた。


それは一体の獣から発せられているとは思えないほど、低く、重い響きだった。


カイトが視線を向けた先、鬱蒼とした木々の向こう側が、にわかに明るくなった。


木々が、まるで巨大な鎌で薙ぎ払われるかのように、轟音と共にへし折られていく。


そして、姿を現した。


それは、”絶望”という概念が形を取ったかのような、異形の魔獣だった。


全長は三十メートルを優に超えるだろう。ぬらりとした紫色の巨体に、無数の触手が生え、それぞれが蛇のように蠢いている。


胴体の中央には、溶岩のように赤く爛れた巨大な一つ目が、ぎょろりとカイトを捉えていた。


その視線だけで、常人ならば発狂するか、腰を抜かすか、その両方だろう。


「森の主、か。思ったよりは大きいな」


カイトの口から漏れたのは、そんな気の抜けた感想だけだった。


心拍数は、平常時とほとんど変わらない。


魔獣が咆哮した。


空気が震え、衝撃波となってカイトの髪を揺らす。


触手の一本が、巨大な槍となって彼を打ち据えんと迫る。


速度は音速を超えているだろう。


地面を抉り、大気を裂く一撃。


カイトは、それを右手の人差し指一本で、ぴたりと受け止めた。


「……!」


魔獣の巨大な一つ目が見開かれる。信じられない、という驚愕の色。


「悪いな。俺は、手加減ってやつが一番苦手なんだ」


カイトは指先にほんの少しだけ力を込めた。


パァン、という乾いた音が森に響く。


音速を超えて迫ってきたはずの触手は、先端から粉々に弾け飛び、紫色の粘液を撒き散らしながら消滅した。



魔獣が、恐怖に慄いたように後ずさる。この森の生態系の頂点に立ち、数多の冒険者を喰らってきたであろうプライドが、本能的な死の予感に打ち砕かれていく。



「さて、どうやって終わらせるか」



指先を鳴らすか、息を吹きかけるか、あるいは視線を送るだけで事足りるか。



思考の海に浮かぶ無数の選択肢の中から、最も手間のかからないものを選ぼうとした、その時だった。



カイトは、ふと視線を感じた。



それは、魔獣からのものではない。



もっと別の、静かで、冷徹な、まるで観察者のような視線。



見れば、魔獣が現れた方向の、さらに奥。苔むした石造りの壁が、半ば崩れかけた姿を晒している。




古代の遺跡だろうか。その入り口の暗がりから、一人の少女が、こちらをじっと見ていた。



2



陽光を弾く、白銀の髪。雪のように白い肌。深い森の闇をそのまま切り取ったかのような、黒いドレスを身に纏っている。



歳は、十五、六といったところか。



およそ、このような危険な森に一人でいるような風体ではない。




何より目を引いたのは、その瞳だった。




硝子玉のように透き通っていて、何の感情も映していない。



恐怖も、驚きも、好奇心すらも、そこにはないように見えた。



彼女はただ、そこに”在る”現象として、カイトと魔獣の対峙を眺めている。



魔獣も、彼女の存在に気づいたようだった。



あるいは、カイトという理解不能な存在から意識を逸らすための、逃避行動だったのかもしれない。



魔獣は、その巨大な一つ目を新たな獲物である少女に向け、再び獰猛な唸り声を上げた。




「そっちは、まずい」



カイトが呟く。



魔獣の触手の一本が、先ほどよりもさらに速く、鞭のようにしなりながら少女へと殺到した。



だが、少女は動かない。



逃げもせず、叫びもせず、ただ静かに、迫りくる死を見つめている。



(助けるか)



一歩踏み出そうとしたカイトの動きが、止まった。




少女の唇が、ほんの僅かに動いたからだ。



何かを、呟いている。




次の瞬間、世界から音が消えた。




いや、正確には、魔獣の触手が少女に届く寸前、その進行方向にある空間が、まるで分厚いガラス壁でもあるかのように、不可視の”何か”に阻まれたのだ。



轟音も、衝撃も、一切ない。



ただ、ぴたりと、その動きが停止した。




「……?」




魔獣が困惑している。



カイトも、わずかに目を見開いた。




少女は、ゆっくりとカイトの方へ視線を戻した。



そして、もう一度、小さく呟く。




「ふーん…。なるほど、分かった。これは、放っておいても大丈夫そう」




その声は、鈴の音のように可憐でありながら、どこか物事を評価するような、不思議な響きを持っていた。




次の瞬間、魔獣の巨体が、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、光の粒子となって霧散した。



咆哮も、断末魔も、血飛沫の一つもなく、あまりにも静かに。




森に、再び元の静寂が戻ってくる。



いや、先ほどよりもさらに深い、しんとした沈黙が支配していた。




カイトは、呆然と、その光景を見ていた。




五年間、この世界であらゆる魔法、あらゆる理を見てきた。



だが、今のはそのどれとも違う。



まるで、世界の法則そのものに干渉し、対象の「存在定義」を書き換えたかのような、異質な理。




やがて、少女が、遺跡の暗がりからゆっくりと姿を現した。




彼女は、カイトが立っている場所まで、こともなげに歩いてくる。



先ほどまで魔獣がいた場所を、まるで道端の小石でも跨ぐかのように通り過ぎていく。




石畳のようにも見える遺跡の床を踏む、コツ、コツ、という彼女の靴音だけが、やけに鮮明に響いた。




そして、カイトの目の前で、ぴたりと足を止める。




距離、約三メートル。




少女は、その感情の読めない瞳で、じっとカイトを見上げた。




「君が、カイト…だね?」




抑揚は少ないが、確かに問いかけるような、自然な響きだった。




「…俺を知ってるのか?」




「うん。ここしばらく、君のこと、見てたから」




少女は、こともなげに言った。




「見てた…?」




「君って、すごく強いよね。信じられないくらい。でも、見てると不思議なんだ」




彼女は、ほんの少しだけ首を傾げた。



その仕草は、純粋な子供のようにも、冷徹な研究者のようにも見えた。




「普通、あんなことしたら、もっと…こう、興奮したりするものじゃないかな?なのに、君の心臓の音は静かなままだし、戦いが終わると、むしろつまらなそうにしてる。……ねえ、どうして? どうして、そんなに何でもできるのに、全然楽しそうじゃないの?」




