第2話 「天使面の『妖精』」




 路地裏に二人の人間がいる。

 血だらけで倒れている男と、それを抱えるようにして蹲る女。


 男は女の頬に触れ、震える声で言った。


「どうか、できるだけ———」


 雨音が激しく鳴る中、女の泣き声が響いた。



◎◎◎



「ラバン!家、戻る、した!」

「おかえり。レディベリー、コイツ大人しくしてたか」

「まぁ!」


 朝からレディベリーと、近所の露店まで買い物に行っていたカミルが帰ってきた。


 カミルを拾ってから1週間。

 今まで、家の環境に慣らすため、敷地から出ることを禁止していたが、今日初めて使いを頼んだ。


 レディベリーという監視はついていたが、彼女の様子を見るに概ねつつがなく進んだようだ。

 ついでに、今日のレディベリーは何を食べたのか、黄色い装いである。


「ん!買う、した!見て!」

「ああ」


 頼んだ品を買えているか確かめるために袋を受け取ると、覚えのある野菜や穀物のほかに、知らないクッキーが入れられていた。


「カミル、このクッキーはなんだ」

「あ!それ、もらう、した!」

「誰にだ」


 そう聞くと、首を傾げレディベリーの方を向くカミル。


 彼女が付いていながら、下手なことをするはずもないが、安全な物かどうかも分からない。確認は必要だろう。


 レディベリーは、二人分の視線を受け、袋の中の野菜をひとつ取り出した。

 そして、俺の手元のクッキーと野菜を交互に指さした。

 ああ、これは、


「八百屋んとこのおば様か……」

「まぁ!」


 なるほど、カミルにクッキーを与えたのは、あの八百屋のお節介焼きなようだ。


 果実の種も売っている八百屋は俺達の生命線。

 そのため、半分顔見知りの彼女は、レディベリーの隣に見慣れないカミルがいることに気づき、機嫌よく土産を渡したのだろう。


「甘い、もらう、ダメ?」

「いや、知らねぇ奴に良くないモンを与えられたんじゃないかって、無駄に勘ぐっただけさ」

「野菜、の、人、良い人!」


 俺の目をじっと見て、訴えるように言うカミルに「知ってる」と答えた。

 クッキーを袋へ戻し、二人を連れてキッチンへ入る。


「お、ご飯、する?」

「飯には早い。レディベリー、紅茶を入れてくれ」


 丁度いい。俺の書類仕事も一段落したところだ。

 ティーブレイクにしよう。



◎◎◎



 チョコレート風味のクッキーを食べ、上機嫌なカミルに「そういえば」と話を始める。


「明日、任務に出かける」

「任務?」

「言っただろ。チョーカーの調査だ」


 カミルは今思い出したように、目を開いて、こくりと頷いた。


「今日、組織から任務の要請があった。隣町にチョーカーと思われる人間がいるってな」

「チョーカー倒す、オレ、勝ち?」

「この前、保護も仕事の内って話したろ」


 そもそも、本当にチョーカーなのかすら分かっていない。そのための調査だ。


「人を食ってない軽度中度なら保護。その他は恐らく討伐任務に移行される」

「とーばつ、がんばる!」

「その通り。お前の仕事は、万が一処分対象のチョーカーだった場合の戦闘員だ」


 細かいことは分からなくていい。ただ、俺の言うことを聞く頑丈な手足になってくれれば。


「あと、何か記憶のきっかけになりそうなモノがあったら教えろ」

「おー」

「こればっかりは、お前の感覚頼りだ」


 相変わらず、時たまぼーっとしたような顔をするが、これはコイツなりに思考している表情でもあると最近分かってきた。

 ……6割くらい、本当に何も考えていないこともあるが、それは置いといて。


 明日の任務のために、カミルに渡さなければならないものがいくつか。


「そんで、任務に向けてだが。レディベリー」


 キッチンで、早めに夕飯の支度をしている彼女を呼ぶ。

