第17話 健康診断のD判定

 その日、私の城である感染対策室は、静かな絶望に満ちていた。

 原因は、私の手元にある、一枚の紙。健康診断結果報告書。そこに刻まれた、アルファベット一文字が、私の完璧だったはずの世界を、根底から揺るがしていた。


(……D)


 嘘だ。何かの間違いに違いない。この、私が……D判定? A、B、Cを飛び越えて、D? Acceptable(許容)、Borderline(境界)、Caution(注意)の次の、Danger(危険)のD?  私のライフスタイルが、危険?  断じて、あり得ない。

 私は、この一年の生活を、脳内で高速でリプレイする。

 食事は三食、栄養バランスを考慮。揚げ物は月に一度、スイーツは特別な日だけ。毎朝のスムージー、週末のヨガ、サプリメントの摂取。完璧なはずだ。

 何かの測定エラーか、あるいは、これは、私と同姓同名の、どこかの不摂生な人間の結果票が、誤って送られてきたに違いない。そうでなければ、説明がつかない。

 その、極めて非科学的な自己防衛機制が、フル稼働していた、その時だった。


「しつちょー! 今週も、おつかれ様でーす!  って、うわ、何すか、その顔! まるで、院内から未知のウイルスでも見つかったみたいな顔してますよ!」


 いつものように、嵐は、唐突にやってきた。

 小日向ひまりは、私の深刻なムードなどお構いなしに、太陽みたいな笑顔を振りまいている。

 私は、条件反射で、手元の封筒を素早く引き出しに隠した。


「……別に。いつも通りよ」

「いやいやいや、絶対いつも通りじゃない!  いつもが『無』だとしたら、今は『虚無』って感じ!  しかも、なんか、背中に『絶望』って書いてある!」

「書いてないわ。それに、あなたのその主観的な表現は、エビデンスに基づかない、極めて非科学的なものよ」


 我ながら、見事な切り返しだ。動揺など、微塵も感じさせない、完璧なポーカーフェイス。

 だが、今日の彼女は、妙に鋭かった。


「うわ、出た! 室長の理屈っぽいとこ! でも、今日のあたしには、お見通しなんすからね! さっき、引き出しに隠したやつ! 見たことある、その封筒! それ、病棟の看護師さんももらってました!」

「……何の、ことかしら」

「健康診断の結果でしょ!」


 ビシッ、と、効果音がつきそうな勢いで、ひまりの指が私を指した。

 この若者は、時々、野生動物のような、鋭い勘を発揮する。


「……だとしたら、何だというの。私は、至って健康よ。オールAに決まっているじゃない」

「またまたー!  絶対なんかあったんでしょ!  じゃあ、見せてくださいよ、オールAの証明書!」

「プライバシーの侵害よ。個人情報保護法、というものを、あなたは知らないの?」

「知ってますけど、今の室長は、法律で守るより、あたしが守った方がいい顔してる!  ほら、見せてくださいって!」


 にじり寄ってくるひまりから、私は必死で引き出しを死守する。

 その、あまりに子供じみた攻防に、自分でも眩暈がしそうだった。

 四十にもなって、一体、何をやっているのだろう。


「あたし、心配なんです!  室長が、実は、不治の病とかだったらどうしようって!」

「不治の病じゃないわよ」

「あ、やっぱり、どっか悪いんだ!」


 しまったと、私は思わず顔をしかめる。


「……こ、言葉のあやよ」

「あたし、ちなみに、オールAでしたよ! ピッチピチの二十歳、なめんなって感じっす!」


 暴飲暴食、不摂生、睡眠不足。健康リスクの塊のような生活を送っている、この若者が、オールA……。 そして、ストイックな生活を追求してきた、この私が……D。 神は、いないのか。


「もう、観念してください!」


 ひまりが、引き出しに手をかけようとした、その瞬間。私は、ぷつり、と、何かが切れるのを感じた。

 もう、いい。この屈辱を、この理不尽を、誰かに、聞いてもらわなければ、私の理性が崩壊する。


「……分かったわ。見せれば、満足なんでしょう」


 私は、おもむろに引き出しから封筒を取り出し、中から一枚の紙を抜き出した。そして、それを、ひまりの前に、叩きつけるように置いた。

 彼女は、一瞬、私のその気迫にたじろいだが、すぐに、好奇心に満ちた目で、結果票を覗き込んだ。

 そして、数秒後。


「ぷっ……!  あはははは!  マジすか!  これ!?」


 感染対策室に、彼女の悪魔のような笑い声が響き渡った。


「だって! 『脂質異常』!  しかも、『要精密検査』!  あの、ストイックの化身みたいな室長が!  あたしより、よっぽど不健康じゃないすか!」

「……笑うところじゃないわ」

「いやいや、笑うとこでしょ!  いつも、あたしのネイル見て、『細菌の温床』とか言ってくるくせに!  室長こそ、自分の血管、ちゃんと洗浄と消毒した方がいいんじゃないすか!?」

