第3話 依頼の理由

 初めて佐伯京子の名前を見たとき、真帆は「記憶違いかもしれない」と思いたかった。


 けれど、ファイルを開いた瞬間に、そうではないと理解した。


 端末の画面に映る女性の写真は、長めのウェーブがかかった黒髪、着物のような白のブラウスに落ち着いた口紅。きちんとした、上品な中年女性の姿だった。


 だが、その目だ。


 カメラ越しにもわかる。この人は、自分の中に“死者”を飼っている。


 


 佐伯京子。45歳。

 港区在住。資産家の家系に育ち、私立大学の哲学科を卒業。元教師。

 五年前、当時中学生だった娘が“無差別少年事件”の犠牲になり、全てを失った。


 夫とは事件の後に離婚。メディアからも離れ、現在は「心的外傷ケア研究」の支援をしていると記録されている。


 


「……ほんとうに、この人が、響を?」


 真帆はデータパッドを閉じたまま、佐伯の申請理由を見直した。


 


「心のなかにずっと残っている子がいる。

私はあの子の名前を知らない。

顔も、声も、どこにも残っていない。

でも――似ている子がいる。

その子が、自分から“役に立ちたい”と言った。

だから私は、この気持ちを、選びたい。」


 


 冷たいわけではない。残虐でもない。むしろ、文章は理知的で、静かだった。

 だからこそ、恐ろしかった。


 加害者の記録が封じられたこの国で、“似た少年”を選んだ女がいる。

 それは、死者の面影を他人に投影するという、極めて個人的で、暴力的な希望だった。


 


 真帆は席を立った。

 このまま申請を進めるわけにはいかない。


 会わなければならない――佐伯京子に、直接。


 


***


 


 港区・白金。平日の午後にもかかわらず、高層タワーマンションのロビーは静かで冷えきっていた。


 コンシェルジュに名前を告げると、驚くほどスムーズに部屋へ案内された。


「お通しします」


 扉が開くと、そこに立っていたのは、まるで舞台から抜け出したかのような女性だった。


 


「ようこそ。わざわざご足労いただいて、恐縮です」


 佐伯京子。


 その声は、柔らかかった。

 だが、挨拶のあとの“間”が、真帆には読めた。


 ――人をよく観察している人間の沈黙だった。


 


 部屋の中は、整然としていた。派手なものは何もない。アロマの香りと、ほんの微かに漂う薬品の匂い。

 窓辺には枯れかけた胡蝶蘭が一鉢。棚の上には、白木の写真立て――中の写真は伏せられている。


 


 「こちら、申請の件で伺いました。代理人に指定されている“岸本響”くんについて――少し確認を」


 京子は微笑んだ。


「ええ、彼のこと、知ってます。正確には……“見つけた”って言った方が正しいのかもしれませんね」


「見つけた?」


「SNSです。あの子の投稿、動画。……表情が、似ていたの。5年前の、あの子に」


「……“あの子”とは、事件の加害者ですか?」


 真帆の問いに、京子は笑わなかった。


 


「ええ。私は、あの子の名前を一度も知らないまま、娘を失ったんです。

 どこかで生きて、名前も変えて、今も“別人”として存在しているんでしょう。

 でも、私にとっては、“終わっていない”んです。あの日からずっと」


 その声は、穏やかだった。

 怒りも、悲しみも含んでいなかった。ただ――決して許していないと、そういう温度があった。


 


「だから、私はこう思ったんです。もしも神様が、もう一度“あの子”を私の前に差し出したのなら……

 “今度こそ、私がその人生を終わらせる番だ”って」


 


 真帆は、その言葉の意味をすぐに理解できなかった。


 目の前の女は、微笑んでいた。

 だが、その笑みの裏にあるものは、明確だった。


 


 ――これは、死による“追悼”ではない。

 ――これは、“儀式的な殺人”だ。

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