 俺達の話は聞いていたのか、彼女は思いついたように手をぱちんと叩き、とととっ、と彼女の部屋へ駆けていった。


 カミルはそれを目で追いかけ、「レディ?」と呟いた。


 紅茶を飲みながら少し待つと、またとととっ、とレディベリーが何かを持って帰ってきた。

 それは、何枚かの服だった。


「カミル、立て」

「ん」


 起立し、椅子からよけたカミルにレディベリーが、黒い大きなフード付きケープを渡した。

 それは、首の痣も隠せるだろう長さの立て襟も仕立てられている。


「レディベリーが、お前のために作った服だ。着てみろ」

「おー!大きい!」

「おそらく敏感なお前に、締め付けの無い肌触りの良い生地にさせたが、違和感はないな?フードに関しては、緊急用だ。いつも被る必要はない」


 カミルにも簡単に着れて、かつ体の動きを制限しないもの。

 また、首回りに何かを身に着けるのが嫌いと言っていたので、ギリギリ立て襟という手段を取らせた。

 生地も、上質なものを使い、光の加減で鈍く緑がかった光沢を見せている。


「んー、かるい、ひらひら」

「袖口を絞れるようにもしているはずだ。邪魔だったり、汚れそうなら絞って捲ればいい」

「おー!これ、着る、いい!」

「そうか、よかったなレディベリー。上出来だ」


 彼女も、嬉しそうなカミルを見て満足げに笑っている。


 俺は首さえ隠れれば何でもいいので、シャツやズボンは今のシンプルなモノで十分だが、これも追々レディベリーが手を加えるのだろうか。


 そう思い彼女を見れば、いつの間にかこちらに視線を移していた。

 その手には、俺の知らないもう一着が用意されていた。


「まさかレディベリー、それ」

「ま!」


 ずい、とベージュのコートを渡された。


 期待される目のままに袖を通すと、見た目の割に動きやすく、これまた丁寧に作られていることが分かった。


 普段あまり使わない色だが、所々細かい装飾や、裏地に模様が入っていたりと、非常に俺好みの上品な作りだ。


「おお!着る、きれい!」

「……そうだな。ありがとうレディ。作ってくれたのか」

「まぁまぁ」


 レディベリーはこれまた楽しそうに、優しく笑っている。


 全く、1週間で2着も作るなんてどんな技術だと疑いたくなる。

 だが、良いものを無理やり断ることもない。少々気恥ずかしいが、有難くいただくことにした。


「これで、とりあえず今日話すことは以上だ。もう自由にしていいぞ」

「オレ、庭、行く!」

「敷地外には出るなよ。夕飯になったら呼ぶ」


 カミルは、お気に入りの庭を見にポンチョを着たまま外へ出ていった。


 まぁ、元々汚れる前提のものだ。土がつくくらいは、問題ない。

 ただ家では、着ないように言う必要があるかもしれない。



 レディベリーも、早々にキッチンへ戻り作業を再開したようだ。


 そういえば、カミルの食事についてだが、今はもう初日のような量を食べることは無くなった。


 それでも、俺の数倍は胃に入っているが、比較的抑えられている。本人も、我慢している風ではない。


 チョーカー飢餓感には波があると言うが、初日のあれは、以前の環境も相まった結果なのだろう。


 コロッセオでの奴隷生活で、碌な食事も与えられていなかったのは想像に難くない。

 その状態でどうやって飢えを凌いでいたかは不明だが、反応を見るに少なくとも人は食っていない。


 今は、常にほどほど満たされているためか、空腹で眠れないなんてこともないようだ。ただ、隈は未だに顕在である。


 毎日、気に入りの庭や温室を見に外へ出ている。

じーっと花を見つめているかと思えば、次の瞬間には芝生に肢体を投げ出して、ごろごろと寝転がっていたりと中々に自由だ。


 一方で、動物の気配には敏感だ。

 家の周りに自然が多いため、野生の動物はいつもそこそこに見られるが、足音や鳴き声を聞くと、がばっと起き上がりきょろきょろと見渡すような素振りをする。


