第35話 背後からの熱視線

 二月ももう半ば。暦の上では春が近いというのに、現実はまだ厳しい冬のまっただ中だった。

 時折粉雪が舞う鉛色の空の下、私はいつものように院内をラウンドしていた。インフルエンザの流行もようやく終息に向かい、病棟には少しずつ穏やかな日常が戻りつつある。

 だが、その平和なはずの午後のラウンドで、私は奇妙な、そしてどこか不穏な感覚に囚われていた。


(……視線?)


 ふと、背中に誰かの、じっとりとした視線を感じる。

 振り返っても、そこには誰もいない。ただ、暖房で少しだけもわりとした長い廊下が続いているだけ。

 気のせいか。

 そう思い直し、私は再び歩き出した。

 だが、その視線は消えなかった。

 外科病棟のナースステーションで師長と立ち話をしている時も。

 トイレの個室に入ろうとしたその瞬間も。

 そして、自分の城である感染対策室のドアを開けようとした時も。

 まるで影のように、その粘着質な視線は私を追いかけてくるのだ。

 それは好奇心や敵意とは少し違う。もっとこう、何かを切実に訴えかけてくるような、そんな湿った熱量を帯びていた。


(……まさか、とは思うけど)


 私の脳裏に、一人の能天気な若者の顔が浮かんだ。

 そうだ、あいつしかいない。

 私をこっそり尾行して、その反応を楽しむなんていう、悪趣味な悪戯をするのは。


 その日の午後。

 週に一度の嵐、小日向ひまりが、いつものように私の城にやってきた。

 私は、彼女がパイプ椅子に腰を下ろすのを待って、単刀直入に切り出した。


「……あなた、今日ずっと、私の後をつけていたでしょう」

「へ? あたしが? つけてないですよ。今、来たばっかですけど」


 ひまりは、きょとんとした顔で首を傾げた。その演技とは思えない口振りと表情。

 どうやら、犯人は彼女ではなかったらしい。


「そう……」

「え、どうしたんすか急に。誰かに、つけられてるんですか?」


 私が事の顛末を話すと、ひまりの顔がぱあっと輝いた。


「マジすか!? それって絶対、真澄さんのこと好きな男の人ですよ!」

「……は?」

「いるんですよ、きっと! クールで、仕事ができて、でもたまに可愛いとこもある真澄さんに密かに想いを寄せる、シャイな男が! 真澄さんとお近づきになりたい。でも声をかけるきっかけがない、みたいな! 少女漫画の王道パターンじゃないすか!」


