第4章 静寂の観戦者⑤

 名前が呼ばれたわけではない。スケジュール表に記された順番どおり、無言で卓球台に向かう。

 (みんな負けてる。でも、それは関係ない)

 自分の試合は、自分のものだ。そう思おうとして、呼吸を整える。

 けれど、コートの向こうに立つ相手よりも、視線の端に映る観客席のほうが、意識に深く入り込んでくる。

 神宮寺咲は、まだ最上段で座ったままだった。

 未来は台の前に立ち、ラケットを構えた。

 向かいにいるのは、南成の1年生。穏やかな表情をしていて、緊張しているようには見えなかった。

 けれど、アップ中の打球は鋭かったのを覚えている。

 (私だって、ちゃんと準備してきた)

 そう心で唱えても、ラケットを持つ指先がわずかに震えていた。

 視界の端、観客席の最上段。そこには変わらず神宮寺咲の姿がある。

 (……見てる)

 その意識が、思考の奥に張りついて離れない。

 深呼吸をして、ようやく試合開始の合図が聞こえた。

 第1セット目——未来のサーブから。

 (落ち着いて、ゆっくり……)

 そう思いながらトスを上げた手が、ほんの少しずれた。

 インパクトが甘くなり、ボールはネットにかかって落ちる。

 (あっ……)

 1点目からのサービスミス。喉の奥がきゅっと詰まった。

 だが、相手の表情は変わらない。ただ静かに構えている。

 2球目もサーブミス。

 3球目。相手のサーブは回転が鋭く、未来のリターンは大きく浮いてしまう。

 スマッシュが一直線に打ち込まれ、未来は反応できずに体を固めた。

 (やばい、これじゃ……)

 焦りと緊張が交互に押し寄せてきて、判断が遅れる。

 立て直そうと意識すればするほど、身体は言うことをきかなくなる。

 スコアは0-4。ベンチから何も声は聞こえなかった。

 ふと、未来は自分の足元を見た。

 ラケットを握る手も、足も、しっかりしている。

 なのに、どこか“自分じゃない”みたいな感覚があった。

 (違う。私、こんなはずじゃ……)

 そのときだった。

 観客席の視線が、ふと強くなった気がした。

 ——神宮寺咲。

 変わらず無言のまま、ただ一人で見つめている。

 けれど、その視線が何かを問いかけているような気がしてならなかった。

 (どうしたの? それが、あなたの卓球?)

 そんな声が、咲の口からではなく、心の奥に響く。

 未来はラケットを持ち直した。

 (私が今まで見てきたもの、全部ここに出す)

 打ち方の形。サーブのコース。ステップの感覚。全部、何度も繰り返したはずだ。

 未来は次のポイントで、サーブの構えをほんの少しだけ変えた。

 相手のフォア側へ鋭く打ち込む。リターンは浮いた。

 ——迷わず、叩いた。

 ラケットがボールを捉えた音が、体育館に小さく響く。

 ようやく、未来の1点目が入った。

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