第28話
空間が軋む。
塗り潰された“原始の絵画”の上空から、深い裂け目が現れ、じわじわと亀裂が広がってゆく。色を持たぬ黒が世界を呑み込み、あらゆるものの輪郭をぼやけさせていく。
崩壊が始まった。
彩りを失った世界は音を吸い込み、時の流れまでもが鈍っていくようだった。
ルリは呆然と、空へと引き裂かれる空間を見上げていた。
胸の奥が、ぎゅう、と握り潰されるように痛い。
絵が――壊れてゆく。
世界が、終わる。
だが、その静寂を、ただ一つの足音が破った。それは、硬い石床を打ち鳴らす、迷いなき軍靴の音だった。
駆け入った男が、血の気の引いたルリの名を呼んだ。
「ルリ――!!」
ジークフリートだった。
次の瞬間、彼の腕がルリを抱きしめていた。
荒い呼吸、振動する鼓動。
それらすべてが現実だと、ルリに訴えてくる。
ルリの震えた手が、彼の背に回る。
ようやく――この腕の中に戻ってこれた。
どんな理屈も不要だった。ただ、その存在が、こんなにも温かい。
「……来てくださったんですね……!」
ジークフリートは答えず、ただぎゅっと強く、腕に力を込めた。その震える腕に、彼がどれほどの焦燥と怒りを抱えていたかが、ルリにも伝わってくるようだった。
しかしその刹那、絵画の方角から、どさり、と何かが崩れる音がした。
二人が顔を上げると、そこには倒れたアウレリウスの姿があった。
口元から、真紅の血が静かに流れている。
「なぜ……」
ルリが声を上げようとするよりも先に、彼は微かに笑った。
「……これが……代償だ……」
かすれた声。それでも、どこか満ち足りていた。
「“原始の絵画”は……絵画魔術を持たぬ者が触れてはならぬ……。無理やり色を足せば……当然、命を持って……釣り合いを取られる……」
ジークフリートの眉が険しくなる。
「お前……それをわかっていて……」
「ふふ……あなたの“鳥”が……羽ばたく様を……どうしても見たかった……。私にはできなかった……でも、ルリなら……この朽ちた世界を、もっと美しいものに……」
ルリは震えた。
この人は狂っていた。誰よりも歪んでいた。
それでも、確かに、自分の絵を――誰よりも欲していた。
アウレリウスは、ルリをまっすぐに見つめた。
その目に、狂気と献身が同居していた。
「……君が、この絵に手を加える時……その筆の一振りにも、命が差し出さなくてはならない。覚悟しなさい……それでも、色を灯すのなら……」
言葉はそこで途切れた。
衣服の袖が、血に染まる。
息を吸う音も、吐く音も止み、彼は二度と動かなかった。
ジークフリートは唇を噛みしめながら、ルリを強く抱き寄せた。
この腕の中で、彼と共にいられる安堵と、アウレリウスの言葉が突きつけた厳しい現実。その両方が、ルリの胸の奥で渦巻いていた。
彼女は、静かに目を閉じた。
「……私に、できることは……」
彼のぬくもりの中で、ルリは強く決意した。
今度は、私が世界を、そして彼を守る番だと。
「……やめろ、ルリ。これ以上は……」
彼の目が、原始の絵画に向けられていた。そこには、黒が滲み、世界の秩序が崩れていく様が描かれていた。
「私が……塗り直さなきゃ……」
ルリは絵に向き直ろうとした。しかし、その腕をジークフリートが掴んだ。
「駄目だ!」
ルリはゆっくりと彼の顔を見た。
その瞳には、世界の滅びではなく、彼女の死を恐れる色が宿っていた。
「ルリを失うくらいなら……俺は、世界の終わりを受け入れる方がまだマシだ!」
強い言葉だった。しかし、それはただの激情ではない。
何よりもルリを想う彼の“選択”だった。
それを、ルリは、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ優しい微笑みで受け止めた。
その笑みに、ジークフリートの心が張り裂けそうになる。
「……ありがとうございます。でも、私は……」
ルリは、そっと彼の腕を解く。
そして、懐から彼がくれたブローチを取り出す。
それは、彼の優しさそのものであり、何度も嵐を乗り越えてきたルリの心の灯だった。
ブローチにそっと手を添え、ルリは言う。
「私は……あなたのいる世界を、守りたいです」
ジークフリートの瞳が揺れた。
その想いの強さに、どうしても引き留められなかった。
ルリは静かに、筆を取った。
原始の絵に向き直り、震える指先に、彼への想いと、世界を救う使命を込める。
そして、最初の一筆を、祈りのように落とす。
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