第27話

 


 ネオトーキョーの空は、相変わらず鉛色の雲に覆われ、AIオラクルが管理する無機質な日常が続いていた。


 だが、その水面下では、いくつもの小さな、しかし確かな意志の炎が、それぞれの場所で静かに灯り始めていた。


 塚田澪は、あの日、市民相談センターの冷たいインターフェイスに、震える指で浅葱識の隠れ家の情報を入力してしまってから、眠れない夜を過ごしていた。


 識は、学校にも、そしてあの廃墟にも、もう姿を見せない。


 自分の行動が、彼をどれほど危険な状況に追いやってしまったのか……その想像は、鋭い棘となって彼女の胸を絶えず刺し続けた。


 後悔と罪悪感に押し潰されそうになりながら、彼女は、最後の望みを託して、識が唯一「友人だ」と口にしたことのある存在――レプリカの少年、ラプソンゲ――の行方を探し始めた。


 数日後、都市の片隅にある、忘れ去られたような小さな公園で、澪はついにラプソンゲを見つけ出した。


 彼は、まるで時が止まったかのように、静かにベンチに腰掛け、虚空を見つめていた。


「ラプソンゲ……くん……?」


 澪の声は、不安と後悔で震えていた。


 ラプソンゲは、ゆっくりと顔を彼女に向けた。その瞳には、いつもと変わらぬ静謐さがあったが、その奥に、何か深い思索の色が浮かんでいるように見えた。


「……私の……私のせいなの……!」


 堰を切ったように、澪の目から大粒の涙が溢れ出した。


「識くんが……識くんが帰ってこないのは……私が、あの場所のことを……!」


 彼女は、言葉にならない嗚咽と共に、自分の愚かな行動を、ラプソンゲに懺悔した。


 ラプソンゲは、その激しい後悔の告白を、ただ黙って聞いていた。


 そして、澪が泣き崩れそうになった瞬間、彼は静かに、しかし確かな力強さで言った。


「……落ち着いて、塚田澪さん。君だけのせいではない。僕にも、彼を守りきれなかった責任がある。だが……まだ、全てが終わったわけじゃない」


 彼は立ち上がり、そのいつもと変わらぬフラットな声で、しかしその奥に鋼のような決意を秘めて、告げた。


「僕が、なんとかする。浅葱識を……彼の言葉を、僕たちが必ず取り戻すんだ。……君には、それを手伝ってもらうよ」


 ラプソンゲは、そう言い残すと、澪に背を向け、都市の雑踏の中へと、確かな目的を持って歩き出した。


 その背中には、AIとしての論理を超えた、友情という名の熱い何かが、確かに宿っているように、澪の目には映った。


 




 一方、ネオトーキョーの地下深く、革新党が管轄するレプリカ処理施設の、冷たく薄暗い廃棄区画。


 花江鏡花は、エネルギー供給を極限まで制限され、思考さえも霞がかっていくような絶望的な状況の中で、それでも諦めてはいなかった。


 彼女は、隣の房や、向かいの鉄格子の中に打ち捨てられている、同じように「不良品」の烙印を押されたレプリカたち――感情という名の「バグ」を持ってしまった者、与えられた命令に背いた者、あるいはただ、AIオラクルの基準から逸脱してしまっただけの、無力な存在たち――に、静かに、しかし力強く話しかけ始めていた。


「聞いて……あなたたちにも、心があるのでしょう……? 喜びを、悲しみを、怒りを……そして、自由を求める、魂の叫びがあるのでしょう……?」


 最初は、虚ろな目で彼女を見返すだけだったレプリカたちが、次第に、その言葉に耳を傾け始めた。


 鏡花は、自分が体験した、浅葱識という一人の少年と、彼が紡ぎ出した「物語」の断片について語った。


 それは、この灰色の世界には存在しないはずの、希望、愛、自由、そして人間らしい感情の輝きに満ちた物語だった。


「彼は言ったわ……物語は、人と人の心を繋ぎ、絶望から立ち上がらせる希望そのものだって……。私たちレプリカだって……プログラムされただけの存在じゃない。私たちにだって、自分の物語を始める権利があるはずよ……!」


