第12話
ペンを握る指先が、小さく震えていた。
慣れない作業のせいではない。どんな言葉で終わらせればいいのか、それが最後まで掴めなかった。
白い便箋の余白は、想像以上に広く、冷たく感じられた。
何かを書いては消し、また書き直し、破っては捨てた紙が床に散らばる。折られもしないまま、諦められた文字たち。
手紙など、今まで一度も書いたことがなかった。
それでも灯花には、言葉にしなければならないと、なぜか強く思った。
口では言えない。面と向かえば、結局何も言えず、逃げ出してしまうだろう。
だから、手紙にするしかなかった。
封筒に宛名は書かない。便箋の冒頭にも、呼びかけの言葉はない。
ただ、思いつく限りの言葉を、選び、削ぎ、迷いながら、それでも丁寧に綴った。
──あの夜、駅前でお前を見かけた。
声をかけようとした。でも、できなかった。
お前の幸せそうな顔を見て、それでいいと、心から思った。
文は短く、飾り気もなかった。言い訳も説明もいらない。ただ、それだけで充分だった。
──お前が、俺を信じてくれていたこと、知ってる。
何年経っても、その気持ちに支えられていた。
でも、俺はもう、お前の兄ではいられない。
それは俺の弱さであり、お前への思いやりでもある。
ペン先が止まった。しばらく沈黙の中で、静かに言葉を探す。行を一つ空けてから、続きを書く。
──お前の婚約者は、きっといい人なんだろう。
願わくば、その人と一緒に、穏やかな日々を重ねてほしい。
“家族”という言葉が、苦しみではなく、温もりになりますように。
書き進めながら、胸の底に澱のように沈んでいた思いが、少しずつ輪郭を持ち始めていくのを感じた。
これは別れではない。けれど、確かな区切りだ。
──もう「兄」として、連絡することはない。
何があっても、俺を探さないでくれ。
俺は、どこかで、生きていく。
最後の一文を書く前、目を閉じた。
まぶたの裏には、まだ小さかった灯花の姿が浮かぶ。
両親が亡くなった夜、泣きじゃくる彼女の手を、必死で握りしめていたあの夜。
あれからどれほど時が過ぎても、その手の温もりだけは消えなかった。
──お前が幸せなら、それでいい。
結びの言葉は、それだけだった。
「さようなら」は、どうしても書けなかった。
便箋を丁寧に折り、封筒に入れ、のりをつけてしっかり押さえる。
しばらく手の中で封筒を転がしながら、深く息を吐いた。
夜の街は静かだった。
街灯の下を歩くたび、足元の影がのびたり縮んだりした。
ポケットの中の封筒は、不思議とあたたかく、それでいて重たかった。
目的の家までは、歩いて三十分。
新居らしき、小さな一軒家。
表札には、まだ変わっていない名字が残っていた。
郵便受けの前で、立ち止まる。
一度だけ、家の中を見上げた。
カーテンの隙間からこぼれる光が、地面に柔らかな色を落としている。
──この光の中に、俺はいない。
その現実が、音もなく胸に弾けた。
封筒を、ゆっくりと差し込む。
奥へ入ったことを確かめ、立ち去ろうとした瞬間――
風鈴が、揺れた。
「……っ」
小さな音が、夜の静寂を震わせた。
誰かが気づいたかのような錯覚に、肩が跳ねる。
そのまま、背を向けた。振り返らない。
振り返らないことが、彼女への最後の優しさだと、どこかで知っていた。
*
アパートに戻ると、昨日届いた封筒が、まだテーブルの上に置かれていた。
《またね》――たった三文字の、優しい筆跡。
それを、机の引き出しの奥にしまう。
もう見返すことはないだろう。
けれど、そこにあるというだけで、自分がまだ“人”でいられるような気がした。
窓を開ける。夜風が、静かに頬を撫でた。
空には星もなく、灯りもなかった。
それでも、あの手紙を届けたことで、自分の中に灯った何かがあった。
名前のない別れ。呼びかけも、終わりの言葉もない手紙。
けれどそこには、確かに“想い”があった。
俺は、今日を生きる。
誰でもない名前で、誰でもない人生を。
──それでいい。
──もう、十分だ。
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