【書籍発売中】異世界では最推しになりたい

福澤ゆき

プロローグ

幸災楽禍――人の不幸は蜜の味。

よく言ったものだと、今は思う。

ニュースサイトのトップ、トレンド入りのタグ、ワイドショーの特集枠。

今この瞬間、日本で一番エンターテイメントとして消費されているのはおそらく自分だ。誰もが目を輝かせてSNSの検索欄に〝真木透〟と打ち込み、流れてくる醜聞を貪っていることだろう。

人生が舞台だとするなら、自分は今まさに、トップエンターテイナーだ。

「ハ……、ハハ……、すごいな。初めてトレンド一位になった」

乾いた笑いが口を突いて出た。こんなことで一位になるなんて、なんという皮肉だろう。

視界がぐにゃぐにゃと歪み、足元が覚束ない。

外へ出る前、部屋で缶チューハイを何本も空けていた。

自宅から出るなと事務所からは言われているが、家の前には二十四時間記者が張り込み、カーテンを少しでも開けただけで猛烈なフラッシュが焚かれる。そんな状態が数週間。いい加減、気がおかしくなっていた。

床に転がる銀色の空き缶をぼんやりと見下ろしているうちに、急に何もかもどうでもよくなって気がつけば、玄関のドアを開けていた。

高層マンションの裏口から出て、そこにも張り込んでいた記者をどうやって撒いたのか思い出せない。

頭の芯がじんわりと痺れている。酩酊のせいか、絶望のせいか。自分でも分からなかった。

十年だ。十年間、一日も休まず、プライベートもプライバシーもなく働き続けてきた。その結果がこれなんて、到底受け入れられず、苦しさから逃れるように夜の町を彷徨う。

だが、本当に苦しいのは、顔も見えない相手からの何十万という誹謗中傷なんかより、この世界でたった一人、信じていた人に裏切られたことだった。

フードを目深に被っても、マスクをしていても、誰かから見られている気がしてならない。

SNSを開かなくても、誹謗中傷は文字列の亡霊のように頭の中に残り続ける。

死ね。消えろ。クズ。嘘つき。


――例のパワハラ音声聞いたけどドン引き。〝透は中身も王子〟って持ち上げてたオタクたち、今どんな顔してんの?

――普段あんなに低姿勢なのに、マネに対してはあの口調? 怖すぎ

――ああいうのが裏でパワハラしてんの、いっちばんエグい。マネにパワハラして、未成年アイドルお持ち帰りとかゴミじゃん。

──もうただの犯罪者でしょ。二度と出てこないでほしい。

――十年ファンやってたけど、あんなの聴かされたらもう無理。推し変する。


事実では無いと、何度釈明しても、誰も耳を貸してくれなかった。

声を荒げたのは確かに事実だが、音声は切り抜かれていたし、前後を聞けば透が激昂した理由も分かるはずだ。

(パワハラなんかじゃ……)

そう思いかけたとき、脳裏にあの言葉が蘇る。

──うざかったんだよ、ずっと。お前の相手は。

そうじゃないとこちらが思っているだけだったのかもしれないとも思う。

わだかまりが無ければ、十年かけて育ててきたアイドルを、あんな風に週刊誌に売り飛ばしたりはしなかっただろう。

一方的に信頼して、甘えて、向こうから嫌われていたことに気付かなかったのだ。

だが、アイドルお持ち帰りについては完全に無実だ。

他のメンバーのやらかしを、擦り付けられた。

お持ち帰りどころか誰とも付き合ったことすらない。仕事仕事でそんな余裕は一度もなかったし、常にカメラに追われる生活の中で、隠れて誰かと付き合おうなんて考えたこともなかった。


もう何を言っても、無理なのだろう。

何が真実なんて最初から誰も興味はないのだ。真実よりも面白い、極上のエンタメを求めている。

最早、世界が飽きるまで、いくらでも悪感情をぶつけられる最高の玩具でしかない。

(詰んだな……タレント人生。いや、人生もか)