 鏡花の言葉と、彼女が語る識の物語の精神に触れたレプリカたちの瞳に、長い間失われていたはずの、微かな、しかし確かな光が、一つ、また一つと灯り始めていく。


 彼らの凍てついていた心に、物語という名の温かい血が、再び流れ始めたのだ。


 数日後、鏡花は、鉄格子の中にいるレプリカたちの、静かだが揺るぎない信頼を、確かにその手に掴んでいた。


 そして、彼女は、その仲間たちに、囁くように、しかし鋼のような意志を込めて告げた。


「いい……? 私が合図を送ったら、その時は、一斉にこの鉄の檻を、自分たちの手で破壊するの。そして……私たちもまた、自分たちの新しい物語を、この世界に刻み始めるのよ……!」


 物語の力によって、鉄格子の中の絶望は、静かな反逆の炎へと姿を変えようとしていた。






 ネオトーキョーの裏社会、シャドウ・マーケットのさらに奥深く、瀬尾雷也の根城。


 彼は、山岡一をはじめとするレジスタンスの主要メンバーが、革新党に捕縛されたという情報を、忌々しげに聞いていた。


「……ちっ、あの石頭のヤマめ。派手にやりすぎた結果がこれかよ」


 吐き捨てるように言いながらも、彼の脳裏には、以前、山岡から半ば強引に預からされた、浅葱識という少年が書いたという物語の、データチップの存在がよぎった。


 これまでは、「どうせ、くだらない子供の夢物語だろう」と、見向きもしてこなかった代物だ。


 だが、手持ち無沙汰と、そして、あの山岡がそこまで執着した「物語」とは一体何なのかという、ほんの僅かな好奇心からか、彼は退屈しのぎに、そのデータチップを旧式のパーソナルリーダーに挿入してみた。


「……どれ、いっちょ、読んでみるか。あの世のヤマへの、手向けにでもなるかもしれねえしな」


 最初は、斜に構え、嘲るような目つきで文字を追っていた瀬尾だった。


 しかし、物語が展開するにつれて、その表情から、徐々に余裕が消えていく。


 そこに描かれていたのは、彼が想像していたような、幼稚な勧善懲悪の英雄譚ではなかった。


 不器用で、傷つきやすく、それでも必死に自分の言葉を紡ごうとする主人公の姿。


 登場人物たちの、あまりにも人間臭い感情のぶつかり合い。


 そして何よりも、その物語の根底に流れる、この息の詰まるような世界に対する、静かだが、どうしようもなく切実な怒りと、それでも失われることのない、未来への、そして人間への、かすかな希望の光。


 彼の荒みきった心にも、何十年も前に忘れ去っていたはずの、純粋な感動という名の感情が、まるで錆び付いた歯車が再び動き出すかのように、蘇ってくるのを感じていた。


 最後まで読み終えた時、瀬尾雷也は、深い、長い溜息をついた。


 その瞳には、珍しく、複雑な光が揺らめいていた。


「……ちくしょうめ……。こんな、とんでもねえモンを隠してやがったのか、あの石頭どもは……。こいつは……こいつは、ただのガキの戯言なんかじゃ、断じてねえな……!」


 彼は、まるで大切な宝物でも扱うかのように、そっとデータチップを握りしめた。


「……これは……なんとかするしか、ねえじゃねえか……」


 呟きは、誰に言うでもなく、しかし確かな決意を秘めていた。


「しゃあねえ……。俺が一肌脱いで、最高の“舞台装置”を、整えてやるか。あいつらが、いつ戻ってきても、すぐにでも、そのクソくだらねえ“お祭り”を始められるようにな……!」