 彼女は一人で、勝手に盛り上がっている。

 馬鹿馬鹿しい。この病院に、そんなロマンチストがいるわけがない。

 大体、私はもう四十を過ぎている。そんな少女漫画のヒロインになれるような歳ではない。


「くだらない。きっと何か、私に言いにくい苦情でもある職員の誰かでしょう」

「いやいや、絶対恋ですよ! よーし、こうなったら、あたしがその恋に悩める殿方を突き止めてあげますよ!」

「……遠慮しておくわ」

「固いこと言わない! 行きますよ、真澄さん! 恋のパトロールに!」


 ひまりは有無を言わさず、私の腕を掴むと、感染対策室から私を引きずり出した。

 私たちは、まるで刑事ドラマのおとり捜査官のように、院内の廊下をゆっくりと歩き始めた。


「いいですか、真澄さん。あたしは後ろを警戒しますんで。真澄さんは、いつも通り自然に歩いててください」

「……どうして私が、こんなことを」


 不満を口にしながら歩いていると、後ろから一人の男性医師がついてくる。


「……後ろの先生、どうです?」

「違うわね。彼の視線は、なんというか、こう、探るような鋭さがある。私が午前中に感じたのとは違う」


 次に私たちを追い越していったのは、若い男性看護師だった。


「……彼は?」

「ううん。彼の視線は、こう、子犬みたいにキラキラしている」


 薬剤部の前を通りかかった時、中から顔を出した男性の薬剤師と目が合った。


「……あの人は、どう?」

「違う。彼の視線は、薬の配合を計算しているような、無機質な感じだから」

「真澄さん、普段からどんだけ人の視線、分析してるんですか……」


 ひまりが、呆れたように呟いた。


「うーん。これだけ探してもいないとなると、患者さんとかですかねえ。真澄さん、今度は中庭と受付前のホールに行ってみましょう!」

「……もういいでしょう。私は忙しいから戻るわよ」


 私が踵を返した、その時だった。

 私の背中に、再びあの、じっとりとした視線が突き刺さった。


「……小日向さん」


 私は声を潜めた。


「今、来てるわ。私の真後ろ」

「マジすか!?」


 ひまりが、ちらりと後ろを振り返る。


「……誰もいないっすけど」

「いるのよ。気配がする」


 私がそう言った瞬間、背後の気配が、さっと消えた。

 どうやら、どこかの物陰に隠れたらしい。


「よし。こうなったら、確かめるっきゃないっすね」


 ひまりの目がキラリと光り、私に作戦を耳打ちする。

 そして私たちは、何食わぬ顔で、再び廊下を歩き始めた。


 コツ、コツ、コツ。


 私たちの足音に重なるように、タッ、タッ、タッ、と足音がついてくる。

 私たちは、わざと少しペースを上げた。

 後ろの足音も、慌てたように速くなる。


 そして計画通り、廊下の角をさっと曲がった。

 ひまりが壁にぴたりと身を隠す。

 私も息を殺して待った。


 タッ、タッ、タッ!


 足音の主が焦ったように角を曲がってきた、その瞬間。


「わっ!」


 待ち構えていたひまりが、飛び出した。


「ひゃんっ!」


 可愛らしい悲鳴。

 足音の主は驚きのあまり尻もちをつき、抱えていた大量の書類を廊下にぶちまけてしまった。

 そこにいたのは、ひまりが想像していたような恋に悩める殿方ではなかった。

 小柄で、まだあどけなさも残る、若い女性看護師だった。


「……あなたは?」


 私が尋ねると、彼女は涙目になりながら、か細い声で答えた。


「……せ、整形外科病棟の、高田理沙です……」

「それで? 私に、何か用があったのかしら」

「あ、あの……! この、感染対策マニュアルのことで、少しご意見したくて……!」


 理沙さんは、慌てて散らばった書類を拾い集め始めた。

 それは、私が作成した院内感染対策マニュアルのコピーだった。

 そして、そのすべてのページに、びっしりとラインマーカーが引かれ、色とりどりの付箋が貼られていた。


 ひまりは理沙の見た目や言動を見て、からかってみたくなったのだろう。

 まるでヤクザの舎弟のように、理沙さんにすごんで見せた。


「ああん? あんた、うちの室長のマニュアルにケチつけようっての? ええ? そんな落書きだらけの紙切れ、室長が見るわけねえだろうが。ねえ、室長」

「見せて頂戴」

「はよ見せんかい。室長が待ってるやろがい」


 そう言って、理沙さんからマニュアルをひったくると、恭しく両手で私に差し出してきた。

 私は、受け取ったマニュアルで、ひまりの頭をバシッと叩いた。


「……お座り」


 地を這うような低い声で、ひまりに命じる。


「……はい」


 ひまりはしゅんとして、その場に正座した。


(まったく……高校時代の彼女が見て取れるわ)


 私は、大きくため息をつくと、マニュアルをじっと読み始めた。

 その間、ひまりはおどおどして立っている理沙さんに、しつこく絡んでいる。


「何、突っ立っとんねん。あんたも正座せんかい」

「は、はい……すみません」


 理沙さんは慌てて、ひまりの隣にちょこんと正座した。

 私はもう一度、ひまりの頭をマニュアルで叩いた。

 そして理沙さんの前にしゃがみ込み、彼女の目をまっすぐに見て、言った。


「……よく出来ているわ」

「え?」

「エビデンスに基づきながらも、現場の実状に合わせて、手順がより実践的に改良されているわ。私が見落としていた問題点も的確に洗い出してくれている。……ぜひ、この案を次のマニュアル改訂に使わせてもらえるかしら」


 私のその言葉に、理沙さんの顔がぱあっと輝いた。


「ほ、本当ですか!?」

「ええ。ありがとう、高田さん。助かったわ。また何か気が付いたことがあったら、いつでも感染対策室に来て頂戴」

「はい! ありがとうございます!」


 理沙さんは深々と頭を下げると、喜びに満ちた顔で、ぴょんぴょんと跳ねるように、廊下の向こうへと駆け去っていった。


「いやー、声もかけられずに後をついてくるとか。初々しくて可愛かったっすねえ!」


 ひまりが正座を崩しながら、明るく言った。

 私はその能天気な頭を、三度マニュアルで叩いた。

 そして鬼のような形相で、彼女を見下ろした。


「……さて、小日向さん」

「……は、はい」

「あなたには、少しお話があるわ。まずは、その抜けきれない高校生気質から矯正しましょうか。それから……」


 私の、長く、いつ終わるとも知れない、愛の説教が始まる。

 ひまりの顔が、みるみるうちに青ざめていくのを、私は満足げに眺めていた。


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