カイトは、言葉を失った。




楽しむ。




その感覚を、いつ忘れてしまったのだろう。




目の前の少女は、自分の名前を知っているだけではない。



自分の内面、その虚無感の核心を、いとも容易く、正確に言い当ててみせた。




「お前は…何者だ?」




やっとのことで絞り出した声に、少女はあっさりと答える。




「私はノア。ただの、探求者、かな」




「探求者…?」




「うん。私は、この世界のいろんなことを知りたいの。特に、人間。人間って、分からなくて、面白くて…すごく興味があるんだ」




3




ノアと名乗った少女は、カイトの全身を、まるで珍しい骨董品でも鑑定するかのように、下から上までゆっくりと眺めた。



その視線には、侮蔑も、畏怖も、敵意も、友好の欠片すらもない。



あるのはただ、純粋で、底なしの、知的な探求心だけだった。




「中でも、君は特別。見ていて、飽きない」




「飽きない、ね」




カイトは自嘲気味に笑った。



英雄、勇者、救世主。様々な呼ばれ方をしたが、見ていて飽きない、というのは初めてだった。




だが、不思議と、それが一番しっくりくるような気もした。




「君は、普通の人とは何もかもが違いすぎる。でも、心の中は、なんだかすごく、普通の人みたい。そのズレが、どうして生まれるんだろうって。それが分かれば、私の探求は大きく進む。とても、興味があるな」




ノアは、そう言って、カイトに一歩近づいた。




夕焼けが、森の木々の隙間から差し込み始めている。



茜色の光が、彼女の白い髪を淡い薔薇色に染め上げた。




それは、思わず見惚れてしまうほど幻想的な光景だった。




だが、彼女の瞳だけは、夕焼けの暖かな光を一切反射せず、変わらずに冷たいガラス玉のようだった。




「だから、カイト。お願いがあるんだけど…」





「お願い?」




「うん。しばらく、君と一緒に旅をさせてもらえないかな?」





あまりに突拍子もない申し出に、カイトは虚を突かれた。




「旅を、一緒に…? なんでだ」





「君の全部を、もっと近くで見てみたいから。君が何を見て、何を思って、どうしてそんなに退屈そうにしているのか。その仕組みを、どうしても知りたいの」




彼女の言葉には、一切の含みがない。



ただ、純粋な子供のような探求心だけが、そこにあった。




カイトは、思わず吹き出してしまった。




腹の底から、心の底から笑ったのは、一体いつぶりだろうか。




無敵の力に飽き飽きし、ただ過ぎ去るだけの毎日を送っていた自分。




そんな彼の前に現れた、自分を観察したいと、その退屈の仕組みを知りたいと、真顔で告げる、奇妙な少女。




面白い。




心の凪いだ水面に、ほんの小さな石が投げ込まれたような、微かな波紋が広がるのを感じた。




「いいだろう。面白い。そのお願い、聞いてやる」




「本当? よかった」





ノアは、ほんの少しだけ、嬉しそうに目を細めたように見えた。




だが、それも気のせいかもしれない。




「君なら、そう言ってくれると思ってた」




「ただし、一つ条件がある」




と、カイトは付け加えた。




「条件?」




「ああ。俺の退屈を、お前が紛らわせてくれるなら、いくらでも見せてやる。どうだ?」




それは、ほとんど気まぐれで、意地悪な問いかけだった。



この感情の無いように見える少女が、どう応えるのか、見てみたかった。




ノアは、数秒間、黙考した。



その美しい顔は何一つ変わらないが、瞳の奥で、膨大な思考が巡らされているのが見て取れるようだった。




やがて、彼女は顔を上げ、カイトをまっすぐに見つめた。




「うん、いいよ。君の言う『退屈』って、まだよく分からないけど…」





彼女は、少し楽しそうに、言葉を続けた。




「私と一緒にいて、君のその気持ちがどう変わるのか、あるいは変わらないのか。それを知れるのは、すごく面白そうだから」




実験、ではなく、面白そう、か。





カイトはもう一度笑った。




こうして、カイトとノアの、奇妙な旅が始まった。




無敵の力に退屈しきった転生者と、その心を解き明かしたいと願う、人間らしい口調の、どこか不思議な少女。




二人は、燃えるような夕焼けが照らし出す森の小道を、並んで歩き始めた。




川のせせらぎが、遠くで聞こえる。街が近いのだろう。



石畳の道を歩けば、また新しい鳥の声や、人々の喧騒が二人を迎えるはずだ。




カイトは、隣を歩く少女の横顔を盗み見る。



彼女は、変わりゆく世界の景色には一切目もくれず、ただ前だけを見つめていた。




この旅の先に、何が待っているのか。




カイトには、まだ知る由もなかった。




だが、彼の心の片隅で、忘れかけていた”期待”という名の小さな種が、静かに芽吹いたことだけは、確かだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る