第11話
ラプソンゲの言葉は、浅葱識の心に重い楔のように打ち込まれていた。
唯一の友人に拒絶された痛みと、自分の生み出す物語が持つかもしれない「危険性」への漠然とした恐怖。
花江鏡花が用意してくれた隠れ家で、識は原稿用紙を前にしながらも、ペンを握る手が以前のようにスムーズには動かせなくなっていた。
彼の頭の中では、ラプソンゲの苦渋に満ちた表情と、「もう書くのはやめた方がいい」という言葉が、何度も何度も反響していた。
それでも、心の奥底では、まだ物語への渇望が消えずに燻り続けている。
そんな葛藤の中で数日が過ぎた、ある日の午後だった。
隠れ家の古びた防音扉が、ほとんど音もなく、しかし確かな気配と共に、ゆっくりと開いた。
識は、書きかけの原稿から顔を上げ、息をのんだ。
そこに立っていたのは、花江鏡花ではなかった。
一瞬、澪にでも隠れ家か見つかったのかと思ったが、違う。
同じ高校の制服に身を包んでいるが、識には全く見覚えのない少女だった。
ふんわりとした灰色の髪、意志の強そうな真っ直ぐな瞳、そしてどこか警戒心を滲ませた、引き締まった表情。
彼女は、まるで訓練された野生動物のように、音もなく部屋の中へと滑り込み、その鋭い視線で室内を素早く観察した。
識は、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
見つかった。
誰だ? なぜこの場所が? 革新党の手の者か? それとも……。
恐怖で声も出せず、ただ硬直する識を、その少女は一瞥しただけで、すぐに部屋の中の異様な状況――散らばる原稿用紙、数本のペン、そして壁に貼られた識の物語のメモやアイデアスケッチ――に気づいたようだった。
少女の視線が、机の上に置かれていた、識がまさに今書き進めていた原稿の束に注がれた。
その瞳が、危険な光を帯びて細められる。
「これは……何?」
低く、しかし有無を言わせぬ響きを持った声だった。
識は、心臓が喉から飛び出しそうになるのを必死で堪えた。
もう、終わりだ。
密告される。全てが白日の下に晒され、自分は社会から抹殺される。
鏡花先輩にも、ラプソンゲにも、そして母さんにも、取り返しのつかない迷惑をかけてしまう……。
絶望感が、冷たい鉄の爪のように彼の心を鷲掴みにした。
「あ……あの……これは……その……」
しどろもどろに何か言い訳をしようとするが、言葉は意味をなさず、ただ空しく彼の口からこぼれ落ちるだけだった。
少女――は、識の狼狽ぶりを意にも介さず、机の上の原稿用紙を無言で手に取った。
そして、そこに書かれた識の物語を、食い入るような真剣な眼差しで読み始めた。
識は、ただ呆然と、その光景を見つめるしかなかった。
時間が、まるで凝固したかのように感じられる。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
曜は、顔を上げることなく、夢中になって識の物語を読み進めている。
彼女の厳しい表情が、徐々にではあるが、変化していくのを識は見た。
最初は警戒と疑惑に満ちていた瞳が、やがて驚きの色を浮かべ、そして次第に、まるで渇いた大地が雨を吸い込むかのように、物語の世界に引き込まれていくのが分かった。
彼女の指が、原稿の端を強く握りしめている。
そして、彼女が最後のページを読み終えた時、深い、長い溜息が彼女の口から漏れた。
それは、絶望の溜息ではなかった。
むしろ、何か強烈なものに心を揺さぶられた後の、魂の震えのようなものだった。
曜は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、先ほどまでの鋭さを失い、代わりに、深い感動と、そしてどこか羨望にも似た複雑な光を宿していた。
「これ……あなたが、全部……書いたの……?」
その声は、掠れていた。
識は無言で頷いた。
「……すごい……。AIが作ったものとは、全然違う……。なんだか……この物語、息をしているみたい……。登場人物たちが、すぐそこで、本当に生きているみたいに……」
彼女は、原稿用紙を胸に抱きしめるようにして言った。
そして、彼女は意を決したように、識の目を真っ直ぐに見つめ、自分の心の奥底に長年秘めてきたであろう、切実な想いを打ち明けた。
「……実は、私……絵を描いてるの。紙が手に入らないから、たまになんだけどね。本当はもっと描きたいんだけど……。ずっと、ずっと昔から、頭の中に、たくさんの風景や、キャラクターのイメージが溢れてくるのに……それを形にすることが、この世界では……許されないから……」
彼女の声には、抑えきれないほどの創造への渇望と、それが叶わないことへの深い悲しみ、そして憤りが滲んでいた。
その瞳の奥で、ずっと閉じ込められていた情熱の炎が、今まさに燃え上がろうとしていた。
識は、曜のその予期せぬ告白に、言葉を失っていた。
衝撃だった。
自分と同じように「創造したい」という、この世界では禁忌とされる願いを、こんなにも強く、こんなにも切実に抱えている人間が、こんなにも近くにいたという事実に。
彼女の瞳の奥に燃える炎は、識自身の心の奥底で燻り続けていた炎と、まるで鏡合わせのように共鳴し合っているように感じられた。
二人の間に、言葉にはできない、しかし確かな共感が生まれた。
彼らは、この息苦しいネオトーキョーで、同じ秘密を抱え、同じものに焦がれる、孤独な「同志」だったのだ。
ラプソンゲの言葉で一度は萎えかけた識の心に、新たな、そして力強い希望の光が差し込んできた。
曜は、識の物語の原稿を、もう一度愛おしそうに見つめ、そして、決意に満ちた声で言った。
「あなたの物語……もしよかったら、私に、絵をつけさせてくれないかな……?」
彼女の瞳は、真剣そのものだった。
「あなたの言葉と、私の絵が一緒になったら……きっと、もっとたくさんの人に、何かを伝えられる気がするの。この、AIが生み出す偽物の物語では決して伝えられない、本物の何かを……!」
識は、曜のその真っ直ぐな眼差しと、彼女の言葉に込められた熱い魂に、強く心を打たれた。
自分の「言ノ葉」が、彼女の「絵」という翼を得て、この灰色の世界に飛び立っていく。
その光景を想像しただけで、胸が高鳴った。
「……はい」
識は、力強く頷いた。
彼の声にもまた、新たな決意が宿っていた。
「私の名前は鷺宮曜」
「僕は浅葱識です。ぜひ……お願いします、鷺宮さん。」
「……曜でいいわ。よろしくね、識くん」
鷺宮曜は、初めて少女らしい、はにかんだような笑顔を見せた。
それは、ネオンの光よりもずっと温かく、そして美しい笑顔だった。
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