丘の上の画家は灰色の伯爵に恋をする

未人(みと)

第1話

 すでに傾き始めた午後の光が、庭園のやわらかい白砂を、どこか力なく、鈍く照らしていた。

 長く伸びた青銀の鱗を持つ彩風花さいふうかの影が、風に揺れて細かく崩れる。

 午後の光を受けて、花弁は時に深みのある藍色あいいろ、時に鮮やかな藤色ふじいろに表情を変え、硬質な輝きを放ち、微かに鉄のような、しかしどこか甘やかな匂いをあたりに撒いていた。


 王宮の奥。

 かつて政の中枢であった離れの一室には、今や玉座を退いた男と、その妹である一人の貴婦人だけがいた。

 銀のティースプーンが、陶器の器を静かに打ち鳴らす。

 テーブルの上には、小さな額縁に収められた一枚の絵。

 初老の男──上皇カレルは、それを見つめたまま静かに息をついた。


「……絵筆とは、戦よりもよほど恐ろしいものかもしれんな。扱いを誤れば、心の奥まで覗かれてしまう」


 隣に座る婦人が頷いた。黒を基調とした衣と、薄紫のスカーフがその気品を際立たせる。


 マチルダ・フォン・グレイア──この国の元王女にして、カレルの妹。すでに未亡人となって久しく、その姿には歳月の重みと穏やかな静けさが滲んでいた。


「偶然、保護した子なのです。でも、ルリには……人の“静寂”をそのまま絵に映す、不思議な力があります」


 彼女はそう言って、窓の外の庭に一瞬だけ視線を投げた。


「……あの子の描いた風景を、亡きあの人にも見せたかった。芸術を愛した夫なら、きっと黙って見入り、そして泣いたでしょう」

「そうか……」


 カレルは低く呟き、カップを皿に戻す。

 そのまま目を細め、ゆるやかに視線を遠くへと滑らせる。

 かつて剣を掲げて進んだ戦場、語られぬまま消えた者たちの影。思い出は、すぐそこにあるようでいて、手の届かぬ遠さだった。


「ジークフリートの肖像も、その娘に描かせてみたらどうだろう」

「……彼女に、ですか?」


 マチルダの声に、かすかな戸惑いがにじむ。


「兄上、あの方は──芸術を好みれません。仮に許したとしても、睨み倒されて筆が持てなくなってしまうかと」


 その言葉に、カレルは口の端をわずかに持ち上げた。


「だが、そうならんかもしれん」


 彼は微笑をたたえたまま続ける。


「己を語らぬ者にこそ、その存在を記す者が必要だ。剣が記すのは結果だが、絵筆は、その者の内を描き出す。生きた証を残すには……それもまた、ひとつの道だろう」


 彩風花の花弁が、光を受けてきらめき、微かに揺らぐ。


「マチルダ、私はもう国を導く責務を終えたが……それでも、あの戦で殉じ、記録にも残らぬ者たちの面影が、今も胸にある」


 その声は、かつて戦場に響いた号令のように、静かに、しかし確かに届く響きを持っていた。


「……承知いたしました」


 マチルダは椅子から立ち上がり、そっと庭の小径へ目を向けた。

 季節は終わりに向かい、光と風だけが、ゆっくりと場を移ろわせていく。


 足元の白砂に差し込んだ陽光が、反射して揺らめく。

 それはまるで、誰かの記憶がそっと降りてきたかのような、淡い光の粒だった。


 ふと、彼女は背を向けたまま言葉を落とす。


「──兄上は、あの娘の筆が、“記憶”を綴るに足るとお思いなのですね」

「足る、などという言葉では表せぬよ」


 カレルは椅子にもたれ、若き日を思い返すように目を細めた。

 戦と剣、忠義の盾、そして無言の友情。語らぬ者たちの思い出が、胸の内に静かに広がっていた。


「彼女の描く“静寂”は、声よりも雄弁だ。……もし、ジークフリートの姿をその筆が捉えるのならば、それはこの国の“真”を、もう一度形にすることになるだろう」


 マチルダのスカーフが、風にふわりと舞う。


「伝える者がいなければ、真実もまた、過ぎ去るだけの風となるでしょうね」


 ふたりの間に、長い沈黙が落ちた。

 ただ、砂利の軋みと彩風花の揺れる音だけが、時の経過を穏やかに告げていた。


 やがてマチルダは一礼し、ゆっくりとその場を後にした。


「──マチルダ」


 カレルの声が、扉を開けようとした彼女の背に届いた。


「……あの娘を、ここへ呼んでくれ」