「ぐっ……!」


 的確な、皮肉。しかも、感染管理の専門用語を、見事に使いこなしている。このギャル、私のせいで、変な語彙ばかり、増えてしまったようだ。


「解せない。私の計算では、あり得ない結果よ。何かの、測定エラーに違いないわ」

「いやいや、エラーじゃないでしょ!  ほら、ここ!  『LDLコレステロール値、基準値を大幅にオーバー』!  LDLって、あれでしょ、悪玉のやつ!  室長の体の中に、悪の組織が巣食ってるってことじゃないすか!」

「悪の組織ではないわ。ただの、リポタンパク質よ」


 私の、必死の抵抗も、彼女の笑いの前では、無力だった。

 と、その時、ひまりが、何かを思い出したように、ポンと手を打った。


「あ。室長って、コーヒー、好きですよね」

「ええ。それが、何か?」

「一日に、何杯くらい飲みます?」

「……さあ。数えていないわ。仕事に集中している時は、五、六杯は……」

「それだ!」

「何が?  コーヒーは、ブラックよ。ポリフェノールも豊富で、健康にいいと論文も……」

「飲み過ぎなんですよ!  多分!  カフェインの過剰摂取で、自律神経がバグって、それで、体内の悪玉組織が元気づいちゃったんすよ!」


 なっ……。 そんな、非科学的な……。

 いや、しかし、可能性は……ゼロではない……?  

 過剰なストレスが自律神経に影響を与え、結果的に脂質代謝に異常を与えるというデータは、確かに……。 

 私の、このストイックな生活が、かえって、ストレスに……?

 自分のロジックで、自らを追い詰めていく。

 私の顔は、ますます青ざめていったに違いない。


「あーあ。人の健康や感染の管理はできても、自分のことは、意外と見えてないもんすねえ」


 ひとしきり笑い終えたひまりは、ふう、と息をついた。そして、私の隣に、そっと寄り添うように座った。


「まあ、でも」

「……何よ」

「なんか、ちょっと、安心しました」

「安心?  D判定の、何に、安心するというの」

「だって、室長も、あたしたちと同じ、人間だったんだなって。いつも、完璧で、隙がなくて、ロボットみたいに正しいことばっか言うから。たまには、こういう、ポンコツなとこもあるんだなって思ったら、なんか、親近感っていうか」


 ひまりは、そう言って、へへ、と笑った。その笑顔は、いつものからかうようなものではなく、どこまでも、優しかった。


「……ポンコツ、は、余計よ」

「いいじゃないすか、たまには。完璧な室長もカッコいいけど、こういう、ちょっとダメなとこがある室長も、あたしは、好きですよ」


 その、ストレートな言葉に、私は、何も言い返せなかった。四十年間、積み上げてきた『完璧な自分』という鎧が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 でも、不思議と、不快ではなかった。むしろ、少しだけ、楽になったような気さえした。


「よーし!  こうなったら、あたしが、室長の健康管理、してあげます!  まずは、コーヒーは一日二杯まで!  その代わり、あたしが、体にいいハーブティー、持ってきてあげますから!」

「……コーヒーは関係ないんじゃない」

「いやいや。何が原因か分かんないじゃないすか! 精密検査には、ちゃんと行ってくださいね!  もし、一人で行くの、心細かったら、あたし、付き添いますから! 大丈夫、心配ありませんよ!」


 彼女は、そう言うと、私の肩を、ポン、と軽く叩いた。その、何の根拠もない「大丈夫」が、どんな論文やデータよりも、今の私の心に、温かく響いた。


「……ありがとう」


 か細い、蚊の鳴くような声で、私は、そう呟いた。

 ひまりは、満足そうに、ニカッと笑う。

 D判定は、確かに、ショックだった。でも、この、お節介で、やかましくて、そして、とてつもなく優しい嵐のおかげで、まあ、それも悪くないか、なんて。

 そんなことを、柄にもなく、思ってしまっているのだった。

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