第10話 堕ちた英雄の残響
僕が木賃宿の自室に戻っても、王城の方角から聞こえてくる喧騒は夜が更けてもなお止むことはなかった。
人々の悲鳴、衛兵たちの怒声、そして街全体を覆い尽くすかのような不気味などよめき。
僕は硬いベッドに腰を下ろし、その不協和音をまるで心地よい子守唄のように聞いていた。
ポーチの中ではノロイちゃんが静かに佇んでいる。
僕の復讐の第一幕は終わった。
満足感はあった。
だがそれは胸がすくような歓喜ではなかった。
もっと冷たく静かでそして底なしの渇きを伴うような歪な充足感。
彼らが築き上げてきたものを僕がこの手で壊した。
その事実だけが僕の空っぽの心にずしりと重く横たわっている。
翌朝、僕が目を覚ました時、王都の空気は昨日までとは一変していた。
あれほどまでに満ち溢れていた祝祭の熱気は跡形もなく消え去り、代わりに疑心暗鬼と恐怖が濃い霧のように街全体を覆っていた。
僕は昨日と同じようにみすぼらしい旅人の姿で街へと足を踏み出す。
人々は道端でひそひそと声を潜めて昨夜の出来事を噂していた。
その内容は僕の想像以上に荒唐無稽なものだった。
「聞いたか? 勇者様たちは、悪魔に魂を売っていたらしい」
「いや、そもそも、あれは偽物だったという話だ。
本物の勇者様たちは、迷宮の底で、とうの昔に……」
「昨夜のあれは、邪神の呪いだとか。
王国の終わりも近いのかもしれん」
彼らの口から語られる英雄たちの姿はもはや昨日までの輝かしいものではなかった。
恐怖と嘲笑そして侮蔑の対象。
僕が望んだ通りの、いやそれ以上の結果だ。
人々の手のひら返しは滑稽なほどにあからさまで、僕はフードの下で静かに笑みを浮かべた。
正午過ぎ、王城から一人の布告官が姿を現した。
彼は広場に集まった民衆の前で羊皮紙を広げ、震える声で国王の勅命を読み上げる。
「――よって、元勇者アレク、元賢者リリア、元聖女セラ、この三名を、国王陛下及び神への冒涜、そして民衆を欺いた罪により、その英雄の称号を剥奪する! 三名は現在、王城の地下牢及び、大神殿の懺悔室に幽閉されており、追って、厳正なる裁きが下されるであろう!」
その宣言に民衆はどよめいた。
ある者は安堵しある者は恐怖に顔を歪め、そしてある者は堕ちた英雄たちに向かって容赦のない罵声を浴びせ始めた。
昨日までの英雄が今日には国賊として断罪される。
なんと脆く儚い栄光だろうか。
僕はその光景をただ冷めた目で見つめていた。
そして彼らが今どんな無様な姿を晒しているのか正確に知るために、再びヤミガラスを放った。
僕の漆黒の斥候は人々の目には映らない王城の闇へと吸い込まれていく。
ヤミガラスの視界を通して僕の脳内に三人の末路が映し出された。
まずアレク。
彼は王城の最も深い場所にある光の届かない地下牢に放り込まれていた。
その手足は魔力を封じる鎖で厳重に戒められている。
彼は牢の隅で虚空に向かって何かを叫び続けていた。
「来るな! 化け物! 俺の聖剣が……俺の力が……!」
彼の目には未だにバジリスクの幻影が見えているのだろう。
彼のプライドだった強さは今や彼を苛むだけの終わらない悪夢と化していた。
次にリリア。
彼女は高い塔の一室に一人閉じ込められていた。
部屋には書物一つない。
だが彼女はまるでそこに膨大な書物があるかのように、指で壁の石をなぞり続けている。
その口からは意味をなさない呪文とも呻きともつかない音が途切れなく漏れていた。
「虚数が……実数を侵食する……。
因果が、逆流する……。
ああ、なぜ、なぜ、なぜ……!」
彼女の知性は僕が仕掛けた「混沌」の迷路から二度と抜け出すことはできない。
世界の全てを理解できると信じていた賢者は今や、世界の何一つとして理解できなくなってしまったのだ。
そしてセラ。
彼女は大神殿の最も神聖とされる懺悔室に拘束されていた。
その周りでは何人もの高位神官たちが必死に浄化の祈りを捧げている。
だが彼女の口から溢れ出てくるのは聖句ではなかった。
「あはは! もっと苦しめばいいのよ! 絶望する顔って、本当に美しいと思わない!? ねえ、あなたもそう思うでしょう!? 私をこんなところに閉じ込めて、一体どんな顔で祈ってるの!?」
彼女の醜い本性はもはや彼女自身の意思では隠すことができない。
聖女の仮面は完全に剥がれ落ち、その下から現れたのは他人の不幸を糧とする悪魔の素顔。
神官たちは恐怖と嫌悪に顔を引きつらせながらも祈りをやめることができない。
彼らが崇拝してきた聖女が実は最も神から遠い存在だったという事実から目を逸らすかのように。
――完璧だ。
僕はヤミガラスからの報告を終えると深い満足のため息をついた。
僕の処方箋は一滴の誤差もなく完璧な効果を発揮した。
だがこれで終わりだろうか。
復讐は終わったのか。
僕の心に宿っていたあの燃えるような憎悪は消えたのか。
いや違う。
炎は消えてなどいない。
むしろ奴らの無様な姿を見たことで炎はより静かに、より低温で、しかしより激しく燃え上がっていた。
まだ足りない。
まだ生ぬるい。
こんなものでは僕が奈落の底で味わった絶望には到底及ばない。
僕は僕の本当の王国、奈落のサンクチュアリへと戻ることを決意した。
この光の世界は僕には眩しすぎる。
僕の居場所はあの静かで暗くそして僕の意思が全てである奈落の底だ。
そこで僕は次なる復讐の準備を始める。
その時だった。
宿の窓の外から再び布告官の声が聞こえてきた。
僕は窓辺に寄りその内容に耳を澄ませる。
「――英雄たちの不在により、大迷宮の脅威は、日増しに増大している! よって、国王陛下は、王国騎士団の精鋭、及び、ギルドの最高ランク冒険者による、合同の大規模討伐隊の結成を宣言された! 目標は、大迷宮二十五階層までの完全な制圧である!」
その言葉に僕は思わず笑みを漏らした。
二十五階層。
それは僕の聖域が存在する階層よりもさらに遥か下。
だが大規模な討伐隊が結成され迷宮の生態系が乱れれば、いずれ僕の王国にまでその影響が及ぶだろう。
なんと愚かな。
お前たちは自らの手でパンドラの箱を開けようとしているのだ。
僕というこの世で最も厄介な「災厄」が眠るその箱を。
「面白い」
僕は呟いた。
「ならば、迎え撃ってやろうじゃないか」
僕の復讐はもうあの三人だけを対象とした個人的なものではなくなった。
僕の存在を忘れ僕の領域を侵そうとするこの世界そのものへとその矛先は向けられる。
僕はポーチからノロイちゃんを取り出した。
そしてその泥の身体にそっと魔力を注ぎ込む。
「帰るぞ。
僕たちの、城へ。
戦争の、準備を始めよう」
僕の言葉にノロイちゃんのボタンの目が一瞬だけ血のように赤い光を宿した。
僕は王都の喧騒を背に再び大迷宮へと続く暗い道へと歩みを進める。
奈落の支配者が今その玉座へと帰還するのだ。
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