 少しだけ振り向いたマチルダは、目を細めて静かに頷いた。


「はい。すぐに手配いたします」


 扉が静かに閉じられたあと、カレルは目を閉じる。胸元で手を組むその姿は、深い沈黙の中に沈んでいた。

 差し込んだ陽が背を照らし、老いた影が長く、静かに伸びていく。


 ──それは、ひとつの時代が、筆に託されようとしていることを告げる影だった。



 ◆



 王宮の応接室に通されたのは、ルリにとって初めてのことだった。

 目の前の調度品の一つひとつが、どこか現実離れしていて、まるで芝居の舞台にでも迷い込んだような錯覚を覚える。


 ──王宮の中に、自分がいるなんて。

 絵筆しか取り柄のない異邦人の自分が。


 ルリは、深く息を吸った。けれど緊張は収まらない。

 この世界に来てから、何度目になるか分からない深呼吸だった。


 彼女がこの世界に現れたのは、ほんの数年前のことだ。

 異邦の服を着たまま街のはずれに倒れていたところを、偶然通りがかったグレイア女公爵──マチルダに助けられた。

 当初、言葉もろくに通じず、日雇いの労働ですら務まらなかった。

 唯一、紙と鉛筆を与えられたときだけ、彼女の手は迷わず動いた。

 その時、ルリはかすかに感じた。

 描いた葉が風にそよぐように見え、描いた小石が微かに温もりを帯びるような、不思議な感覚を。

 彼女の描く線に、色に、魂のようなものが宿ると感じたのだ。


 マチルダは興味本位で描かせた一枚のスケッチを、言葉少なに受け取り、しばらく黙って見つめていた。

 ──あのときの沈黙を、ルリは今も忘れられない。

 やがて彼女は、マチルダから「絵画魔術」という、かつてこの国に存在した失われた技の名を教えられた。

 それは、王族の間にひっそりと伝わる古の知識だったという。

 遥か昔、絵画には人々の記憶や願い、あるいは世界そのものを形にする不思議な力があったという。

 しかし、戦の時代が訪れてからは「無用」とされ、忌み嫌われるようになり、やがてその存在すら民間伝承の一部として語られるのみとなっていた。


 だが、ルリの描いた風景には、風のざわめきがあった。

 人のいない室内画には、確かに誰かの気配があった。

 記録にも、技法書にも残されていないはずのその力を、ルリは知らぬ間に再びこの世に呼び起こしていたのだ。


 マチルダは、あの日一枚の絵を見て確信した。

 この異邦の娘は、かつて失われた“筆の魔術”を継ぐ者だと──。


 扉が、控えめな音を立てて開いた。

 ルリが反射的に振り返ると、濃紺のドレスに身を包んだ一人の女性が現れた。


 ──グレイア女公爵、マチルダ。


 その姿を見た瞬間、ルリの背筋がぴんと伸びた。

 慌てて立ち上がろうとしたが、タイミングを逃し、結局中途半端に腰を浮かせた状態で固まってしまう。


「……どうぞ、座ったままで」


 柔らかな声だった。けれど、その言葉の裏には、微かな苦笑いが滲んでいた。

 ルリは気まずそうに小さく頭を下げ、そっと椅子に腰を戻す。


 マチルダはまっすぐに歩を進め、ルリの向かいの椅子に腰を下ろした。

 その動き一つひとつに無駄がなく、気品と威厳に満ちている。


「緊張しているのかしら?」


 問いかけというより、すでに分かっている事実をなぞるような口調だった。

 ルリは思わず首をすくめる。


「……すこしだけ、です」

「ふふ。あなたが嘘をつくときは、語尾が震えるのね」


 その言葉に、ルリは目を見開いた。

 マチルダはすでに、ルリという存在を“言葉の向こう”まで見抜いているらしい。


 そして、次の言葉は──少しだけ、雰囲気を変えて。


「今日は、あなたに正式な“お願い”があって、ここに来てもらったの」


 その声音は柔らかいまま。だが、ルリは一瞬で悟る。

 それが、ただの頼みごとなどではないことを。

 言葉を継ごうとしたマチルダの視線が、ふと扉の方へと向く。

 続いて、控えめなノックの音が響いた。


「……ちょうど良いわね。お通しして」


 扉がふたたび開く。

 現れたのは、落ち着いた軍服姿の男だった。


