十、
シャワールームの扉を開けると、それなりに広い脱衣所が広がっていた。中を見るのは初めてだが、見覚えがある気がしてしまうのは、よくある造りだからだろうか。
「……靴、脱がないとね」
橘さんがぽつりと呟く。
ひとまず血で汚れた上履きを脱いで扉の隅に揃えた。一歩踏み込むと、床は樹脂製のタイルで足裏がひやりとする。脱衣所の中は意外と静かで、換気扇のうなるような低い音だけが聞こえていた。
──がたっ。
音がして振り返ると、橘さんが扉に手を付いてふらふらとよろめいていた。まだ上履きを履いたままで、足を庇うように体重を片脚にかけている。捻った足が痛むのだろう、靴を脱ぐのにも苦労しているようだ。
「待って。手伝うよ」
慌てて戻り、しゃがんで橘さんの前に膝をつく。
「……ごめん」
小さな声が、うつむいたままの橘さんの唇から零れた。
橘さんの右足に手を添え、そっと踵を引いて上履きを脱がせる。くるぶしまでの靴下から伝わってくる熱。次いで左足。少し浮かせてもらいながら靴を脱がせた瞬間、視界に細く白い太腿が飛び込んできた。
目を逸らさねばと思いながら、一瞬、太腿の白さに目が留まった。
うわっ、と思いながら、慌てて視線を逸らす。そんなつもりはなかったのに、見てしまったという罪悪感から橘さんの顔が見れない。
「ありがと……ほんとに」
橘さんは気付いていないようで、僕の手を支えにしてそっと立ち上がった。そのまま手を引き、脱衣所の中へ。
棚にはきちんと畳まれたタオルや緊急時用の洗面具、数本の折り畳み式ドライヤーも置かれていた。これなら髪を洗っても平気そうだ。
「じゃあ……」
気まずさを隠すように、軽く言って脱衣所を出ようとしたその瞬間──
「……待って」
小さな呟きとともに、背後からそっと腕を引かれた。振り向くと、橘さんがほんのわずかに袖を掴んでいた。
「……怖いから、中にいて」
その目は真剣そのもので、一人にされる不安からなのだろう、瞳が揺れていた。ただそう言われても、さすがにこのまま居座るのはためらわれる。
「脱衣所の……前にいるからさ。それじゃ、ダメ?」
諭すようにそう返すと、橘さんはしばらく目を伏せていた。
「うん……」
ようやく返ってきた返事は、どこか煮え切らないもの。
どう、応じればいいのか逡巡していると、「……絶対、近くにいてね」と橘さんが呟いた。
その言葉に頷いて扉を閉め、閉めた扉に背を預ける。冷たい金属製の扉が、少しだけ心地いい。滑らかな床に体を預けるように座り込み、膝を立てて呼吸を整えた。
──すっ。
静かな室内に、かすかな衣擦れの音が混じる。服を脱いでいくその生々しい音が、耳の奥を刺激した。次いで聞こえてきたのは、シャワールームの扉を開け、勢いよく吹き出す水の音。いくつもの水滴が橘さんの体に当たり、排水溝へと流れていく。
見ているわけでもないのに、鼓動が早まる。温かい水に晒されている橘さんの体を、想像してしまった。あの細い肩を、濡れた髪を──いや、考えるな。今はそういう場面じゃない。
「今はってなんだよ……」
少し前まで橘さんのことを嫌いだと断じていたくせに、その裸を想像しているなんてどうかしてる。
「まあでも……」
橘さんは僕が思っているような子ではなかったのだろうなと思う。長谷川さんが、智也が怖くて、ただ流されるように、怯えるように、日々を過ごしていたのかもしれない。
そもそも僕は、人の本質が見抜けないのだろう。橘さんに対しても、智也に対しても、そうして綾香に対しても、だ。
まったく、気付けなかった。特に智也の裏切りや、綾香に恨まれているかもしれないことなんて、これっぽっちも考えたことはなかった。
いや、そもそも僕は鈍感過ぎないか? 頻繁に弁当に虫を入れられて? 同性からの性的ないじめを受けて? よく綾香と一緒にいた僕が気付かないなんてあるか?
