第5話

「お早う、フルール」

「お早うございます。エ、ド、ワ、ー、ド、様」


 フルールは、噛み締めるようにエドワードの名を呼んだ。いつまで呼べるかわからないのだ。大切に呼ぼう。

 来週の今頃は、いや、もしかしたら明日には呼べなくなるかもしれない。そんな刹那的なことを考えて、思わずくぅっと俯いてしまった。


 そんなフルールには気がつかないエドワードに手を添えられて、馬車に乗り込んだ。後からエドワードも乗って扉が閉まる。馬車がゆっくり進みだしたところで窓の向こうに父の姿が見えた。

 通学するのに、父がエントランスまで見送りするなんてこれまで無かった。多分昨夜の話でフルールを心配しているのだろうと思った。

 ごめんなさい、お父様。モテない娘を持ったばかりに、こんな苦労を背負わせて。心の中で父に詫びた。


「なんだか元気がないね」


 向いの席に座るエドワードが言う。

 そう言われれば朝の挨拶をしたきり、何も話していなかった。思えば二人の会話とは、大抵フルールから話していた。


「気の所為ですわ」


 真逆、昨日の貴方とキャロライナ嬢を目撃したのだとは言えない。

 婚約者なら、言ったとして間違いではないのだろう。エドワードとの婚約は貴族の決め事なのだから、浮気や不実を正したとしてフルールに恥ずべきことは何もない。

 けれど、それはフルールを酷く惨めな気持ちにさせることだった。エドワードの心を繋ぎ止められなかったことの悪足掻きにも思えた。


 最後まで潔くありたい。それがフルールらしいのだと、一晩中考えて決めたのである。何も言うまいと。


 軽快な蹄と馬車の車輪が立てる音。窓から見える風景は昨日と何一つ変わらない。

 変わってしまったのは、エドワードの心と彼の心変わりに気づいてしまった自分自身だ。


「フルール」


 エドワードに名を呼ばれて振り向いた。気づかぬうちに外の景色を見るばかりで、エドワードから意識が外れていたらしい。

 頭の中はエドワードのことでいっぱいなのに、目の前のエドワードを忘れてしまうなんて。本末転倒甚だしい。

 こんなことだから、エドワードは華やかなキャロライナ嬢に心を惹かれてしまったのだろう。


「今日は一緒に帰ろう」


 エドワードはそう言って、蒼い瞳でフルールを見た。帰りの馬車でエドワードは、フルールに何を言おうとしているのだろう。

 愈々以いよいよもって二人の婚約解消を願い出るつもりなのか。


 そんなの御免だわ。いつか聞かなきゃ駄目なんでしょうけれど、今はまだ聞きたくない。


「ごめんなさい。今日は用事があるの」


 フルールの口から飛び出したのは、お断りの言葉だった。絶対一緒に帰らない。二人っきりになったなら、きっと婚約解消を告げられる。

 フルールは往生際が悪いと百も承知しながら、ギリギリまで逃げることにした。


 逃げて逃げて逃げ出してやる。時間稼ぎにしかならなくっても構わない。この際だから、うんと困らせてやろう。どうせ振られちゃうんだ、それくらい許してね。


 それからフルールは再び窓の外に視線を逸らした。エドワードの目を見ることが怖くなった。

 だから、エドワードがどんな顔をしていたかなんて、そんなことにも、ちっとも気がつかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る