八、
……どれくらいの時間が経っただろうか。綾香が霧の向こうへ消えていったあとも、僕たちはすぐには動けなかった。橘さんは机の下で小さく縮こまり、か細い肩を抱えて震えている。職員室の中にはまだ血の臭いが漂っていたし、何よりも恐怖が体を縛っていた。
呆然としながらも、もう一度窓の外を見る。綾香の姿はどこにもなく、白い霧だけが壁のように揺らめいていた。
「……橘さん、大丈夫?」
そう声をかけて机の下を覗くと、橘さんはぼんやりとした目で僕を見上げた。しばらくの沈黙のあと、「うん……」と呟いたその視線は、濡れた僕のズボンに向く。
「……ごめんね」
橘さんはきゅっとスカートを抑え、羞恥に耐えるようにしてもう一度、「ごめん」と声を落とした。
「ううん、大丈夫。そんなの、今は気にしなくていいよ」
そう伝えても、橘さんの顔は歪んだまま。「汚いよね」、「漏らすとか最低だよ、私」と、その声はどんどんと沈んでいく。
どう声をかければいいか分からず、僕の口から出たのは「……着替え、よっか」という言葉。その問いかけに「うん……」と答えた橘さんだったが、その目はどこか宙を泳いでいた。
「保健室、たしかシャワールームあったよね」
「うん……」
スカートの端を掴む橘さんの指が、少しだけ強く震える。
「着替えも、サイズがあるかは分からないけど、緊急用にジャージがあったはず」
「うん……」
「行こ、橘さん」
橘さんの前にしゃがみ、背中を向ける。足を怪我している橘さんに、無理はさせられない。
「でも私、汚──」
「実は僕も、少し漏らしたんだ。言わなくて、ごめん」
口をついて出た下手な棒読みの嘘に、呆れるように小さくかぶりを振る。こんな時、気の利いたセリフなんて思い浮かんではくれない。
「……嘘つき」
そう聞こえた気がした瞬間、背中に重みが乗る。
「……重く、ない?」
「うん。意外に力はある方だからさ」
「なんか少し前も、同じ会話しなかった?」
「うん、した気がする」
「もしかしてループしてる? 私たち」
「いやいや、どっちかって言うと、デジャブじゃない?」
「そっか」
「そうそう」
取り留めのない会話。
何が起きたかも、誰が死んだかも、なぜこんなことになったのかも、今は──考えたくなかった。
背中に伝わる橘さんの体温だけが現実で、それ以外は何も、感じたくない。
「じゃあ、行こっか」
視界の端には羽田さんの死体が横たわっているが、見ないように、踏まないように、ゆっくりと歩く。続く異常な出来事で心が麻痺でもしているのだろうか、クラスメイトの死体の横を無感情に通り抜けるなんて、どうかしている。
羽田さんが助けを求めるように歩いた軌跡、その血痕が点々と保健室まで続く。あの中には、隼や高梨さんの死体があるはずだ。それを、橘さんに見せるわけにはいかない。
「……ちょっと見てくるね」
静かに橘さんを下ろし、声をかける。
きゅっと、橘さんの手が僕の腕を掴んだ。ふるふると震え、泣きそうな目が向けられる。
「……一人は、怖いよね。でも、橘さんは見ない方がいいと思うからさ。……話しながらなら、平気?」
「……うん」
開け放たれた扉の先に進むと、血と脂の鼻を突く匂いが襲ってきた。生ぬるく、甘ったるく、喉の奥を焼くような匂い。肺が縮こまり、膝がふらつく。
ひどい……。
まず、変わり果てた姿の隼が目に入る。片腕が引き千切れ、胴体は……、腰から上と下に裂けていた。その断面には骨と内臓が覗き、赤黒い血が壁にまで飛び散っている。
見ない方がいいと思うからさ──と格好をつけたくせに、吐きそう、だ。
高梨さんは、隼よりも酷かった。四肢がそれぞれ引き千切られ、あちこちに転がっている。まるで人形の手足を外し、戯れに放り投げたように転がるそれ。何より酷いのが──
顔の皮膚が、剥がされていた。
胃から迫り上がるものをなんとか堪え、扉越しに橘さんに声をかける。
「……そんなに酷くないけど。見えないようにしておくから、ちょっとだけ待っててね」
震える手で彼らの体をひとつずつ、一ヶ所に集めていく。
重い。
血が滲む制服。
ばらばらの手足。
かつての声が、笑顔が、失われたそれらも重く心にのしかかる。
僕は、おかしくなってしまったのだろうか。淡々とクラスメイトだったはずの肉塊を集め──
心が、冷たくなっていく。このままこの作業を続けていたら、本当におかしくなってしまう。
「……覚えてる?」
気付けば扉の向こう、橘さんに声をかけていた。
「覚えてるって……、何を?」
