第四十七話【聖書・亡者名簿】
灯りを落とした書庫の奥、埃をかぶった木箱の中から、それは現れた。
かつては深い藍色だったはずの革表紙は、手垢と時の重みで黒ずみ、角は裂け、背表紙の文字もほとんど失われている。
それでも、かすかに残る刻印――「REV」の三文字だけが、異様に鮮明だった。
開けば、冒頭の数章は古めかしい聖句が並んでいる。
だが、ある一節を過ぎた途端、文字の並びは唐突に崩れ去り、代わりに整然と並ぶ無数の名前が現れる。
一行ごとに記されたその名の横には、十字架にも似た記号――いや、墨の滲んだ指紋が押されていた。
さて今宵、私が読み語るのは……
決してめくられてはならぬ、“亡き者の呼び戻し”にまつわる一冊。
どうか指先を紙に触れさせぬよう、そっと離して――
⸻
それを持ち込んだのは、教会に籍を置く老牧師だった。
「どうしても処分できなくてね……燃やしても、捨てても、戻ってくるんだよ」
声は掠れ、手の震えは止まらない。
革表紙に触れるのも恐れているようで、机の上に置くなり、彼は数歩下がった。
頁をめくれば、最初は聖書としての体裁を保っていた。
創世記、出エジプト記、詩篇……
しかし第六章の末尾から先が、奇妙な「名簿」に変わる。
男も女も、子どもも、明らかに外国名も混ざり、年齢も記されている。
そして、どの名の横にも“日付”がある。それはすべて未来の年月日だった。
老牧師は言った。
「この日付が来るとね、その名の人間は死ぬ。病でも事故でもなく……呼ばれて、消えるんだ」
私は何も返せなかった。
紙の上で乾いた墨跡が、まるで呼吸しているように微かに脈打って見えたからだ。
老牧師が置いていった本は、棚の奥の防湿箱に収めておいた。
触れれば何かが始まる気がして、しばらくは開く勇気もなかった。
しかし、三日後――
私は新聞の訃報欄で、その名簿にあった名を見つけてしまう。
死亡日時は、まさに記されていた日付。
死因は「自宅での突然死」。
胸の奥がひやりとした。
偶然だと片づけるには、あまりに出来すぎている。
試しに本を開くと、名簿の末尾に“加筆”があった。
そこには、私の知っている人物――常連の古本収集家・真田の名が刻まれていた。
そして日付は、今日の深夜零時…
私は慌てて真田に電話をかけた。
呼び出し音が三度鳴ったところで、息を切らせた声が出た。
「……誰? 藤堂さんか……? ちょうど……おまえに……」
そこで途切れ、無音が続いた。
受話器の向こうから聞こえたのは、耳の奥に直接届くような低い囁き――
「ひとつ、席が空いた」
時計を見ると、零時を一分過ぎていた。
電話を切った瞬間、店内の明かりが一斉に揺らぎ、まるで蝋燭の炎が吹き消される直前のように小刻みに震えた。
防湿箱の蓋が、誰の手も触れていないのに、ゆっくりと開く。
その中の聖書は、まるで自ら息をしているかのようにページをめくり、名簿の最終行へと辿り着いた。
そこには新たな名前が刻まれていた。
――藤堂 梓馬
日付は明日の零時。
背筋を走る冷気に、思わず本を閉じようとした。
だがページは吸い付くように指に絡み、私を離そうとしない。
目の端に、不自然に黒い影が棚と棚の隙間に立つのが見えた。
それは形を持たぬまま、しかし確かにこちらを見つめている。
そして、低く嗤う声が響く。
「書かれた者は……逃げられぬ」
私は咄嗟に、名簿の自分の名前を爪で引き裂いた。
すると紙面から黒い墨のような液体が滲み、破いた部分を何事もなかったかのように修復していく。
その文字は、より鮮明に、より深い黒で刻まれ直された。
遠くで、時計が零時までの残り時刻を刻んでいる。
あと二十四時間――私は、自分が消える運命を回避する方法を探さねばならない。
⸻
名簿に刻まれた名前は、まるで墓石に刻まれた文字のように、簡単には削れない。
ましてや、それが聖典の中に記されたものであればなおさらだ。
この「亡者名簿」は、ただ死者を記録するだけではない。
それは、死の予定表であり、呼び出し状でもある。
書かれた者は、必ずその日、その時刻に迎えを受ける。
たとえ本を燃やしても、破っても、名はどこか別の紙面に再び現れる。
名簿は不滅であり、持ち主さえも選ばない。
むしろ、手に取った者を次の頁へと誘い込む。
今夜、あなたが眠る前に――
本棚の奥や、押し入れの段ボールを開けるのはやめたほうがいい。
そこに、知らぬ間に「あなたの名前」が記された一冊があるかもしれないのだから。
☦️✝️🕙
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