第二十幕 三方ヶ原に奔る風

武田本陣


「御屋形様、三方ヶ原に着きましてございます」


「そうか、徳川の物見共はどうして居る?」


「こちらを目を皿のようにしているそうです」


「そうか、では穴山隊を先鋒にして祝田の坂を下ろうぞ、そして物見が動いたら……」


「承知いたしました。手配いたしましょう」


 信玄に対して恭しく頭を下げる山縣昌景であった。



「申し上げます! 武田軍先鋒部隊が祝田の坂を降りはじめました」


 物見の者が息を切らして報告に来る。その言葉を聞いて家康の顔が歪む。


「おのれ! 武田は我らを無視してそのまま西に向かうつもりか、我らを釣り出す罠であるなら坂を下る筈も無し、これは出撃すべきですぞ!」


「左様、今から向かえば武田軍が坂の下に大半が降りているはず、兵法にも{半渡を叩け}とあります。川と坂の違いはあれど難所を渡る途中という点では一緒! 武田の大きな隙を突くべきです!」


「そうだな、このまま武田を行かせる訳にはいかん」


 家臣たちの進言に半ば乗せられてしまっている家康だがそこに佐久間が反対意見を述べる。


「お待ちあれ、武田ほどの戦巧者がこのような隙を見せることはおかしい、罠だと思われる」


「佐久間殿! 武田は西上を急ぐあまり警戒を怠っているのだ、それに我が徳川を舐めて居るのだ、我らが城から打って出ないと思い込んでおるのだ」


 その声に同調する家臣たちを見ながら佐久間は内心で舌打ちをしたい気分になった。


(三河勢の悪い癖が出た、これでは我らの力で止めるのは不可能じゃ)


 援軍を率いてきた他の将の顔を見ると一様に諦め顔である、こうなった彼らを止める術を知らないのであった。


(鹿介の援軍が間に合えば良いが……)


 追加の援軍を呼んでくると城を出た鹿介に祈りたくなるのであった。


「皆の衆、出陣するぞ! 武田信玄なんぼの者じゃ! 倒すぞ!」


「「「オオゥゥ!!!」」」


 雄たけびを上げて出陣していくのであった。



「殿、もうすぐ三方ヶ原です」


 猛って進む徳川勢とそれに引きずられるようについていく織田の援軍であったが、その中で服部半蔵正成は浮かぬ顔をしていた。


「どうした半蔵、具合でも悪いのか?」


 家康に問われて半蔵は気になることを告げる。


「武田勢の動きを知らせる物見があれから帰ってきませぬ、確か逐一動きを探るために何組も送っていたのにです」


 それを聞いて家康は顔色を変えるが周りの将は気にしていないのであった。


「服部殿、物見たちは祝田の坂を下った後どう動くか見極めておるのだろう、気に病みすぎじゃ」


「……」


 周りから否定され半蔵は黙り込むがそこに服部家の小者が近づき半蔵に小声で話しかける、それを聞いた半蔵は眼を見開き直ぐに家康の前に出た。


「殿、物見とは別に放っていた我が手の者が三方ヶ原より立ち戻りました、我らは武田に一杯食わされましたぞ、武田は坂を下っておりませぬ。むしろ原にて我が軍が来るのを陣を張って待っておるそうです」


「そんな馬鹿な!」 「ありえない!」 「どうしてこんな事に」


「黙れ!」 「半蔵、このまま反転して逃げ切れるか?」


「無理でございますな、深入りしすぎております。このままでは後ろから攻められ総崩れになります。陣形を整えて迎え撃つしかございますまい」


 主従の会話の合間にも先鋒の部隊より武田勢を発見したとの使番がひっきりなしにやって来る。


「陣形か、我が方は武田勢を追撃する積りで広く部隊を広げて居る。いまさら集まる時間もあるまい、各隊そのままの位置で敵に備えよ」


 家康は苦肉の決断をした。追撃を意識した部隊は丁度鶴翼の陣形に近く薄く広がった陣を持って武田勢に当たったのであった。




「徳川勢、鶴翼の陣形を取っております」


「我が方は魚鱗の陣、数からいえば逆の布陣ですな」


「そう見えるがの、徳川のあの陣は苦し紛れよ、我々に気が付いたが今更陣を組み直しては我が軍に蹂躙されかねん、徳川家康、中々やりおるな、だがここで終わりだ」


「ですが御屋形様、擬態で坂を下りだした部隊を見せて置いてその後物見たちを始末していった手並みお見事でした」


「敵を意のままに動かすのにはいくつもの仕掛けが居る、その仕掛けは多ければ多いほど良いのじゃ、判るな四郎」


「はっ、御屋形様、この四郎勝頼学ばせていただきます」


「はっはっはっはっ! 言うわ、良く学び生かすことができてこそ我が跡を継ぐに相応しき器と言うものよ」


 武田勢は仕掛けにかかった徳川勢を相手に余裕をもって臨んでいた。そしてその差は開戦してから顕著になるのであった。


 先鋒同士の遭遇戦で始まった戦いは武田勢の投石で始まり全面的な戦いを繰り広げていた。徳川勢は良く戦っていたが、数の上での差と疲労によって押されていった。疲れても交代できる武田勢に対して徳川勢に余裕はなく、一突きされれば全面的に崩壊する危険を孕んでいた。


「織田勢が押されております、このままではそこから陣が崩壊します」


「万事休すか」


 徳川勢のように兵の個々の強さを持たない尾張の兵たちは既に逃げ腰であった。


 そこに止めを刺すべく小山田信茂の部隊が襲い掛かろうとした時、戦場に大きな落雷のような音が舞い降りた。


 今にも徳川勢に攻めかかろうとする小山田隊は統制の取れない烏合の衆と化した。多くの武士が倒れ伏し、無事な者も呆然としている。


 小山田勢の横には今しがた多数の落雷の音の源が筒先から煙を吐いている。


「あれは鉄砲か! 何奴の部隊だ!」


 小山田信茂は小癪な部隊を睨みどこの部隊か探ろうとした。


「かかれぇ!」


 其の時低い木々の間からわらわらと兵士が沸いて出てきて小山田隊に槍を付けた。


「新手か! どこの奴らだ」


 小山田の目に彼らの掲げる旗が見え、それを掲げる部隊は疾風となり襲い掛かった。

 

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