「ああいや、昔さ、橘さんともよく遊んだよね」
「うん……小学校くらいまでは、一緒に遊んでた」
「そうそう。中学入ってから、急に遊ばなくなったよね。……なんでだったのかな。僕、なんか嫌われるようなこと、しちゃってた?」
「……それは」
橘さんの声が、一瞬止まった。
「あれ、もしかして本当に嫌われるようなこと、しちゃってた? 綾香にも、いつの間にか恨まれてたみたいだしさ。僕、人の気持ちが分かんないのかなぁ。はは……」
いまだに綾香に恨まれていたなんて、実感がない。なんで、なんで、綾香は。いったい僕は、何を。
「……違う、よ」
小さな声が、扉の外から返ってくる。
「違う?」
「うん。私が坂崎君と距離置いたのは……坂崎君が好きなの、綾香だって気付いたから……」
「……え?」
思考が、一瞬止まった。
「それってどういう……」
その問いかけに橘さんが答えることはなく、しばらくの静かな時間が訪れる。
黙々と、隼と高梨さんだったものを集めていく。その作業がもうすぐ終わりそうな頃、橘さんがやけに静かなことに気付いた。
「……橘さん?」
反応がない。
「橘、さん?」
もう一度呼びかけるが、返事がない。
ぞわりと、嫌な汗が背中を伝う。綾香は霧の向こうへ消えた。歌も聞こえなかった。だけど、だけど──
「橘さん!」
弾かれたように駆け出して、保健室の外へ飛び出す。
そんな焦る僕を後目に、橘さんは壁にもたれかかるようにして眠っていた。極度の恐怖と疲労で意識を手放したのだろう。かすかに上下する胸元と聞こえる寝息が、しっかりと生きていることを伝えていた。
「よかっ、たぁ……」
一気に体から力が抜けた僕は、その場にへたり込んでしまう。そうして気付けば、橘さんの手を静かに握っていた。
「よし、」
気絶したように眠る橘さんを、そっと抱えるようにして持ち上げた。そのまま保健室のベッドへと運び、静かに下ろす。血痕は幸いにもベッドまで届いておらず、清潔な白を保っていた。ただ、入口の方は酷い状態だ。
目を覚ましたときに橘さんが怯えないよう、少しでも惨劇の跡を薄めたい。そう思った僕は、保健室を抜け出して職員室へ向かった。
目指すのは荷物運搬用の台車。確か掃除用具入れの脇に、あの青い折りたたみ式の台車があったはずだ。
それを持ち出し、再び保健室へと戻る。中は先ほどと変わらぬ景色で、血と脂の匂いがまだ充満していた。
隼と高梨さんの亡骸を、ゆっくりと台車に載せていく。ぐしゃりと、何かが潰れる感触。
何してるんだ、僕は──
自分でも、なんでこんなことをしているのか分からなかった。橘さんのため、彼女を守りたい、少しでも穏やかに目を覚ましてほしい。
けれどそれ以上に僕は、「作業」としてこれを片付けようとしていた。目的を明確に定め、感情を切り離し、ただの掃除や整理のように淡々と──
心の奥、何かが明確に変わった気がする。僕が、僕でなくなっていくような、そんな感覚。じわりと体の奥底から何かが這い出るような、何かが生まれてしまいそうな──
それでも、手は止まらなかった。止める理由が、思い浮かばなかった。これは、これは橘さんのために必要なことだから。そうやって橘さんのことを言い訳にして、自分の心の均衡を保とうとしていた。そんな自分が、気持ち悪い。
台車に積み終えた死体を、職員室まで押していく。
開け放たれた職員室のドアを抜け、誰もいない部屋に滑り込む。荷物置き場の隅に、そっと台車を押し込んだ。
次は──血痕だ。
保健室に戻り、備品棚からバケツと雑巾を取り出す。消毒用アルコールもある。業務用の強いものだ。匂いがきついが、汚れは落ちやすい。
アルコールでも落ちきらない床の汚れは、手近な洗剤や、床用クリーナーも見つけて使った。脱脂綿やタオル、使えそうなものはすべて使い、ただ黙々と汚れを落としていく。
保健室の入口──隼が倒れていたあたりは特に酷く、赤黒い染みがこびりついていた。壁も、床も、念入りに擦る。手の届かない天井は、玄関の隅に置かれていた大きめの脚立を使った。
──とりあえず、見えなければいい。
脚立の上からベッドに目をやると、橘さんはまだ眠っていた。その穏やかな寝顔に、冷えた心が温かくなる。とにかく橘さんが起きるまでに、作業を終わらせなければ。その一心で、僕は動き続けていた。変わりゆく心の変化から、必死に目を逸らすように。
僕は、僕は、おかしくなってなんか、いない。
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