第五十二話【門ヲ越エシ者】
夜半の鐘が遠くに響き、しじま堂の戸口はいつもより重たく軋んでおります。
今宵お見せするのは、表紙に扉の絵が描かれた古き一冊。
その絵を凝視するほど、扉はわずかに開き、紙の奥からは知らぬ風が吹き込むのです。
ただし一歩でも踏み越えれば、二度と帰れぬと申します。
なぜならその向こうには、言葉ではなく“存在”そのものを記す頁が広がっているから。
さて今宵、私が読み語るのは……
決して開けてはならぬ、“門ヲ越エシ者”にまつわる一冊。
どうか戸口に影が差しても、振り返らずに――
⸻
店内の片隅。
埃をかぶった木箱の底から、藤堂梓馬は一冊の古びた本を取り出した。
革の装丁には、古代文字にも似た模様がびっしりと刻まれている。
手に取った瞬間、冷たい風が指先を撫でたような感覚が走り、彼はほんの僅かに眉をひそめた。
――『門ヲ越エシ者』。
題名は、日本語のようでいて、どこか異国の響きを孕んでいる。
「これは、ある人物の体験談を綴った記録だとされております」
藤堂は低く語り出した。
「その男は旅人でも、研究者でもなく、ただの市井の人間でした。けれど、ある夜……“門”を見たのです」
ページを繰るたびに、紙の質感が奇妙に変わる。
最初はざらついた羊皮紙のようで、次には薄い布のような手触りになる。
まるで本そのものが、読み手を異なる世界へ導こうとしているかのように。
記録によれば、その男は夢の中で“黒き門”を目にした。
門はどこまでも高く、天を突くように立ち塞がっていた。
材質は石でも木でもなく、言葉にできぬ物質でできており、触れれば骨の奥まで震える冷たさが走ったという。
「門の向こうから声がしたそうです。人の言葉に似てはいるが、決して意味を結ばぬ囁き。その囁きが、男を誘ったのです――“越エヨ、越エヨ”と」
男は抗えなかった。
気がつけば、両の足は門の方へ進んでいた。
息は苦しく、頭は霞む。
だが恐怖よりも先に、どうしようもない“懐かしさ”が胸を締めつけた。
門を越えた瞬間、景色は裏返った。
地平は裂け、赤黒い空が広がり、無数の影が蠢いていた。
そこには“こちら”の理が通じない生き物が群れていたのだ。
「本の記録には、こう書かれています。――“彼らは人の形を模してはいたが、目が一つ余計で、影が遅れて動いた”と」
藤堂は一拍置き、ページにそっと触れた。
「……そして、この記録は、そこで終わっているわけではありません。問題は、その後です」
その記述は、ある頁を境に一変していた。
淡々と日記のように綴られていた体験談は、門をくぐった瞬間から異様な熱を帯びていく。
〈門を越えたとき、私の耳から音がすべて消えた〉
〈残されたのは心臓の鼓動だけで、やがてそれすらも遠ざかっていった〉
彼が目を開けたとき、そこは「空」だけの世界だった。
地は見えず、ただ無限に広がる蒼穹の下、一本の道だけが浮かんでいた。
道は白く光り、踏むごとに深い鈴のような音を響かせたという。
歩みを進めると、空の底から影のようなものが立ち上がってきた。
それは人の形に似ていたが、顔がなかった。
代わりに、無数の口が全身に散らばっており、それぞれが別の声で呼びかけてきた。
〈戻れ〉
〈進め〉
〈名を捨てよ〉
〈名を唱えよ〉
頁には震える筆跡で、こう記されている。
〈私は自分の名を問われているのだと悟った。だが、口を開こうとするたび、舌が自分のものではなくなっていく〉
次の一文は滲んで読みにくいが、確かにこう書かれていた。
〈私の名は、既に向こうのものに奪われつつあった〉
ここから先、文章は断片的な叫びと記号のような文字列に変わり、意味を結ばなくなる。
まるで筆者の意識そのものが言語を保てなくなったかのように。
記録は唐突に乱れ始める。
紙の罫線を無視するように、文字は斜めに、あるいは裏面へと滲み出ていた。
筆跡は震え、まるで筆を握る手が他人のものになったかのように不揃いだ。
――「門を越えたのは、私ひとりではなかった」
そう書かれた次の行は、墨ではなく赤黒い指で押し付けた跡に見えた。
以降の記述は、ほとんど判読できない。
それでもところどころに「声」「契約」「交換」という語が浮かんでいる。
彼は門を越えた世界で“何か”と取引を交わしたのだろう。
だが詳細はわからぬ。
いや――もしかすると、敢えて記すことができなかったのかもしれない。
最後の頁…
そこだけははっきりとした筆致で、こう記されていた。
――「もしこれを読む者があるならば、どうか閉じよ。門は頁を介して開く。読了の瞬間、お前もまた“向こう側”へと足を踏み入れることになる」
私は無意識に本を閉じていた。
掌に冷や汗が滲む。
だが、閉じるより一瞬早く、余白に挟まれた紙片が目に入った。
そこには、こう綴られていた。
――「既に遅い。お前は、読み終えてしまったのだから」
書かれたインクは乾いていないように濡れ光り、私の親指に触れると、ゆっくりと吸い込まれるように消えていった。
その瞬間、背後の闇が――まるで扉の隙間のように、わずかに開いた気がした。
⸻
今宵お聞きいただいたのは、奇書としか呼べぬ一冊の断章でございました。
「異界へ通じる門」とは、神話や民話の中だけに存在すると思われがちですが、記す者の手と、読む者の目とが交差する時、思わぬ形で現れるのかもしれません。
門を越えたのは著者か、それとも本を開いた読者か。
境は曖昧で、確かなのは――ひとたび頁を閉じても、門の縁は目の裏に残り続けるということ。
次にその縁を踏み越えるのは、果たして誰なのでしょうね。
どうぞ、次の頁を開く時には、振り返らぬようお気をつけください。
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