その日、全校生徒と全教員385人が、屋上から同時に身を投げた。狂ったように笑いながら。

ももも

第1話

 教室の左奥————。


 ひときわ深い闇に飲まれ、薄光さえ届かぬその一角に、橘由紀子の席はあった。


 もっとも——いまそこに「席」と呼ぶべきものは、存在していなかった。


 椅子は、まるで最初からその場に在ったことさえ嘘であったかのように、とうの昔に掻き消えている。


 机は仰向けに転がり、無様なその姿を晒したまま、床に転倒している。


 四本の脚には幾つもの歪な凹みが穿たれ、まるで誰かが狂気を宿した力で幾度も幾度も蹴りつけ、叩きつけたかのような生々しい痕が刻まれていた。


 それが誰の仕業かを問う者など、教室内には一人としていなかった。


 教師ですらこの惨状を目にしても、冷ややかに視線を滑らせるどころか、楽しむ側に着いており……何ひとつ疑問の言葉を発することはない。


「それが当然だ」と言外に主張するかのような、沈黙が全体を支配していた。


 その沈黙が、何より雄弁に語っていた——そこは、そうした場なのだと。


 橘由紀子は、黙してその机を見下ろしていた。

 痩せた指はわずかに震えていたが、顔にはほとんど表情の影が浮かんではいなかった。


 無機質な灰色の目。その奥には既に何も映っていなかった。


 ——ここは日常だった。


 それが、この異様な教室の、日々繰り返される現実だったのだ。


 椅子を与えられぬまま、冷たい教室の床に膝をつき、授業を受けさせられる。


 ノートを広げる場所などどこにもない。机は潰され、教科書は取り上げられ、手元に残されたものは、己の身体ひとつきり。


 もはや反旗を翻す気力もない。

 誰かを憎む体力も残っていない。


 それでもまだ、生きていた。生きている「ふり」をして、今日もそこにいた。


 そして、由紀子のすぐ背後、教室の壁際。

 そこにはもうひとつの影が沈んでいた。


 齋藤遠矢——由紀子と同じクラスに在籍する少年。


 いまやその姿は「衣服」という概念から最も遠ざかったものとなっていた。


 全裸であり首、肩、胸元、腹、腕、腿——露わとなった全身の至るところに、青黒く変色した無数の痣が広がっていた。


 それはあたかも、腐敗の兆しすら帯びた奇怪な模様のようであり、人肌とは思えぬ異様な色彩がそこにあった。


 骨ばった肩は絶え間なく微細に震えていた。

 その背は冷たき壁に押しつけられ、細い両腕で痩せた膝を抱えている。


 目は見開かれていたが、意識の焦点はとうに失われていた。

 視線は宙を彷徨い、どこにも定まることなく漂っている。


 声はひとつも発せられなかった。

 ただ、苦しげな呼吸だけが、掠れた音となって、かすかに教室の空気を震わせていた。


 ——いつもそうだった。


 いたぶり、嬲り、飽きたらそこに「捨て置く」。


 それが彼らのやり方。

 誰も助けようとはしない。


 それどころか、助けの手を差しのべようとする者は、たちまち「敵」となる。

 孤立こそが、この教室という牢獄における常態だった。


「……」


 由紀子は、遠矢の姿に一瞬だけ目を向けた。

 しかし、唇は閉ざされたまま、何の言葉も紡がれはしなかった。


 仮に声をかけたところで、救いとなる言葉など、ここには存在しない。


 それはとっくの昔に知っていたことだ。


 ——教室の中心部。


 そこでは、あまりに異様な「通常」が展開されていた。

 女子たちはスマートフォンを片手に持ち、嬌声をあげながら互いの画面を覗き込み、笑い合っている。


 男子たちは机を叩き、大声で意味のない叫びを上げながら、猿じみた喧噪を撒き散らしていた。


 教師は、教卓の傍らにたたずみ、一部の女子生徒と和やかに談笑している。


 全員の口元には、醜悪な笑みが浮かんでいた。


 もはや授業というものは成立していない。


 教育の名を冠するにはあまりに歪み、崩壊した空間。


 だが、それこそが「日常」だった。


 破綻し、狂った世界。

 その只中に、橘由紀子はいた。


 だが、叫びはとうの昔に喉を枯らしていた。


 抗議も、悲鳴も、祈りさえも無意味なこの空間においては、声など何の力も持たなかったのだ。


 ——今日もただ、何も言わずに、逆らわずに生き延びる。

 それしかなかった。


 その時、だった。


 何の前触れもなく——教室の空気が、微かに、だが確実に変わった。


 目に見えぬ、しかし肌に粘りつくような不穏な気配が、じわじわと広がっていく。


 次の瞬間、床下よりかすかな震動が伝わってきた。


 それは柔らかなものではなかった。


 かすれた低音のうねりが足元から這い上がり、骨の芯をかすかに打ち震わせた。


 カァァァァァァン……ン……ン……


 耳朶を鋭く刺す、高く澄みきった鐘の音が、教室の隅々にまで響き渡った。


 清冽なはずのその音は、なぜか冷たい悪寒を孕んでおり、音の余韻は空間の壁に絡みつきながら鈍く反響していた。


 由紀子は、反射的に顔を上げた。


 ——何? 鐘……?