虚ろな目。歪む視界の向こうに、無数のペンライトの幻が映る。そのとき、ポケットのスマホが震えた。

通知画面に表示された名前を見て、ハッと目を見開く。

どうにもならないと分かっていても、わずかな希望にすがるように、画面をタップする。顔認証が上手く行かずに少しだけマスクを下げた、その瞬間――

「なあ、あれ。あれって……真木透じゃね?」

声がした。飲み会帰りと思われる若い男女数人のグループがこちらを見ていた。

「え、うそ、本人じゃん!?」

反射的にうつむき、早足になる。だが遅かった。

「やば、スマホ!  動画回そ!」

わっと声があがると同時に無数のスマホが向けられ、次々とシャッター音が上がる。その騒ぎに気付いたのか、次々と人が集まってくる。

透はしばらくの間、ただ茫然とそれを眺めていた。まるで自分の目の前で起きていることじゃないみたいに、現実感がなかった。

笑っている。誰も彼もが、透を見て、心の底から楽しそうに笑っていた。

これもまた、エンターテイメントだろうか。

どうせもう、人生終わりだ。最後の大舞台で、観客を沸かせてやろうか。そんな破滅的な衝動が、喉元までこみ上げてきた。けれど。

(違う。俺はアイドルだ)

こんな歪んだ笑顔を届けたかったわけじゃない。十年間、嘘にまみれながら守ってきた姿は、こんなものじゃない。今の姿を撮られていいはずがない。

衝動に突き動かされるように、歩道橋へと駆け上がった。

階段を一段飛ばしに登る。だが、先回りしていたのか、上にも人影があった。

引き返す暇もない。下にも、上にも、逃げ道はなかった。喉の奥がカラカラに乾く。心臓が、ずっと痛いくらいに跳ねてる。

それでも、逃げなければならない。撮られてたまるか。最早正常な判断をする思考能力は残っておらず、無我夢中で、透は歩道橋の手すりによじ登った。

「嘘でしょ!? 飛び降りるの?」

「やばいやばいって、死ぬんじゃね?」

焦った声が飛び交う。けれど、誰一人として止めようとする者はいなかった。

みんな、どこか興奮したような顔をして、スマホを構えたままだった。

皆どこか興奮したような顔で、スマホを構え、まるでライブ中継でも見るかのように指を滑らせていた。

スマホのレンズがなおも透を追う。その無機質な視線から逃れるように身を捩った瞬間、ぐらりと、体が大きくバランスを崩した。

「っ――」

視界がぐらりと傾く。次の瞬間、透の体は重力に引かれるように宙へ投げ出されていた。

空気が、音が、何もかもがゆっくりになる。思考だけが、鮮やかに冴えていた。下の道路をたくさんの車が自動車が走っているのが見える。打ちどころが良かったとしても、一命を取り留める可能性は少なそうだ。

逆さまの視界の中、明日のトップニュースもきっと自分だろうなと妙に冷静に思った。

――人気アイドルグループUnrealリーダー真木透さん、歩道橋から転落死

――飛び降りか? 騒動の裏で、何が起きていたのか

――ネット炎上が原因? 過熱するSNS社会に懸念の声も

そんな見出しに引き寄せられて、同情の声が少しだけ湧いて、今度は〝心ない言葉が人を殺した〟と、また違う形で消費されるのだろうか。それとも、死んで当然のクズとして終わるのか。

──冗談じゃない。

(俺には、まだ……)

ドームに立ちたかった。それを目指してここまで来たのだ。もうどうにもならないと分かっていても、もがきたくて、必死に上に向かって手を伸ばす。

だが、伸ばした手の先には、手すりから伸ばされた無数のスマホのカメラがこちらに向けられている。あと一秒もしないうちに、自分の体はアスファルトに叩きつけられ、無惨な終わりを告げる。

アイドルとして、そんな最後の瞬間を撮られるのだけはごめんだ。

嫌だ。撮られたくない。

死にたくない以上に、そう思う。

もう、これで死ぬのなら、最後までアイドルとして死にたい。こんな歪んだ笑顔じゃなくて、もっと日本中を、そう、楽しそうな笑顔にして。

そんなバカみたいな願いだけが、胸を突いて離れない。

その時、見上げた視界の端に、青白く輝く紋様が広がっていく。足元が、アスファルトでも道路でもなく光の環に変わっていた。

(……え?)

まるで空間ごと、何かに引きずられるように、透の体は、重力とは違う力に引き込まれていく。

──その時だった

(なんだ、この歌……)

耳の奥で、誰かの歌声が微かに響いた。

言葉ではない。旋律だけが、脳髄を撫でるように入り込んでくる。

それは子守唄のようでもあり、誰かの泣き声のようでもあり、でも、どこか懐かしくて、胸の奥がふっと温かくなるような気がした。

(知らない……でも……これ……)

気づけば、目の前の世界がにじみ、透の体は白い光の中へと、音もなく溶けて消えた。


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