第11話
マチルダの礼法指導は、午前の陽射しとともに始まり、午後の遅い時間まで続いていた。
貴族としての身のこなし、言葉遣い、そして扇の角度一つまで、その全てがルリにとっては未知の作法だった。
一つ覚えるたび、また新たな戸惑いが押し寄せ、懸命に身を預けても、どこか自分の体ではないようなぎこちなさを感じていた。
ダンスの基本も一通り終えたころ、マチルダは時計に目をやると小さくうなずいた。
「ルリ、今日はこれでひと区切りにしましょう。お茶を用意させるから、その間に少し体を休めるといいわ」
ルリは丁寧にお辞儀をし、扉の向こうに消えていくマチルダの後ろ姿を見送った。
だが、胸の内は落ち着かなかった。動きにぎこちなさが残るステップの感触が、足先にまとわりついて離れない。
再び音楽が鳴り出す。
ホールの片隅に置かれた蓄音機から、緩やかな舞踏曲が流れている。
ルリは鏡の前に立ち、小さく息を吸って、ゆっくりとステップを踏み始めた。姿勢、目線、足さばき――すべてがまだ未熟で、それがわかってしまうからこそ、練習せずにはいられなかった。
「もう一度……ワルツの一歩目だけでも」
誰に向けるでもなく呟きながら、ルリは再び床を滑るように足を動かす。ステップは覚えたはずなのに、心のどこかに残る不安が、足取りを曖昧にする。
そのとき、扉が静かに開く音がした。
振り返ることもなく、足元に意識を集中していたルリの耳に、低く、穏やかな声が響く。
「……熱心だな」
ルリがはっとして振り向くと、そこにはジークフリートが立っていた。
軍服のまま、姿勢はいつも通り凛としている。けれどその目元には、ごく僅かに和らいだ色が宿っていた。
「ジークフリート閣下……!」
慌てて会釈しながらも、ルリの胸がふいに高鳴る。
彼の存在だけで、空気が少しだけ澄んでいくような気がした。
「上皇との謁見の帰りに、従女から聞いた。君がここで一人で練習していると」
「はい……あの、もう少しだけ動きを確認しておきたくて……」
俯いたまま答えると、ジークフリートはほんの少しだけ息を吐き、そして右手を差し出した。
「確認してみるか? 俺でよければ、相手になる」
その言葉に、ルリは目を丸くした。
胸の奥がそっと跳ねる。
けれど彼女は、差し出された手を見つめ、ゆっくりと、けれどはっきりと頷いた。
「……お願いします」
手と手が触れ合う瞬間。ひんやりとした指先に、心の奥で静かに波紋が広がる。
蓄音機から流れる音楽に合わせ、二人はステップを踏み始めた。
ジークフリートのリードは、まるで水が流れるように自然で、一切の迷いがなかった。彼の掌が、ルリの腰にそっと添えられる。
その柔らかな圧力に、ルリの身体は迷うことなく、彼の動きに吸い寄せられるように追従した。
力強く、けれど決して押しつけがましくはない。彼の体幹が、確かな道を指し示すように彼女を導いていく。
緊張と不安のなかにあったルリの身体は、いつの間にかふわりと軽くなっていた。まるで彼の一部になったかのように、滑らかに、澱みなく動く。
「……少しは落ち着いたか?」
低く響いた声が、どこか優しかった。
「はい……でも、やっぱりまだ少しだけ、緊張してます」
「その程度なら、十分だ。君はよくやっている」
静かな褒め言葉が、胸の奥にじんわりと染みてくる。
ふとルリは、彼の横顔を見つめていた。
くっきりとした鼻梁に、薄く引かれた唇の輪郭。窓の光がその頬をかすめ、淡く縁取る。
それは、まるで誰かが丁寧に描いた肖像画のようだった。けれど、絵の中の彼は決して人にはこんな表情を見せない。
今、この瞬間だけの、たったひとつの表情だった。
ルリの胸に、淡く熱いものがそっと灯った。
そして、迎えた当日――。
王都は朝焼けに染まり、祝祭の華やぎに包まれていた。
石畳には花弁が敷き詰められ、沿道の民衆は肩を寄せ合いながら王城を見上げている。
塔に掲げられた無数の旗が風を孕み、遠く鐘の音が高らかに響いていた。
離宮の一室で、ルリは鏡越しに自分の姿を見つめていた。
纏っているのは、深い瑠璃色のドレス。
マチルダが「あなたの内に秘めた熱と、この国の歴史の色よ」と微笑んで選んでくれたその布地は、光の加減によって赤みを帯びたり紫がかったりする。
落ち着きと華やかさを兼ね備え、透けるような肌と淡い栗色の髪を際立たせていた。
胸元と裾に繊細な銀糸の刺繍が施され、首元には一粒のサファイアが揺れていた。その澄んだ青が、不思議と高鳴るルリの心を鎮めてくれるようだった。
「さすが、よく似合っているわね」
扉を開けて現れたマチルダが、やわらかな声でそう言った。
ルリは立ち上がり、少し照れたように微笑む。
「ありがとうございます、マチルダ様。でも……少しだけ、緊張しています」
「ええ、無理もないわ。今日の会場は王城の大広間。国中の目が集まる場所ですもの」
マチルダはドレスの裾を軽く整えながら、何気ない調子で続けた。
「けれど安心して。あなたのエスコートは、ジークフリートにお願いしてあるの」
「えっ……?」
ルリの心臓が一瞬、跳ねた。
胸元のサファイアがかすかに揺れ、その震えは彼女の内側にも広がっていく。
前夜の記憶がふいに蘇り、息が少しだけ詰まる。けれど、ルリは気を引き締め、顔を上げた。
その瞬間、控えの間の扉がノックされた。
入ってきたのは、軍服姿のジークフリートだった。
「ルリ、支度は整ったか?」
その低く落ち着いた声に、ルリは一歩進み、小さく頷いた。
「……はい」
ジークフリートの視線が、ルリの全身を静かに辿った。
だがそれは無遠慮なものではなく、あくまで一瞬の沈黙にすぎなかった。
けれど、ほんのわずかに――ほんのわずかに、彼の呼吸が浅くなったのをルリは感じ取った。
灰色の瞳に、わずかな光が揺れ、唇の端が、ごく僅かに、言葉にもならない感情を宿した。
それが驚きか、それとも、ほんの少しでも、私が彼にとって特別な存在になった証なのだろうか。 ルリは確かめることはできなかったが、その視線の柔らかさが、胸の奥にふっと温もりを灯した。
「それじゃあ、私はこれで。上皇陛下と会場で合流する予定だから、あなたたちは先に向かってちょうだいな」
マチルダが微笑み、ルリの背に軽く手を添える。
「行ってらっしゃい、ルリ」
「……はい」
ジークフリートがルリに向き直り、短く声をかける。
「行こう」
その声は平静を装っていたが、どこかしら輪郭がやわらいでいた。
ルリはその背を追いながら、そっと胸に手を当てた。
心臓が静かに、しかし確かに鼓動を刻んでいる。
今日から、自分はただの絵描きではない。この国の未来を彩るために、前を向く。
離宮の扉が静かに開き、絢爛たる光が、並び立つ二人の姿を、まるで祝典の絵画に描かれた一対のように、鮮やかに照らし出した。
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