第7話 奈落より光へ

僕の背後でガンテツがその重い身体を動かし、奈落のサンクチュアリへの入り口を完全に封鎖した。

ゴゴゴ…と低い音を立てて岩の扉が閉ざされると、僕と地上の世界を隔てるものはこの大迷宮そのものだけとなった。

僕は一度だけ閉ざされた扉を振り返った。

あの場所は僕が再生した場所であり僕の憎悪が形を成した王国だ。

僕が戻る時、僕は復讐を成し遂げた後だろうか。

それとも――。

いや、他の結末などあり得ない。

僕の計画に失敗という二文字は存在しない。


「行くぞ、ノロイちゃん」


僕の呟きに傍らを歩く不格好な泥人形は何の反応も示さない。

ただ僕の魔力に引かれるようにその短い足でとてとてと、ひたすらにゆっくりと後をついてくる。

その姿は僕が何者であるかを僕に絶えず思い出させてくれた。


ヤミガラスの記憶を頼りに僕たちは地上へと続く道を進む。

下層から中層へ。

空気が少しずつ変わっていくのが分かった。

奈落の底に満ちていた濃密な魔力は薄れ、代わりに様々なモンスターの気配が濃くなっていく。


「グルルル……」


通路の角から三体のゴブリンが姿を現した。

この階層ではありふれたモンスターだ。

以前の僕なら遭遇した瞬間に悲鳴を上げて逃げ出していた相手。

パーティにいた頃もアレクが聖剣の一振りで薙ぎ払うのを、遠くで震えながら見ていることしかできなかった。


ゴブリンたちは僕とノロイちゃんの姿を認めると汚らしい笑みを浮かべ、錆びた剣を構えて突進してきた。

獲物が子供とガラクタにしか見えなかったのだろう。

油断しきった愚かな獣。


僕はポーチから一つの種を取り出し指で弾いた。

種はゴブリンたちの足元に転がり、僕が【植物育成】のスキルを発動させたと同時に瞬く間に芽を出し、鋭い棘を持つ茨となって三体の脚に絡みついた。

「ギャッ!?」

突然のことにゴブリンたちは無様に転倒する。

茨に仕込まれたごく微量の麻痺毒が彼らの動きをさらに鈍らせていた。


僕はゆっくりと彼らに近づく。

ノロイちゃんを使うまでもない。

この程度、僕の庭に生えている雑草で十分だ。


「お前たち、運が悪かったな」


僕はもがくゴブリンたちを見下ろし冷たく言い放った。

「僕が、今、少しだけ機嫌が悪い時に、目の前に現れた。

ただ、それだけだ」


僕はシャドウ・クロウラーの爪から抽出した毒を塗ったナイフで、ゴブリンたちの喉を一つ一つ丁寧に掻き切った。

断末魔の叫びを聞いても僕の心は凪いだ湖面のように何も揺れ動かなかった。

ただ僕の計画の邪魔になる障害を効率的に排除しただけだ。


死体から使えそうな素材――特に魔石だけを回収し、僕は何事もなかったかのように再び歩き出す。

これが今の僕だ。

もはや僕は捕食される側ではない。

この迷宮において僕自身が最も厄介で最も悪質な捕食者なのだ。


上層へと近づくにつれて僕の耳に懐かしい音が届き始めた。

風の音。

そして微かに聞こえる鳥の声。


ついにヤミガラスが見つけた出口が前方に見えてきた。

暗闇に慣れきった目には外から差し込む光が痛いほどに眩しい。

僕は思わず腕で顔を覆った。


どれくらいぶりに太陽の光を浴びるのだろう。

奈落の底で過ごした時間は僕の身体だけでなく、魂までをも闇の色に染め上げてしまったかのようだった。


僕はゆっくりと目を開き周囲を見渡した。

緑豊かな森がどこまでも広がっている。

空は憎らしいほどに青く白い雲がゆっくりと流れていく。

何もかもが僕がいた奈落の底とは正反対の世界。


だがこの美しい光景を見ても僕の心に感慨はなかった。

ただ僕の復讐の舞台としてどう利用できるか。

思考は自動的にそちらへと向かってしまう。


僕はヤミガラスの記憶を頼りに王都へと向かって歩き始めた。

幸いこの出口は主要な街道から外れており人と遭遇する心配はなさそうだ。

道中、僕はいくつかの植物を採取した。

髪の色を一時的に変える染料となる木の実。

肌に塗ればシミや痣のように見える樹液。

これらを使って僕は自分の姿を変えていく。

フードを目深に被り顔には泥を塗りみすぼらしい旅人を装う。

今の僕ならたとえアレクたちが目の前を通り過ぎたとしても、それが僕だとは気づかないだろう。


二日後、僕はついに王都の城壁へとたどり着いた。

城門では衛兵たちが厳しい検問を行っている。

祝賀会を前に警備が強化されているのだろう。


僕は他の旅人たちに紛れ列の最後尾に並んだ。

僕の番が来た時、衛兵は僕の汚らしい姿を見てあからさまに眉をひそめた。


「身分を証明するものはあるか?」

「ありません。

田舎から、仕事を求めて出てきたばかりでして」

僕はできるだけ弱々しく卑屈な態度を装った。

パーティにいた頃のかつての僕のように。


衛兵は僕を値踏みするように見つめていたが、特に怪しい点もないと判断したのか面倒くさそうに手を振った。

「行け。

だが、騒ぎだけは起こすなよ」


僕は深々と頭を下げ足早に城門をくぐった。

背後で衛兵が「汚い浮浪者が」と呟くのが聞こえたが僕は気にも留めなかった。

むしろ好都合だ。

誰からも気に留められない道端の石ころ。

それこそが今の僕が望む姿なのだから。


王都の中は祝賀会を前にした熱気で溢れかえっていた。

通りには色とりどりの旗が飾られ人々は皆、英雄たちの凱旋を喜び浮かれた様子で歩いている。

聞こえてくるのはアレクたちを称賛する声ばかり。

その一つ一つが僕の復讐心をより硬くより鋭く研ぎ澄ませていく。


僕は裏路地にある最も安く最も汚い木賃宿に宿を取った。

部屋に案内されると僕はすぐに窓からヤミガラスを放つ。

僕の漆黒の斥候は王都の空に溶け込むように舞い上がり、祝賀会が開かれる王城の偵察を開始した。


ヤミガラスの視界を通して王城の構造、衛兵の配置、そして祝賀会が開かれる大広間の位置が僕の脳内に完璧な立体地図として描き出されていく。

厨房の位置、換気口のルート、貴族たちの控え室。

僕の「贈り物」を最も効果的に届けるための最適な侵入経路。


日が暮れ王城に灯りがともり始める。

いよいよ祝賀会の夜だ。


僕はベッドの上で静かに目を閉じた。

ポーチの中には僕の憎悪の結晶である黒い粉末と、僕の原点であるノロイちゃんが入っている。


アレク。

リリア。

セラ。


お前たちの栄光の夜はもうすぐ終わる。

僕がこの手で終わらせてやる。


奈落の底から来た名もなき亡霊の手によって、お前たちの全てが絶望に染まるのだ。


僕は骨の筒を握りしめ静かにその時を待った。

闇に染まった僕の心はこれから始まる惨劇への期待に静かに高鳴っていた。

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