 剣闘士としての経験がそうさせているのか。

 チョーカーの任務についてくる以上、そういう感覚は重宝される。


 だが、あまりにも敏感に拾うので、家の中でも警戒状態が解けていないのかと考えるのは、自然なことだろう。


 今すぐどうこう出来る話ではないが、レディベリーも心配していることだ。気に掛けるくらいはすると良いかもしれない。


 そうこうしているうちに、キッチンから肉の焼ける良い匂いが漂ってきた。

 今日は何品作る予定だろうか。



◎◎◎



 中心にある大きな湖を囲むように、家々が立ち並んでいる小さな町。


 俺とカミルは、それぞれの服の裾はためかせながら、任務のため、慣らされた土の道を歩いていた。

 ついでに、カミルの手にはさっき買ったサンドウィッチ屋の紙袋が握られている。


「早く、食べる、したい」

「待ってろ。今座れるところ探してっから」

「んあー」


 カミルの腹の音がうるさくて買ったサンドウィッチ。

 風が強い今日、カミルに立ち食いをさせた日には碌なことにならないため、ベンチを探している。


 かく言う俺も、午前中の聞き込みで少し疲れたため、早急に見つけたいところである。


 というところで、道端に看板を見つけた。


「おい、湖の公園があるってさ。行くぞ」

「わかる、した」

「くれぐれもそれ落とすなよ。俺とはぐれるなよ」


 看板に従い、木々の中を進むと、急に視界が開け、美しい湖が見えた。


 また、湖の傍に、緑の葉と薄桃色の小さな花を付けた大きな木が、一本植えられていた。

 その木陰に運よくベンチが置いてあり、俺はまっすぐそれへ向かう。


「いいな。ここで食えそうだ」

「きれい!水!もっと、見る、する!」

「あ、おいカミル!」


 カミルはきらきらと太陽の光を反射している湖を見て、テンションが上がったのか、感情のままに袋を持った手をがばっと持ち上げ、走りだした。


 その瞬間、突風が吹き、不安定な指の合間から袋が零れ落ちる。


「あ、あー!!!!」

「なにやってんだ。急に走るな」


 カミルは、落ちた袋を見て「ショック!」という顔を隠しもせずに、その場で固まっている。


 しばらく再起しそうにないカミルに代わり、俺が袋を取ろうと近づくと、先に袋へ伸ばす皺の入った手が見えた。


「あらあら、落としてしまったのね」


 おそらく50代くらいの女性が、袋を優しく取り、カミルを見上げた。


「だれ?」

「先に、ありがとうございます、だろうが馬鹿者」

「ありがと!」


 袋を拾ってくれたご婦人に「すみません」と簡単に謝辞を述べた。


「いえいえ。それより、中身は何ともないかしら……それ、近所のサンドウィッチ屋さんの物でしょう?」

「あ!」


 カミルは、そういい恐る恐る袋を開ける。その瞬間、しょげた顔をした。

 見ると、少し潰れてしまったようだった。


「そう落ち込むな。まだ食えるだろ」

「ん……」

「お前、食の見た目に興味あったのかよ」


 てっきり食えれば何でもいいタイプかと思っていたが、そうではなかったか。


「このサンド、色、すき。から、ちょっと、悲しい」

「まぁ、綺麗なもんは綺麗なまま食いたいな」


 ……思えば、今までの食事も口周りを汚しこそすれ、盛り付けられた食べ物を、したいままに崩すようなことはなかった。

 境遇を鑑みれば、想像しがたい礼儀だった。


「やっぱりちょっと崩れちゃったのねぇ」

「でも、食べる、できる」

「あら、強い子ね。そうだ、私の持ってる桃、一つ上げるわ」


 ご婦人は落ち込むカミルに、カバンから瑞々しい大きな桃を一つ手渡した。

 その時、開いたカバンから、天使のぬいぐるみが入っているのが見えた。


 カバンに入れるには、少々大きすぎるのではないだろうか、と考えているとそのぬいぐるみが一瞬、瞬きをした気がした。

 なんだ……?


