仁政の旗、鉄壁の法に挑む

神在月八雲

第1話

第一章:上郡の守り

紀元前210年、夏の終わり。秦帝国の北方、上郡(現在の陝西省北部)の空は鉛色の雲に覆われ、冷たい風が草原を渡る。匈奴の脅威が迫るこの地で、始皇帝の長男・扶蘇は、名将・蒙恬とともに30万の精鋭部隊を率いていた。遠くに見える長城の石壁は、秦の威信を象徴する一方で、過酷な労役の記憶を民衆に刻んでいた。始皇帝の苛烈な法家政策により、農民たちは重税と労役に喘ぎ、旧六国の遺臣たちは不満を募らせていた。

上郡の軍営は、整然と並ぶ天幕と武器庫で埋め尽くされ、弩兵や長槍兵が訓練に励む姿が広がる。兵士たちは、秦の厳格な軍律のもと、規律正しく動くが、その眼差しには疲労と故郷への想いが滲む。匈奴の騎馬軍団との戦闘は苛烈で、兵士たちは命を懸けて戦う一方、家族を養うためのわずかな報酬を手に握りしめていた。ある者は、戦場で功を立てて戸籍の地位を上げることを夢見、別の者は、遠くの妻子に思いを馳せながら槍を磨く。彼らの会話は、匈奴の動向や食糧の不足を嘆く声で満ち、しかし、扶蘇の存在が彼らに一抹の希望を与えていた。扶蘇が兵士たちと直接言葉を交わし、労をねぎらう姿は、軍営に温かな風を吹き込んでいた。

軍営の中央、簡素な天幕の中で、扶蘇と蒙恬が地図を広げ、匈奴の動向を議論していた。扶蘇は、24歳の若さながら、穏やかな眼差しと落ち着いた声で言葉を選ぶ。彼の儒家的志向は、始皇帝の厳罰主義とは異なり、民衆への配慮を重視していた。対する蒙恬は、40代半ばの歴戦の将軍。鋭い眼光と堂々たる体躯で、将兵からの信頼は絶大だ。長城の建設を監督し、匈奴を河南から駆逐した彼の功績は、秦の北方を安定させた。


シーン:扶蘇と蒙恬の対話

夕暮れの光が天幕に差し込む中、扶蘇は地図上の匈奴の進路を指さし、静かに語り始めた。

「蒙将軍、匈奴の動きが活発だ。斥候の報告では、彼らが河南の牧草地を狙っているらしい。だが、長城の守備を固めるだけでは足りぬ。兵士たちの疲弊も見過ごせない。」

扶蘇の声には、戦術を超えた深い思いやりが込められていた。彼は、兵士たちの食糧不足や過酷な労役を知り、内心で民衆の苦しみを憂いていた。蒙恬は地図を見据えながら、内心で扶蘇の言葉に頷く。この若者は、始皇帝の鉄の法とは異なる心を持つ。民を思うその志は、秦の未来を変えるかもしれぬ。蒙恬は扶蘇の仁政の志を高く評価し、彼の純粋な理想が軍の士気を高めていることを感じていた。

「公子のお言葉、ご尤もです。」蒙恬は低い声で応じ、目を細めた。「匈奴は機動力を活かし、分散して襲ってくる。我が軍は長城の要塞を基点に、弩兵と騎兵を組み合わせ、迎撃の準備を整えております。だが、兵士の疲労は確かに問題。食糧の補給を増やし、労役の負担を軽減せねば、長期の守りは難しい。」

扶蘇は頷き、わずかに微笑んだ。「将軍の采配は見事だ。だが、兵士たちの心を保つには、食糧だけでなく、希望も必要だ。父上の法は厳格だが、民の苦しみを顧みぬ統治は、いずれ破綻する。兵士たちに、戦う意味を伝えたい。」

蒙恬は一瞬、扶蘇の言葉に目を奪われた。この若者は、戦場に立つ将兵の心を掴む術を知っている。法家の鉄則を超え、民を思うその姿勢は、秦を変える力だ。彼は内心で扶蘇への敬意を深めつつ、口を開いた。

「公子、兵士たちはあなたの言葉に耳を傾けます。先日、公子が傷を負った兵に自ら水を運んだ姿を見て、彼らは心を動かされました。法の力で軍を統べる私にはできぬこと。公子の仁は、軍の士気を高め、匈奴への備えをより強固にします。」

扶蘇は照れくさそうに目を伏せた。「将軍の過大なお言葉だ。私はただ、父上の法が民を苦しめているのを見過ごせぬだけ。兵士たちもまた、民なのだから。」

天幕の外では、兵士たちが訓練を終え、焚き火を囲んでいた。ある若い兵士が、仲間に囁く。「公子扶蘇は、俺たちの労苦を気にかけてくれる。始皇帝の巡幸で見たあの冷たい目は、公子にはない。」別の兵士が頷き、「蒙将軍の采配は鉄壁だが、公子がそばにいれば、俺たちも命を懸けられる」と語る。彼らの声には、疲労の中にも希望が宿っていた。


背景:上郡の軍営と匈奴防衛

上郡の軍営は、秦の法家的な軍律のもと、厳格に運営されていた。兵士たちは、戸籍制度(什伍制)に基づき組織され、弩兵、騎兵、長槍兵が連携して匈奴の騎馬軍に対抗。蒙恬の戦略は、長城の要塞を基点に、烽火台で敵の動向を察知し、迅速な迎撃を行うものだった。兵士たちは、秦の弩(クロスボウ)の威力と訓練された規律を頼りに戦うが、食糧不足や過酷な労役に耐えていた。扶蘇の存在は、彼らに一抹の温かさをもたらし、蒙恬の統率力と相まって、軍の結束を保っていた。

匈奴は、機動力を活かし、牧草地や秦の辺境を襲う遊牧民。蒙恬は、紀元前215年に河南を奪還し、匈奴を北方に追いやったが、彼らの小規模な襲撃は続いていた。扶蘇は、軍事的な勝利だけでなく、兵士や民衆の心を掴むことで、長期的な安定を目指していた。この背景の中、扶蘇と蒙恬の協力は、秦の北方防衛を支える柱だった。

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