第5話

妹と再会したのは、出所して一週間ほど経った、梅雨の晴れ間だった。

しとしとと長く降り続いた雨がようやく上がり、街路樹の葉が濡れた光を帯びて揺れていた。

喫茶店の窓際、午後の陽射しがテーブルの上を斜めに切り取っていた。

静けさのなかに、カップと皿の触れ合う微かな音だけが流れていた。


妹は、変わっていなかった。

──いや、“変わっていないふり”をしていた。


俺が何を背負ってきたか、どんな思いを言葉にできずにいるか。

それを、黙って汲み取ろうとする眼差しだった。

その目に、俺は見透かされているような気がした。


「兄ちゃん、ちゃんと食べてる?」


その一言が、あまりに普通で、かえって胸に刺さった。

まるで何もなかったかのように──あの五年がなかったかのように、彼女は接してくる。

出所直後にアパートへ顔を出したときも、同じだった。

過去のことに一切触れようとしない。それは優しさであり、気遣いでもあった。

俺には、そのことがちゃんと分かっていた。


だけど──ふと目を落としたとき、彼女の細い指が、白いカップをぎゅっと握りしめていた。

そのささやかな仕草に、積もった時間の重さが、滲み出ていた。


「……あのさ、婚約者、紹介したいなって思ってる」


言いながら、彼女はスマホを取り出して、俺の前に差し出した。

画面には、スーツ姿の男と並んで写る写真。

彼は物腰が柔らかそうで、真面目そうな顔立ちだった。

並んで微笑むふたりの姿に、一瞬、俺は言葉を失った。


「ちゃんと話したんだ。兄ちゃんのこと、事件のこと、五年間のことも。……そしたら、“それでも信じたい”って言ってくれてさ」


信じたい──

その言葉が、喉の奥に引っかかった。

嬉しさもあった。

でも、それ以上に、戸惑いの方が勝っていた。


「でもね、向こうのご両親が……あんまりいい顔してなくて。兄ちゃんに罪があると思ってるっていうより、なんていうか、“縁起が悪い”とか、“跡が残る”とか、そういう感じで……」


「……わかるよ」


俺は小さく答えた。

彼女はその声に眉をひそめ、俯いた。


「だから、私……向こうの家と、縁切ろうかなって思ってる」


「……待て、それは──」


「兄ちゃんには関係ない、って言いたいかもしれない。でもね、私がここまでこれたのは、兄ちゃんがいたからだよ。ずっと、信じてきた。今も、信じてる。だから、切るのは怖くない」


言葉が、胸の奥をひどく痛めた。

それはありがたく、同時に苦しかった。


「それに、“私が兄ちゃんの妹だから結婚できない”って言われたら、それはもう、私にとっては愛でも家族でもない」


彼女の目は、迷いなくまっすぐだった。

その強さに、俺は何も言えなかった。


俺が背負ってしまった“罪ではない罪”が、今、彼女の未来を削り取ろうとしている。

そう思うと、胸の奥に重たい鉛が沈んでいくのを感じた。


「……でも、それじゃあ、俺の存在が……」


言いかけたそのときだった。

店内の壁に掛かったテレビから、小さな音が漏れた。

音量は抑えられていたが、字幕が静かに流れていた。


【速報】未解決の「大学連続不審死事件」、新たな証言者名乗り出る。現場遺留品と一致か。

警視庁は証言の真偽と、五年前の犠牲者との関連性を調査中。


自然と、目が画面へと引き寄せられた。

映し出された風景には、見覚えがあった。

「新宿・戸山公園」「旧研究棟」「法学部関係者」──

断片的に浮かぶ文字が、過去の記憶を無造作に引っかいてくる。


ひとりの青年が復讐を遂げたとも言われるこの事件。

警察はいまだ容疑者を特定できず、真相は闇の中にある。

世間では、今も憶測と噂が飛び交っていた。


俺は思った。

もしかしたら、“あの事件”と比べれば、自分の人生なんてまだましなのかもしれないと。


「兄ちゃん、知ってる? その事件、うちの大学でも話題になったんだよ。あの時期……ほんと、いろいろ怖くてさ」


妹の声が、静かに心に染み込んできた。

あの頃、俺はすでに塀の中にいた。

外の世界で何が起きていたのかなんて、知らなかった。


「誰が、誰のために、何のために事件を起こすのか──って、ずっと考えてた。

でも最近、思うんだよ。私は、“誰かのため”じゃなくて、“自分のため”に生きたいって。

兄ちゃんを信じるのも、自分がそうしたいから」


言葉に込められた意志の強さが、まぶしかった。

その瞳の奥には、過去に縛られずに進もうとする力が宿っていた。


──俺は、妹の未来から消えるべきなのか。

それとも、彼女の「血の証明」として、ここに存在し続けるべきなのか。


その問いに、簡単な答えなどなかった。

ただ、言葉にできない痛みだけが、胸の奥に沈み込んでいた。

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