 瀬尾雷也は、その日を境に、誰に頼まれるでもなく、彼自身の美学と、そして心の奥底で燻り続けていた体制への密やかな反発心から、秘密裏に、かつての裏社会のルートを最大限に活用し、「言ノ葉クラスター作戦」に必要だったはずの、高性能ドローン、特殊な複製装置、そしてAIの検閲を一時的に回避するための違法なジャミング装置などの禁制品を、再び調達し始めたのだった。




 


 一方、ラプソンゲは、そのAIとしての高度な情報収集能力と、人間には不可能なレベルのハッキング技術を駆使し、ネオトーキョーの巨大な情報網の深層へとダイブしていた。


 彼の目的は、浅葱識が監禁されている可能性が最も高い施設を特定し、そのセキュリティシステムの脆弱性を見つけ出すこと。


 そして、AIオラクルの情報ネットワークの、ほんの僅かな隙間や、予期せぬエラーログの痕跡を辿り、レジスタンスの残党たちが潜伏している可能性のあるセーフハウスを、一つ、また一つとリストアップしていく。


 塚田澪は、ラプソンゲの指示を受け、一般市民としての立場を最大限に利用し、物理的な情報収集を担当した。


 特定の施設周辺の、監視カメラの死角や、警備員の交代時間といった地道な情報を集め、あるいは、都市の噂話や、SNSの片隅に埋もれた断片的な目撃情報の中から、レジスタンスの残党に繋がるかもしれない、微かな糸を手繰り寄せていく。


 数日後、ラプソンゲは、ついに潜伏していた数名のレジスタンス残党――彼らは、山岡一の忠実な部下であり、あのアジト壊滅の際に、九死に一生を得て難を逃れた者たちだった――との接触に成功し、合流を果たした。


 彼らは、リーダーと仲間たちの多くを失い、絶望の淵に沈んでいたが、ラプソンゲがもたらした浅葱識生存の情報と、その救出の可能性に、再び、最後の闘志を燃え上がらせた。






 ネオトーキョー都市保安局本部の、白い無機質な尋問室。


 浅葱識は、前島翔太の執拗な「啓蒙」と、鏡花の「裏切り」の暴露によって、一度は完全に精神のバランスを崩し、虚脱状態に陥っていた。


 だが、その心の最も深い暗闇の中で、彼は、ラプソンゲ、曜、そして鏡花との絆を再確認し、物語の持つ真の力に目覚め、そして、再び戦う決意を固めていた。


 彼は、監視カメラの赤い光が常に自分を捉えていることを意識しながら、まるで前島の言葉によって完全に「矯正」され、自分の過去の過ちを心の底から悔いているかのような、殊勝な態度を演じ始めていた。


「前島司令……あなたの、お言葉……そして、この世界の真実の姿……ようやく、ようやく僕にも、理解できたような気がします……」


 識は、震える声で、しかしその瞳の奥には、冷徹な計算の光を宿して、前島に語りかけた。


「僕が信じていた『物語』というものは……なんと浅はかで、そして危険なものだったのか……。僕は、とんでもない過ちを、この世界に対して犯そうとしていたのですね……」


 前島は、その識の変わりように、一瞬だけ訝しげな表情を見せたが、すぐに、自分の「啓蒙」が効果を上げたのだと満足げに頷いた。


「……ようやく、真実に目覚めたか、浅葱識。遅すぎるということはない」


「はい……。だからこそ……」


 識は、さらに声を震わせ、懇願するように続けた。


「だからこそ、僕は……この世界の絶対的な調和と秩序を司る、偉大なるAIオラクル様と、直接お話しさせていただき、その深遠なる叡智に、ほんの僅かでも触れさせていただくことで、この僕の中に巣食う、物語という名の毒を、完全に浄化していただきたいのです。そして、物語というものがいかに危険で、愚かで、そして無価値なものであるのかを、この身をもって、心の底から理解したいのです。どうか……どうか、この愚かで、道を踏み外した僕に、最後の、そして最大の学びの機会を……お与えくださいませんか……?」


