夢見る言霊は眠らない

蛇草苹果

第1話『水底の詩(うた)』

──雪見しの/語り


 春の風が、部室のカーテンをゆるやかに揺らしていた。


 古びた木造校舎の三階、その最奥。物置のように誰にも見向きされない文芸部の部室。そこが、わたしの居場所だった。名前も、声も、大して届くことのないわたしの世界で、唯一、“ことば”だけは自由だった。


 その日も変わらず、わたしは一人で短歌を綴っていた。ページの余白に、夢で見た言葉をそっと並べる。名のない風景、終わらない眠り、水の中で息をする誰かの影。


 ——けれど、誰かが来た。


「せんぱーい! こんにちはー!」


 小鳥遊こより。文芸部唯一の後輩にして、声の大きさだけは全国区。けれど、今日の彼女は少しだけ違っていた。


「先輩、昨日この棚……開けました?」


 そう言って差し出してきたのは、一冊のノート。布に包まれたそれは、手に取った瞬間、ふわりと埃と夢の匂いがした。


『夢記録帳 第弐拾参号 文芸部預かり』


 ページをめくると、そこには名状しがたい詩文がびっしりと並んでいた。日本語と、そうでないもののあわい。海底、鏡、音。何かを呼ぶ言葉、あるいは閉じ込めるための呪文のように思えた。


「……こより。そのノート、どこで見つけたの?」


 こよりは指をポーチに入れて、一枚の紙片を取り出す。


「棚の奥から、これも落ちてきたんですよ。詩と一緒に」



春の夢、未だ覚めず。呼ばれしは、月裏の階午後三時、旧校舎地下の書庫。そこが“つながる”。鍵は彼女の声。



 夢。声。わたし。


 まるで、誰かに呼ばれている気がした。


 それから、こよりが取り出したもう一冊——昭和五十年代の文芸部誌の中に、ある詩人の名を見つけた。



麻倉理緒──かつてこの学校にいた文芸部部長。詩を詠んだまま、忽然と姿を消したという。彼女の書いた詩もまた、“階”と“門”を語っていた。



 言霊が連なるように、時を超えてわたしたちを導いている。


 ◇ ◇ ◇


 部室の書棚の裏に、隠し扉があった。


 わたしがこよりに、ことばの力を借りて詠ませたとき——棚が動いた。 古びた蝶番、真鍮の装飾、そしてその下には、石でできた螺旋階段。 夢の底へと続く階(きざはし)。


「……こより。この先には、何があるの? 私たち、どこに向かっているの?」


 わたしは問いかけた。 あえて、少し試すような口調で。


 彼女は、すぐには答えなかった。


 けれどその目の奥に、わたしの知らない“何か”が一瞬だけ揺れた。


「うん……たぶん、“ことばになる前のもの”。それを見つけたら……先輩、きっと詠めると思うんです」


 そのとき、こよりの声が一瞬だけ“別の誰か”のように聞こえた。深いところから、借りてきた声のような。


 ——わたしは、彼女の手を握り、階段を下った。


 階段は果てなく続いていた。湿った石造りの壁には、かすかに光る苔と、見覚えのない文字。夢の中の言語が、わたしたちを見下ろしているようだった。


 そのとき、ふと——わたしの背後を歩くこよりが、何かを口ずさんでいることに気づいた。


 それは、明らかに“詩”だった。だが、彼女の口から紡がれるそれは、文語でも現代語でもない、失われた海のことば。


「……こより?」


 呼びかけたが、彼女は応えなかった。ただ、夢の中を歩くように、静かに進んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 最下層には、静かな水面が広がっていた。


 水ではない。“詩”が溶けた液体。 中心には空白の石碑。何も書かれていない、それは“受け入れるための器”。


 周囲には、這うものたちがいた。 名を持たぬ、けれど誰かに詠まれたかった“詩のなれの果て”。


 そのとき、こよりがぽつりと呟いた。


「……先輩。わたし、“あの人”がまだここにいる気がするんです。麻倉理緒さん……彼女、消えたんじゃなくて、ここに、詩として残ったんじゃ……」


 彼女の声には、迷いと、祈りのようなものが混ざっていた。


「わたし……わたしで、よかったんでしょうか……?」


 催眠の余韻の中で、彼女は夢の境界に立っていた。


 ——わたしは、答えなかった。けれど、ことばを贈った。




其は永久に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに 死を超ゆるもの


鏡裏にて まどろみし“しの”は言の葉にて 白き眠りを越えん


鳥の声 小さき“こより”を導きて忘却の岸辺に たそがれを灯す


名を持たぬものに 名を贈らばそれは命 それは詩


ゆきみしの、こよりてゆけ。われらが詩は、今ここに始まる。




 詩は、石碑に刻まれ、なれの果てたちが静かに頭を垂れた。


 水面に波紋が広がり、わたしたちは、目を覚ました。


 ◇ ◇ ◇


 桜が舞う部室。


 夢から戻ってきたわたしたちの日常は、静かに呼吸していた。


 こよりはいつも通り、お茶を淹れてくれる。


「先輩、あれって……やっぱり、夢だったんですか?」


 わたしは、ページの隅に短歌を書いた。



春眠の 海より帰り めざめたり言の葉そっと 掌に咲けり



「……夢でも、ことばにしたら、それは現実になるのよ」


 こよりは、にこりと笑った。だがその笑みの奥には、まだ“何か”が眠っているようだった。


 文芸部の部誌には、あの出来事を記した詩が残った。


 名を呼ぶ。それは、世界をつくるということ。


 きっとまた、ことばはわたしたちを導くだろう。


 まだ詩は、終わっていないのだから。


──了


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