第5話


 アルベルが魂の叫びを上げてから、数週間が過ぎた。

 季節は、容赦なく冬へと向かっていた。王城の窓から見える木々は最後の葉を落とし、空は鉛色に淀んでいる。

 アルベルの病状は、誰の目にも末期であることが明らかだった。彼はもう、ほとんどの時間を眠って過ごし、意識がはっきりしている時間は、日に日に短くなっていた。


 その日も、サシャは、いつものように彼の枕元で、静かに歴史書を読み聞かせていた。もはや、アルベルがその内容を理解していないことを知りながらも、彼女はそうすることが自分の務めだと信じていた。彼の好きだった、彼女の声で、部屋を満たすこと。それが、今の彼女にできる、唯一のことだった。

 ふと、アルベルが薄く目を開け、か細い声で彼女の名を呼んだ。


「……サシャ」


 サシャは即座に本を閉じ、彼の手を握る。アルベルは、途切れ途切れに、しかしはっきりと告げた。


「君の……読む声が、好きだった……。ありがとう」


 その言葉に、サシャの喉が詰まる。彼女は、こみ上げる感情を押し殺し、「そう……。なら、もっと読んであげるわね」と、声を震わせながらも、毅然と本を読み続けた。その声が、涙で途切れることはなかった。


 夕刻、ゴードンが見舞いに来た。彼は、アルベルの痩せ細り、骨張った手を、自身の大きな手で包み込むように握る。その手は、驚くほど冷たかった。

 アルベルは、ゴードンの顔を認識しているのかいないのか、ただ虚ろに天井を見つめている。ゴードンは、そんな相棒に、ぶっきらぼうに、しかし、震える声で語りかけた。


「……向こうで、俺たちが旅の途中で失くした仲間たちによ。俺も、そっちに行ったら、また一緒に飲もうぜ、相棒」


 それは、来世での再会を誓う、彼らなりの約束だった。

 アルベルは言葉を発せず、ただ、ゴードンの手を、微かに、本当に微かに握り返した。それが、彼の最後の返事となった。


 

 


 その日の深夜。窓の外では、冷たい冬の雨が降りしきっていた。

 アルベルの呼吸が、次第に浅く、間隔が長くなっていく。部屋には、そのか細い呼吸音と、窓を打つ雨音だけが響いている。

 サシャはその手を握りしめ、ゴードンはベッドの脇に仁王立ちしたまま、ただじっとその顔を見つめていた。二人は、一睡もせずに、その瞬間を待っていた。

 長い、長い沈黙の後、アルベルの呼吸が、また一つ、途切れるように紡がれる。

 その瞳が、最期にもう一度だけ、薄く開かれた。その瞳は、もう二人を映してはいない。遠いどこかを見つめているようだった。

 彼の唇が、微かに動く。


「……ありがと……」


 そして、まるで安堵したかのように、ふっと長く、最後の息を吐き出した。

 次の息が、永遠に続かない。

 部屋に、完全な沈黙が訪れた。雨音だけが、世界の終わりを告げるように、響き続けている。その沈黙こそが、「死」の訪れを、何よりも雄弁に物語っていた。

 サシャは、アルベルの手が完全に冷たくなったのを確認すると、その場に崩れ落ち、初めて声を上げて泣いた。論理も、理性も、全てが意味をなさない、ただの少女の泣き声だった。

 ゴードンは、固く握りしめた拳が、怒りか悲しみか、わなわなと震えている。彼は、壁に手をつき、声を殺して嗚咽した。英雄の、あまりにも静かな最期だった。


 

 


 夜が明け、サシャは泣きはらした目を隠すように、深くフードを被ってアルベルの部屋を出た。

 彼女は、悲しみに浸る間もなく、王の側近である侍従長の元へ向かう。そして、「勇者アルベルが、今朝未明、逝去されました」と、冷静に、事務的に報告した。

 侍従長から型通りの悔やみの言葉と、国葬の段取りに関する話を聞き、彼女はただ、無感情に頷く。全てを終え、一人自室に戻った時、彼女はアルベルが読みかけだった本を手に取り、そのページに顔を埋め、再び、声なく涙を流した。

 一方、ゴードンは、アルベルが息を引き取った部屋に、じっとしていられなかった。彼は夜明けと共に城の訓練場へ向かい、そこに置かれた一番重い訓練用の剣を手に取る。

 彼は、打ち込み用の丸太に向かい、ただ無心に、剣を振り続けた。技も、型も、何もない。ただ、悲しみと、怒りと、友を救えなかった無力な自分自身への憤りを叩きつけるような、破壊的な剣戟。

 数時間後、丸太を粉々に砕き、疲労の限界に達した彼は、冷たい雨に打たれながら、天に向かって、獣のような、長い咆哮を上げた。


 

 


 勇者の死は、国中に報じられた。国葬が盛大に執り行われ、彼の功績を讃える演説を老王自らが読み上げた。

 

「……その勇気は永遠に語り継がれ、我々の心に生き続けるであろう……」

 

 会葬者の最前列で、サシャとゴードンはその言葉を虚ろな心で聞いていた。彼らが知っているアルベルは、国を救った偉大な英雄であると同時に、最後は一人で起き上がることもできず、死を怖がった、ただ一人の友人だったからだ。

 彼の亡骸は清められ、王家の谷に手厚く葬られた。そして、王都の中央広場には、聖剣を天に掲げる、若々しく勇ましい姿のアルベルの記念碑が建てられた。

 除幕され、現れたのは、理想化された輝かしい英雄の石像。民衆から、大きな歓声が上がる。

 その輝かしい姿と、彼らが看取った、衰弱しきった最期の姿とのギャップが、二人の胸を静かに締め付けていた。

 

 

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