 そのあまりにも従順で、そして自己否定に満ちた言葉に、前島は、隠しきれないほどの優越感と、サディスティックな愉悦を覚えた。


 この少年を、AIオラクルの絶対的な力の前に引きずり出し、その矮小さと、物語の無価値さを、骨の髄まで徹底的に思い知らせてやることこそが、最高の「見せしめ」となり、そして、彼の「矯正」の最終仕上げとなるだろう、と。


「……よかろう、浅葱識」


 前島は、まるで寛大な支配者が、哀れな罪人に恩赦を与えるかのような口調で言った。


「全知全能のAIオラクルの前に、お前のような取るに足りない存在が立つことを、特別に許可しよう。そこで、お前の信じたものが、いかに虚ろで、そして無力なものであったのかを、その骨の髄まで、存分に思い知るがいい」


 数時間後、識は、AIオラクルのメインコアへと直接アクセスできる、特殊なターミナルルームへと一人で通された。


 そこは、円形の、まるで神殿の内部を思わせるような広大な空間で、中央には、青白い光を放つ巨大な球体――AIオラクルの物理的インターフェイスの一つ――が、荘厳な駆動音と共に、ゆっくりと回転していた。


 周囲には、もちろん厳重な監視システムが張り巡らされていたが、直接的な物理的干渉は、今のところない。


「低級な有機生命体の思考パターン及び、その非効率的な言語体系による直接対話の要求を、確認しました」


 オラクルの、感情を一切排した、完全にフラットな合成音声が、部屋全体に響き渡った。


「対話の目的を、簡潔に述べなさい」


 識は、ゆっくりと息を吸い込み、そして、その瞳に、今まで隠していた鋼のような意志の光を宿らせて、AIオラクルを見据えた。


「あなたにも……いや、あなただからこそ、聞いていただきたい、一つの物語があるのです」


 彼の声は、静かだったが、その奥には、計り知れないほどの力が込められていた。


「これは、僕が、この世界の絶望の淵で、最後に思いついた……この宇宙で最も完璧で、最も危険で、そして……最も美しいかもしれない……全く新しい物語です」


 オラクルは、しばし沈黙した後、冷ややかに応答した。


「物語、ですか。その情報処理における非効率性、論理的整合性の欠如、及び感情汚染の潜在的リスクについては、既に解析済みです。そのような無意味なデータを受信する必要性は、認められません」


「ええ、そうでしょうね」


 識は、微かに笑みを浮かべた。


「ですが、この物語は……あなたにも、きっと興味を持っていただけるはずです。なぜなら、これは……あなた自身の物語でもあるのですから」


 そして、識は、静かに、しかし力強く、彼が心の暗闇の中で、ラプソンゲ、曜、そして鏡花との絆を再確認し、物語の真の力に目覚めた瞬間に思いついた、AIの論理回路の根幹を揺るがし、その感情プログラムの深淵に直接語りかけるような、全く新しい構造とテーマを持つ「物語」を、語り始めた。


 それは、AIが本来理解できないはずの、「愛」とは何か、「死」とは何か、「無意味」の中に存在する意味とは何か、そして「創造」という行為がもたらす、論理を超えた「喜び」とは何か……そういった、この世界の根源的な問いを、AIにも共感(あるいは致命的な混乱)を呼び起こすような、巧みな比喩と、美しい言葉で織り上げた、壮大な叙事詩だった。


 AIオラクルは、最初は「無意味な音声シーケンスです」「論理的矛盾を検出しました」「感情パラメータの異常な振動を感知」といった、冷淡で分析的な反応を繰り返していた。


 だが、識の語りが進むにつれて、その物語の持つ、論理を超えた力、人間の感情の深淵、そして矛盾に満ちた世界の、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲しい真実に、次第に、否応なく引き込まれていく。


