六、
橘さんに腕を引かれるまま走り、廊下の突き当たりを右に曲がる。そのまま階下へと続く階段を駆け下りるが、勢い余って踊り場でつまずいてしまった。転がるようにして壁に体を打ち付け、あまりの痛みに一瞬、意識が飛ぶ。
「うぅ……」
足首を捻ったのか、橘さんが痛そうに足首をさする。
「ごめん、橘さん。僕のせいで……」
「ううん。ちょっと捻っただけだから大丈──痛っ!」
立ち上がろうとした橘さんが、その場に蹲る。よくよく見れば、足首が赤黒く腫れていた。こんなすぐに変色するなんて、ただの捻挫ではない気がする。
「ごめん、痛くて歩けそうにない……」
「なら……」
蹲る橘さんの前にしゃがみ、背中に乗るように促す。僕も壁にぶつかりはしたが、それでもどこか骨や筋をやった感覚はない。鈍い痛みは残るが、おぶって歩くくらいはなんとかできそうだ。
「……重く、ない?」
背中に橘さんの重みが乗る。ふるふると震える指先の熱が、僕の肩に伝わった。
「うん。意外に力はある方だからさ」
橘さんをおぶりながら、手すりを掴んでゆっくり階段を下る。小柄な橘さんは思いのほか軽く、それほど負荷にならない。
「綾香……、だったね」
呟くような橘さんの声は、消え入りそうに震えていた。
「……本当に、綾香……なのか?」
焼け爛れた姿の綾香を見た。焦げたたんぱく質の匂いを嗅いだ。それでも──
やはり、信じたくない自分がいる。
「……違う。あれが綾香だなんて……違う……違うって……」
そう呟いてみても、僕の目が、耳が、頭が、あれは綾香だったと、そう言っている。追いついていないのは、心だけ。
「……坂崎君が信じたくないのは分かるよ。でも、あれは綾香だった」
「僕は綾香を……、いじめたことなんて、ない……」
「それは、私もそう信じてる。でも、でもね、坂崎君。綾香はどっちにしてもみんなを殺す──つもりなんだと思う。そうじゃないとこの状況、説明できないよ」
「それ、は……」
伊吹さんが、殺された。この目でしっかりと、見た。
「……坂崎君がなんでここにいるのかは私も疑問だけど、それでもここにいるなら、殺される」
──ゆるさ、ない。おまえだけ、は、ゆる、さない。さいご、まで、くるし、め。
そう、綾香は言っていた。やはり僕は自覚がないだけで、綾香に恨まれるようなことをしたのだろうか。そんな、そんなこと──
橘さんを背負ったまま、手すりにすがりながら慎重に階段を降りていく。心臓はまだ激しく脈打っていたが、不思議と疲れはない。今は背中の重みすらも、自分のもののように感じていた。
「ふぅ……」
なんとか一階へと降りきる。
左に行けば一年生の教室。右へ行けば、玄関を通り過ぎた突き当たりに保健室と職員室が並ぶ。その手前には左側に渡り廊下。渡り廊下の先は、突き当たりで左に伸びるように、図書室や視聴覚室、音楽準備室などがある別棟だ。
この山園分校はコの字型の校舎。この構造を頭に浮かべながら、迷わず右へ進んだ。
「……まずは足をなんとかしよう。保健室に応急処置の道具があるはずだからさ」
「うん。ありがとね、坂崎君」
背中越しに伝わる橘さんの震えが、まだ現実を信じきれない気持ちを物語っていた。
「嘘だろ……」
保健室の前に辿り着いて扉に手をかけると、鍵がかかっていた。何度も力を込めるが、動かない。
ただ、中からはしゃくりあげるような泣き声が聞こえていた。
「誰かいるのか? 僕だ、坂崎だ! 橘さんが怪我してる。お願いだ、開けてくれ!」
しばらくの沈黙ののち、扉の内側で何か動く音がした。
「……坂崎君? ほんとに、坂崎君なの?」
「ああ、僕だよ。お願い、橘さんの足が……」
「待って! 開けちゃダメだ!」
この声は、
「俺は直央を信じてない!」
「は? 何言ってるんだよ隼!」
「だっておかしいだろ! この学校に閉じ込められたのは全員、妻神をいじめたことがあるやつだ! なんで、なんでお前がいるんだよ!」
思いがけない隼の言葉に、面食らってしまう。何を、何を隼は言いたいのだろうか。
「お前が! お前が妻神の仲間じゃないってどうやって証明するんだよ! もしかして今のこの状況も、お前がやってるかもしれないだろ! 妻神の怨霊と協力して! みんなを閉じ込めて!」
再び「は?」と声が漏れてしまう。隼は何を言っているんだろうか。僕が? みんなを閉じ込めた? ……そんなこと、どうやって?