普通そこまでのことをしたら、加害者側からも、もっと悪意のようなものを感じないか? 確かに裏ではこそこそと陰口を言っていた。だが表ではにこにこと──
ぞわりと、悪寒が走る。思い出されたみんなの笑顔が作り物のようで、怖い。その笑顔に、狂気的な何かを感じてしまった。
「あー、もやもやする」
また、独り言を呟いてしまう。橘さんにも指摘されたが、この癖は直りそうにない。
ふぅと息を吐き、なんとなく視線を向けた保健室の隅、ホワイトボードが置かれているのが見えた。キャスター付きのそれは、移動できるようになっている。
何となく──ほんの衝動的に、少し分かっていることをまとめてみようかな、そんな考えが浮かんだ。
……が、その前に確かめたいこともある。
ゆっくり立ち上がり、埃を払うようにぱんぱんとズボンをはたく。橘さんには「近くにいて」と言われた。けれど気になって仕方のないことがある。職員室の前から逃げた二人。綾香に追われ、聞こえてきた絶命の声はそう遠くなかった。おそらく殺されたのは、一年生の教室方面。
「ごめんね、橘さん……」
そう呟きながら保健室を後にし、シャワーの音が背後で薄れていく。
職員室を通り過ぎ、目の前には玄関と右手に渡り廊下。渡り廊下の先は左に折れ、図書室や視聴覚室、音楽準備室などがある別棟だ。ひとまずそのまま玄関を通り過ぎる。なんとなく視線を向けた玄関の外は、相変わらず壁のような霧が揺らいでいた。
「よし、」
辿り着いた一年一組。扉をそっと開け、中を覗く。
──いない。と言っても扉は閉まっていたので、なんとなくいないだろうなとは思っていた。残りは二組と三組。
二組に視線を向けると、扉が開いていた。
「いた……」
おそるおそる覗いた教室の中央、綺麗に折り重なるようにして、血溜まりの中に二人の人影が倒れていた。仰向けの男子の上に、抱き合うようにして重なる女子。
桜井さんは水泳部で、夏のように明るい笑顔が印象的な活発な子。
──小麦色に焼けた肌っていいよな!
そう誰かが言っていたのを思い出す。
慧はゲーム好きで、ことあるごとにスマホを見せびらかしていた。
──見ろよ直央! SSRだ!
嬉しそうに画面を突き出してきた慧の顔が、ついさっきのことのように思い起こされる。
もう二度と見ることのできない、二人の笑顔。
ただ不思議と目の前に広がる惨劇を見ても、心は落ち着いていた。
「……どうしちゃったんだよ、僕は、」
どんどんと冷えていく心。その心の中に、橘さんの顔が浮かぶ。守らなきゃ──
そう、思った。
「……ん?」
教室を後にしようとしたところで、二人の体の横に、丸められた布が落ちていることに気付いた。
近付いて拾い上げたそれは、女性ものの下着。思わず「え?」と声を漏らし、しばらく固まってしまう。状況的に、これは桜井さんのものだろう。けれど、誰が? 綾香がわざわざ? いやいやそんな馬鹿な。殺した相手の下着を脱がす怨霊なんて、滑稽すぎる。となれば慧が? いやいや綾香に追われている最中に? となれば──
誰か、が?
そう考えた瞬間、体が震えた。
少し前、悠馬の不気味な笑い声を聞かなかったか? 保健室で寝てしまった際、悠馬の声で目を覚まさなかったか? それにこの──
教室内に震える視線を這わせると、不自然な血の跡。まるで二人の死体をわざわざ引きずり、ここで重ねたような。
「ごめん、桜井さん」
……どうか、違っていてくれ。そう願いながら、桜井さんのスカートに手をかける。本当はこんなこと、するべきではない。それでも……、確認しなければ。 いや、だからといって桜井さんの尊厳を踏みにじるような真似を──
……それでも、もし……もし本当に悠馬が──
僕の中で、抵抗と疑念が何度もせめぎ合う。けれど浮かんだ最悪な考えを、放置するなんてできなかった。
「嘘、だろ……」
めくったスカートの中、やはり、履いていない。
そのうえ──
白濁とした液が、溢れている。
僕の中で、何かが音もなく崩れた。無感情へと堕ちていた僕の心でも、その悍ましい行いに震える。なんだか吐き、そうだ。
そんな中、桜井さんの下で息絶えている慧と目が合う。その瞬間、恐ろしい考えが浮かんでふらりと後ずさった。
悠馬、は、わざわざ慧を桜井さんの下に置いたのではないだろうか。命の光を失った慧の目を見つめながら、桜井さんの死体でそういった行為を──
「うえぇ……、げほ、げほ……」
たまらず、吐いた。
そんな、そんなこと──
人間が、することではない。
──やっぱりインバースデイだよ! インバースデイと同じなんだよこれ!
狂ってしまう前、悠馬が言っていた言葉を思い出す。誕生日の中、生まれた悪魔を描いた映画。その状況と一緒、だと。
生まれた悪魔は、綾香だけではなかった。
悠馬もまた、悪魔として生まれたのだ。
耐えられない恐怖に負け、悪魔へと堕ちたのだ。
人は誰しもが、悪魔になる素質を持っているのかもしれない。恐怖がその引き金になるだけ。
そうしてどんどんと心が冷えていく僕も、いずれ悪魔に──
「はは、」
自然と乾いた笑い声が漏れていた。この状況も、変わっていく自分も──
怖い。
けれどなぜだか笑ってしまう。もう僕は、手遅れなのだろうか。人の心を失い──
「橘、さん、」
橘さんに会いたい。そう、思った。
保健室へ戻ると、シャワーの音はまだ続いていた。
耳を澄ますと、それに混じって橘さんの泣く声が。その声に、脱衣所の扉を開けようとしていた手を引っこめる。これを、ここを開けたら、本当に僕は戻ってこられなくなる。大丈夫、まだ僕は大丈夫だ。そう言い聞かせ、保健室の隅からキャスター付きのホワイトボードをそっと引いてくる。それを脱衣所の目の前で、音を立てぬように止めた。
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