 白を帯びた髪は後ろに撫でつけられ、顔に刻まれた皺は多いが、眼差しには曇りがない。

 鍛えられた背筋が、軍人としての歳月を物語っている。

 壮年――五十代半ばといったところか。だが、その存在には、年齢以上の重みがあった。


 男は、ルリの姿を一瞥する。


「……この者が?」


 マチルダが微笑を浮かべて頷くと、男はひと呼吸置いて歩み寄る。


「ジークフリート・フォン・グレイア。軍務に就いている者だ。……あなたが“画家”とやらか」


 “画家”の語に、かすかな棘が混じっていた。

 興味ではなく、懐疑の色――あるいは、軽侮にも近い響き。


 ルリは、名乗るべきか迷いながらも、小さく一礼した。

 相手の言葉に反応して、胸の中にぴりりとしたものが走る。だが、それが不快なのか、緊張なのか、自分でも判断がつかない。


 マチルダは、ふたりの間の空気の変化を感じ取ったかのように、さらりと口を挟んだ。


「ルリは、あくまで“絵”の仕事に携わってもらうだけです。軍の任務とは交わりませんので、ご心配なく」


 マチルダの言葉に、ジークフリートは短く頷いたきり、それ以上の反応を示さなかった。

 だが、その沈黙が、却って圧を伴って室内に滲む。


 ルリは思わず視線を伏せ、呼吸を整えるように指先に力を込めた。


「でしたら、試しに静物を描いていただけますか?」


 マチルダの穏やかな提案に、ルリは思わず顔を上げた。

 まずは“絵”そのものを見てもらう。それがこの場の落としどころなのだと悟る。


 応接室の片隅に、小さな台が運ばれてきた。

 上には、幾種かの果物と花が控えめに並べられている。

 ルリは促されるまま、台の前に歩を進め、手元の小さなキャンバスを据えた。


 筆を取る手のひらに、じんわりと汗がにじむ。

 背後に立つジークフリートの気配は、まるで無言の審判のようだった。


 筆先が、白い布の上を滑りはじめる。

 果物の丸み、花弁の柔らかさ──それらを描きながら、ルリは自身の中にある“感覚”を探っていた。

 ほんのわずかに、空気が変わった。

 見えない何かが、絵へと引き寄せられていくような気配。

 絵の中の果実と花は、実在のものよりも少しだけ光を帯びて見えた。

 ふと、応接室の空気が揺れたように感じた。

 目には見えない粒子がふわりと舞い、絵へと吸い込まれていく。

 不自然ではない。けれど、異質だった。

 この国でほとんど忘れられた技──絵に“何か”を宿すという在り方。

 かつて絵画魔術と呼ばれたものは、軍事国家として歩みを進める中で軽んじられ、姿を消した。

 今ではほとんど残されていない。描かれたものの多くは燃やされ、過去と共に葬られている。

 それでも、ルリが今、描いているものは──

 確かに“動いて”いた。命のように、そこにあった。

 だが、それは一瞬のことだった。


 突如、花弁の縁がしぼみ、果物の輪郭に黒ずみが現れ始める。

 彩度が失われていく。

 絵の中の世界が、どこかで何かに触れ、冷たい空気が肌を這うように感じた。

 そして、微かに鼻腔をくすぐる、錆びた鉄のような匂い。

 キャンパスが鮮血を流すかのように、見る見るうちに傷つき朽ち果てていく。


 ルリは思わず息を呑んだ。

 こんなことは、今まで一度もなかった。何が起きているのか理解できず、震える手で筆を止める。

まるで彼の静かな怒りが、部屋の空気を重くしているかのように。

 応接室の奥で、ジークフリートが低く息を吐くのが聞こえた。その吐息には、明確な嫌悪が混じっていた。


「──これが、描かせたいというものですか?」


 問いではない。

 確認でもない。

 ただ、拒絶がそこにあった。


 マチルダは何も言わず、ルリの方を静かに見つめていた。

 その眼差しに責める色はなかった。むしろ、何かを見極めようとする冷静さがあった。

 ルリは、絵を見つめたまま、言葉を探していた。

 けれど、口から出てくるものはなかった。

 ただ──絵の中の果物と花が、今もなお、音もなく朽ちていくのを見つめていた。


 

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