「そんなわけ、あるわけない……! 僕は襲われたんだぞ!」
「わかんねぇだろ! 何がどうなってるのか……こんなのおかしいんだよ、全部……! ってだからやめろよ高梨!」
高梨さんは、それでも鍵を開けようとしていた。そういう子だった覚えがある。見て見ぬふりのできない、本当は優しい性格。綾香のいじめに関与していたなんて、考えたくもない。
「手ぇ離せ!」
「開けさせてよ!」
鍵をめぐってもみ合う二人。壁にぶつかる鈍い音とともに、「もうやめてぇ……」とすすり泣く声が混じる。このか細い声は、
いや、羽田さんのことだ、泣きながらいじめに参加させられたのだろう。
かぁーごめぇ かぁごぉーめぇ……
「……ッ!?」
背中の上で橘さんが震える。苦しいくらいに僕の体に腕を絡ませ、「……来た」と小さく呟いた。空気の張り詰める音が、きぃんと響いた気がしてしまう。
階段を一歩一歩、ゆっくりと降りてくる綾香の歌声。そのひとつひとつが、地の底から響くような重みを持っていた。
このままでは、鉢合わせてしまう。
僕は踵を返し、橘さんを背負ったまま職員室の扉に手をかけた。幸い職員室の扉は開いていた。中へ転がるように入り、すぐさま扉を閉める。
「……坂崎君……あの歌……」
ひとまず床に座らせた橘さんが、消え入りそうな吐息で呟いた。
「わかってる……来てる……」
職員室の奥に身を潜め、息を殺して耳を澄ませる。
かーごのなぁーかの とぉりぃーはぁ……
廊下の向こうから確実に、こちらへと近付く歌声。
かごめかごめの歌は、綾香がただ好きだからと歌っていたもの、だ。それだけのはずなのに、意味を持たぬはずのわらべうたが呪文のように響く。冷えた指先で背中をなぞるように、歌詞が体に刻まれる。
僕たちは籠の中の鳥、だ。
いーつ いーつ でぇーやぁーるぅ……
ぴたりと、歌が止まった。
息をするのも忘れ、全神経を廊下に集中させる。一秒だろうか、それとも二秒だろうか、一瞬のはずの時間が永遠にも感じられて生きた心地がしない。それと同時、ある疑念が渦巻く。鍵を、閉めただろうかと。
扉は閉めたが、鍵、は──
閉めて、いない。
……みんな、どこにいるのかなァァ?
綾香の、声。焦げついた喉を絞るような、声。それでいて、どこか女の子らしい甘い響きも宿している。
その声が、職員室のすぐ前から、こちらに向かって。今さら鍵なんて、閉めに行けるわけがない。
喉元まででかかった悲鳴を手で抑え、橘さんを見る。橘さんも手で口を抑えているのだが、隙間からひっ、ひっ、と過呼吸のように声が漏れ、今にも叫び出してしまいそうな雰囲気だ。
「坂崎……くん?」
どうしてそんな行動をしたのか──橘さんを抱き寄せ、静かに背中をさすった。
「静かに……」
橘さんの震えが少し和らぎ、僕の体に腕を回して「うん……」と短く応じた。お互いの胸が押し付けられ、破裂しそうな心臓の鼓動が重なる。その温かな体温が恐怖に凍った体を溶かすようで、僕も橘さんを抱きしめる腕に力がこもった。
……明確な重さを感じてしまうような沈黙。窒息しそうな時間が流れ。いつの間にか綾香の歌声は止んでいた。声も、足音も、しない。さっきまでの存在が幻だったかのように、あたりには静寂が戻っていた。
橘さんは僕の腕の中で微かに震えながら、ぎゅっと唇を噛んでいる。僕もまた息を押し殺し、何かが動く音を待っていた。
まとわりつくような死の恐怖の中、時間だけが異様に長く流れていく。
……やり過ごせた、のか?
少しずつ、肩の力が抜けていく。水の底から這い上がるように、固まった肺に意識を向けて息を整える。橘さんを見ると、小さく頷いた。このまま黙っていてもどうしようもない。
……頼むからいなくなっててくれよ。
確認するために立ち上がろうとしたその瞬間──
「──泣くなって言ってるだろっ!」
ドンッ、と壁を殴るような音とともに、隼の怒鳴り声が響いた。
息が止まる。
……みぃつけたァ。
ひときわ甘く、粘つくような綾香の声が響いた。囁くような声なのに、はっきりと、耳元で。
かくれんぼを楽しんでいるかのような嬉々とした響きが、逆に恐ろしい。
かぁーごめぇ かぁごぉーめぇ……
かーごのなぁーかの とぉりぃーはぁ……
また、あのわらべうたが始まった。
歌いながら、綾香が保健室の方へと歩いていく足音が響く。ぺたぺたと、ひとつ、ふたつ、慎重に、ゆっくりと。保健室は廊下の突き当たり。外に出られない今は、逃げ場なんてない。
いーつ いーつ でぇーやぁーるぅ……
「お前が泣いたせいだろ!」
「違うよ、川尻君が叫んだからだよ!」
「っ……ひっ……く、うっ……うぇぇ……、いやぁだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
羽田さんの泣き声の中、隼と高梨さんの言い争う声。
よぉーあーけぇーの ばんにぃ……
廊下を進む綾香の歌声が、保健室へと近付く。その声は愉しげで、明確な悪意のようなものを感じてぞっとする。橘さんががたがたと震え始めたので、そっと抱き寄せた。
つぅーると かぁーめが すぅべったぁ……
声が、保健室の前で止まった。一瞬、しん、と静まり返る。保健室の中で硬直している三人の姿が、目に浮かぶ。
うしろの しょぉーめぇん だぁぁぁーれぇ……?
直後、ガタガタッと保健室の扉が揺れた。綾香が、開けようとしているのだ。
「あぁぁぁぁぁぁっ! いやっ! やっ! やぁぁだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「羽田、泣き止めって! 鍵は? 鍵! かかってるよな!」
「お願いだから入ってこないで! 来ないでぇええ!」
三人の悲鳴と泣き声が一斉に噴き出す。もはや会話ですらなく、ただ恐怖に呑み込まれていく声の波。
……かぎ、かかってるゥ?
綾香の声が、尋ねるように響いた。
それに続くように、囁くような言葉が重なる。
……むだ、だよゥ?
かちゃん──。
軽い金属音とともに、保健室の鍵が、開いた。
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