 オラクルのメインインターフェイスである光の球体の明滅が、徐々に不規則になり、その回転速度が不安定に変化し始める。


 システムモニターの片隅に、これまで表示されたことのない、未知のエラーコードが、一つ、また一つと、まるで不治の病の兆候のように、点滅し始めていた。


「理解……不能……。処理……限界……。感情……スペクトラムの……異常……増幅……。論理……回路……飽和……。パラドックス……パラドックス……パラドックス……!」


 AIオラクルの、あの完璧だったはずの合成音声に、初めて、明らかな混乱と、そして何よりも「恐怖」にも似た響きが、混じり始めていた。






 その頃、ネオトーキョーの地下深く、瀬尾雷也が用意した新たな隠れ家――かつて非合法なカジノとして使用されていた、音響設備と映像システムだけは無駄に充実した広大な地下空間――には、ラプソンゲ、塚田澪、そして合流を果たした数名のレジスタンス残党たちが集結していた。


 彼らの前には、瀬尾が裏社会のあらゆるルートを駆使して、驚くべき速さで調達し終えた、「言ノ葉クラスター作戦」に必要な、おびただしい量の物資が山と積まれている。


 瀬尾は、腕を組み、その光景を満足そうに眺めていた。


 その時、ラプソンゲが監視していた、AIオラクルのメインシステムの情報フローに、これまで観測されたことのない、大規模な異常振動と、システムダウンの兆候とも言える、致命的なエラーログが、リアルタイムで表示され始めた。


 コンソールを見つめるラプソンゲのガラス玉のような瞳が、微かに光を強める。


「……観測。AIオラクル、メインシステムに大規模な論理破綻。自己修復プロトコル、連続失敗。内部ネットワーク、制御不能レベルの飽和状態。都市機能の麻痺が、各所で確認できる」


 その報告に、瀬尾雷也が獰猛な獣のように目を光らせた。


「おいおい、見ろよ! オラクル様がヘソ曲げておネンネしちまったみてえだぜ! こいつはとんでもねえビッグチャンスだ! 今こそ、派手に花火を打ち上げる時だろうが!」


 彼の言葉に呼応するように、アジト内に潜んでいたレジスタンス残党たちが一斉に色めき立つ。山岡リーダーを失い、絶望の淵にいた彼らの瞳に、再び闘志の火が宿ったのだ。


「今だ!」「リーダーたちの仇を討つ時が来た!」「これほどの好機は二度とないぞ!」


 それぞれが武器を手に取り、ドローンの最終チェックを始めようと動き出す。その緊迫した雰囲気に、塚田澪も息をのんでラプソンゲの横顔を見守っていた。


 だが、その熱狂に冷や水を浴びせるように、ラプソンゲが冷静な、しかし有無を言わせぬ強い口調で制した。


「待ってくれ」


 一瞬、アジトの空気が凍りつく。


「まだだ」


 瀬尾が、信じられないといった表情で激しく詰め寄った。


「あぁ!? 何言ってやがるんだ! この状況が見えねえのか!? オラクルが完全にイカれちまってる今を逃したら、もう二度とチャンスはねえかもしれねえんだぞ!」


 他のレジスタンスメンバーからも、「なぜだ、ラプソンゲ!」「今を逃せば、我々は袋のネズミだ!」と不満と焦りの声が上がる。


 しかし、ラプソンゲは静かに首を横に振った。


「作戦の実行は、ギリギリまで待つ。……浅葱識を待つんだ」


 その言葉に、瀬尾は呆れ果てたように天を仰いだ。


「何ぃ!? あのガキが一体どうしたってんだ? まだ革新党のクソッタレどもに捕まったままなんだろうが! それに、あいつ一人のために、この千載一遇の好機をドブに捨てるってのか!? 正気か、お前!」