 この街に、鐘の音など存在しない。


 近隣に教会など影も形もない。


 もちろん校内にも、そんな鐘は一切設置されてはいないはずだった。


 それでも、確かに聞こえた。


 幻聴でも錯覚でもない。確かな「音」として、耳に焼き付いた。


 カァァァァァァン……


 再び鐘が鳴り響く。

 今度は机の表面や床が、かすかに震えた。


 音が、質量を伴って空間を圧している。

 それは明らかに、この場の理に属さないものだった。


 瞬間。生徒たちの動きが、一瞬にして止まった。


 全員が、ぴたりと。


 教室が、凍結したかのように静止した。


 だが、誰ひとりとして不審そうに周囲を見回す者はいなかった。


 気味悪がる素振りすら見せない。


 ぴたり、と。まるで、内部の電源を突然切られた機械のように、一切の動作が停止した。


 由紀子は喉元がひきつるのを感じた。

 呼吸が詰まりそうになる。


 背後から聞こえてくる遠矢の掠れた呼吸音だけが、妙に耳を打った。


 それが、この異常な静寂の中で唯一「生」の存在を感じさせる音だった。


 ——何が……起きている?


 恐怖という言葉では言い表せぬ異様な感覚が、じわじわと胸奥を蝕んでいく。


 そして——その直後だった。


 ガガガガガガガガ……ッ!!


 教室の天井に取り付けられたスピーカーが、突然、凶暴な爆音のノイズを吐き出した。


 金属が擦れ合い、引き裂かれるような不快極まりない轟音。


 あまりの音量に、由紀子は反射的に両耳を塞いだ。


 それでも耳の奥まで突き刺さるようなノイズは止まず、鼓膜を容赦なく叩きつける。


 その狂った雑音の中から——信じ難い「声」が現れた。


「みなさぁん! おはようございまーす!!」


 不自然なほど明るく、幼い少女の声。


 しかしその声は、生のものではなかった。


 まるで劣化した機械が吐き出すような、ひび割れ、歪みきった異様な音色が混ざっていた。


 人の声の温度など微塵も感じられない。


 冷たい電子のざらつきと、異常なまでの明朗さが同居した、おぞましい響きだった。


「今日も元気に挨拶! さあ! はい!」


 その瞬間だった。

 教室中の生徒たちが、一斉に立ち上がった。


 まったく同じタイミングで。

 同じ角度、同じ所作で。


 それは「人間」というよりは、何かの「プログラム」に従って動作する機械のようだった。


 異様な光景が目の前に広がっていた。


 全ての生徒が、顔に引き攣ったような同一の笑顔を貼り付けていた。


 口角は異様なまでに吊り上がり、目は焦点の定まらないまま見開かれている。


 虚空を睨み、同じ動き、同じ表情、同じ意図なき明るさを強制的に「演じさせられて」いた。


 そして——教師までもが。

 教壇の前に立ち、全く同じポーズ、同じ表情を浮かべていた。


「おはようございます!おはようございます!おはようございます!」


 それはもはや「挨拶」と呼べるものではなかった。


 言葉の形を借りた狂気の詠唱。


 機械仕掛けの人形のように、全員が同じ言葉を反復し、叫び始めた。


「おはようございます! おはようございます!」

「なに、なにこれっ……」


 由紀子の喉から、震えた声が漏れた。

 しかし、それもこの狂騒の挨拶にかき消されていく。


 狂気の詠唱が、教室という檻の隅々にまで満ちていく。


 その音は耳だけでなく、精神の奥深くを浸食していった。


 そして——由紀子は、ふと気付いた。

 この異常な大声は、自らのクラスからだけが発されているものではなかった。


 耳を澄ますまでもない。

 教室の壁の向こうからも、床の下からも、天井の彼方からも——あらゆる方角から同じ叫びが漏れ響いている。


 学校中の、すべてのクラス。


 そのすべてで、今や由紀子と遠矢以外の全生徒が、狂ったように叫び声をあげている。


 その事実は疑いようがなかった。


 そしてさらに、彼らの発する言葉は一言一句、完全に一致していた。


 言葉の選び方どころではない。


 音程すら外さず、拍子も寸分違わず、声の高低も正確に重なり合っていた。


 まるで、一つの巨大な声帯が校舎全体を覆い、同じ咆哮を響かせているかのようだった。

 ——これは、いったい何だ。


 背後から、遠矢の微かな声が震え混じって届いた。


「な、なんだ……これ……?」


 掠れた声だった。

 喉の奥が痙攣しているのが、声色に明確に滲んでいた。


 だが、その声にはまだ「正気」が宿っていた。


 遠矢もまだ壊れてはいなかった。

 だからこそ、互いに発狂せずに済んでいたのだ。


 この空間、この視界、この音の奔流の中において——自分と同じ正気を保つを持つ存在がただ一人でも傍らにいるということが、もはや唯一の拠り所だった。


 それがなければ、とうに精神は崩れ去っていたことだろう。


 しかし——そのわずかな心の支えを打ち砕くように、さらなる異変が訪れた。

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