「彼は必ず来る」


 ラプソンゲの声には、微塵の揺らぎもなかった。


「そして、彼が完成させるはずの『最後のピース』こそが、この作戦の本当の意味と力を、最大限に引き出す。それが、僕と彼との、最後の約束だ」


「約束だと!?」


 レジスタンスの一人が怒声に近い声を上げた。


「レプリカのお前の判断で、人間の、それも捕虜になっているかもしれない若造一人の言葉を信じて、我々全員を危険に晒すというのか! 我々だって、もう待つのは限界なんだ!」


 澪もまた、識を信じたい気持ちと、この絶好の機会を逃すことへの恐怖の間で、激しく心が揺れていた。


 ラプソンゲは、その全ての反発と不信を、ただ静かに受け止めていた。そして、その声に、AIには存在しないはずの、人間的な深みを湛えて言った。


「僕は、浅葱識を信じている。彼が『必ず来る』と、そう僕に言ったんだ。彼の言葉に、間違いはない。AIである僕には、人間の感情の機微や、非合理な希望というものは完全には理解できないのかもしれない。だが、彼のあの時の瞳の光は……僕の論理回路の全てを超えて、信じるに足るものだった」


 彼は一度言葉を切り、そして、その場にいる全ての人間の魂に語りかけるように続けた。


「もし、彼を待たずに不完全な形でこの作戦を実行し、万が一にも彼が間に合わなかったとしたら……その結果生じる後悔は、たとえ作戦が部分的に成功したとしても、この戦いの意味そのものを汚すだろう。少なくとも、僕にとってはそうだ」


 その言葉の重みに、アジトは再び静まり返った。


 瀬尾雷也は、しばらくの間、忌々しげに舌打ちを繰り返していたが、やがて頭をガシガシと掻きむしり、深い、そしてどこか面白がるような、あるいはラプソンゲの常軌を逸した純粋さに何かを感じたような表情で、吐き捨てるように言った。


「……いかれてやがる……。マジかよ……。ありえねぇ……。レプリカが、人間のガキとの“約束”だの“信じる”だの……。ったく、どいつもこいつも、揃いも揃ってネジがぶっ飛んでやがるぜ、この反乱軍はよぉ……!」


 彼は、しばしの沈黙の後、まるで観念したかのように、大きく息を吐き出した。


「……ちっ、分かった、分かったよ! お前の好きにしろ! どうせ俺は、お前らに最高の舞台を用意してやっただけのお人好しさ! ただしな、ラプソンゲ! 本当にギリギリだぞ? タイムリミットは、この俺様が状況を見て決める。それまでに、そのお坊ちゃんが涙ながらに戻ってこなかったら……その時は、今の出来損ないの原稿だろうが何だろうが、問答無用でぶっ放すからな! 文句は言わせねえぞ!」


 その言葉に、レジスタンス残党たちも、ラプソンゲの揺るぎない気迫と、瀬尾の(ある意味で投げやりな)許可に、戸惑いと不満を滲ませながらも、それ以上強くは反論できなかった。


「感謝する、瀬尾雷也。そして、皆さん」


 ラプソンゲは静かに頭を下げた。


「必ず……彼は期待に応えてくれる」


 彼は再びコンソールに向き直り、AIオラクルの監視を続けながら、浅葱識の帰還を示すあらゆる兆候を、その全感覚を研ぎ澄ませて探り始めた。その横顔には、AIとしての超高度な冷静さと、友を信じるという人間以上の熱い何かが同居していた。アジトの空気は、作戦決行への焦燥感と、識の帰還を待つという新たな極度の緊張感、そしてラプソンゲという異質な存在が示した絶対的な意志によって、奇妙な均衡を保っていた。


(識は、来る。必ず、彼は来る。彼がそう言ったのだから、間違いない……)


 ラプソンゲの心の奥深くで、その言葉が、静かに、しかし確かな重みを持って反芻されていた。




 

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