「ご近所さんに貰ったものよ。まだ家にあるから、一つ上げる。とっても美味しいから、元気も出るんじゃないかしら」

「お!…………あー、もらう、いい?」


 一瞬喜んだ後、俺の方へ伺うように見るカミル。

 素性の分からない人であるが、目に見える好意は無視出来ないか。

 一つ、頷いて見せた。


「ん!ありがと!もらう、する。いい匂い!」

「ふふ、可愛い素直な子ねぇ」


 上品に笑うご婦人に、上機嫌なカミルが何を思いついたのか、近づき鼻を鳴らした。


「おまえ、も、匂いする!これ、なに?」


 彼女は、それに不思議そうな顔を返した。

 これにはさすがに口を挟む。


「カミル、一言に失礼をいくつ重ねる気だ。女性にはせめて『あなた』だ」

「あなた!」

「申し訳ないご婦人。桃もありがとうございます」


 カミルを後ろに下げ、目の前の彼女に言う。


「いいのよ。桃の香りが私にも移ったのかしら」

「コイツの言うことは、どうぞお気になさらず」

「ふふ、そう?それじゃあ、もう私は行くわね。ピクニックを楽しんで」


 そう言い残し、ご婦人はゆっくりとした足取りで去って行った。


 見えなくなる直前、咳をするように体を屈めていた。

 強風の中引き留めたせいで風邪を引いていないといいが。



◎◎◎



 先にベンチに座って桃を齧っていたカミルに先ほど気になったことを問う。


「さっきの。匂いってなんだ」

「ん?」

「あの人に最後言っていただろ」


 少なくとも、俺には彼女から何か特別な匂いは感じなかった。

 カミルは俺よりも五感が鋭いから、何かしら鼻を突いたのだろう。


 カミルのその場限りの思いつきだったかもしれないが、なんとなく聞いておく。


「どんな匂いがした」

「どんな?」

「本当に桃の、お前が今食べてる果物と同じ匂いだったか」


 必死に匂いを思い出しているのか、空を見るカミル。桃の匂いという問いには、首を横に振った。


「もも、違う。でも、嫌ない、匂い」

「嫌いではない匂い?」

「おー」


 合間で口をもごもごと動かしながら、答えている。


 桃を食べ終わり、つぶれたサンドウィッチにかぶりつく直前、ばっと俺を見た。


「あ!思い、出す、した!土、匂い!」

「土?」

「庭、土、匂い同じ!雨、の、土!」


 要するに、雨が降って水分を含んだ土。泥ってことか?


「泥のような匂い……日常的に土をいじっているのか」

「さー?」


 思ったほどの情報にはならなかったが、頭の片隅には入れて置く。

 カミルのモノを思い出す訓練が出来たと思えば、悪くないだろう。


 カミルはいつの間に食べたのか、レディベリーに持たされていたハンカチで、手を拭いていた。


「おいしい、食べる、した!」

「早過ぎ。俺がカロリーバー食べ終わるまでそこらで待ってろ」

「ん!」


 カミルは、すぐさま立ち上がり、湖の方へ近寄って行った。


 俺はポケットから取り出したプレーン味のバーを食べる。

 別に、カミルと一緒にサンドウィッチを買ってもよかったのだが、折角持ってきたためこれを消費することに専念した。


 最近、レディベリーが食により一層関心を向けるようになったため、俺のカロリーバーを見て眉を寄せ始めた。

 前までは特に気にしていなかったようだが、意識が変わったようだ。


 ……今度、いい加減痺れを切らした彼女に、バスケットでも持たされたらどうしようか。


 そんなことをぼんやりと考えながら、また一口齧った。



◎◎◎



 調査を始めて2日、痣の目撃情報や、不審な動きをしているなどの話を集め、ひとまず怪しいと思われる人間の家へたどり着いた。


 あの湖の公園を奥へ抜け、何度か路地を曲がったところにあるこの家は、随分質素に見える。


 まずは接触してみようと、玄関へ向かおうと足を進めたところで、そちらから何やら声がした。


「ミツ!今日ハ、ピーチタルトが食べてェ!」

「はいはい、良いわよ。手伝ってくれる?ヒソップ」

「全くしょうがねェナ!紅茶モ淹れてくれヨ」


 落ち着いた年配の女性と、高いような低いような不思議な声が話しているようだ。

 この女性の声、どこかで聞いたような。


 そう思いそちらを見れば、公園で会った女性が見えた。


 いやしかし、それよりも目を引いたのが、


「人形、話す、してる!」

「ナァ!?ダ……見らレ……ッ!」


 カミルが、大声を上げ指を差した先には、紫色の目をし、継ぎはぎの服を着た天使のぬいぐるみだった。

 

 また、驚くべきことに、それが女性と目を合わせるようにパタパタと宙へ浮き、言葉を発している。


「まぁ、どうしましょ……」

「ドウしましょ、じゃネぇ!」

「……あら?貴方達、公園の」


 女性は、困ったように眉を下げ、相も変わらずぬいぐるみへ話しかけているが、こちらのことも気づいたようだった。


「……あの時はありがとうございましたご婦人。そして申し訳ありません。会話が聞こえてしまって」

「オレも、それ、話す、する!」

「待て待て」


 今にも、ぬいぐるみへ突撃しそうなカミルのフードを掴む。

 もう無駄かもしれないが、恐らく彼女がチョーカー疑惑のある人間だ。これ以上、変に刺激はしたくない。


「いいえいいえ。うっかりしていたのは私たちですから……来客なんて久しぶりで、つい。ねぇヒソップ」

「うるせエ!話しかけルんじゃネェ!」

「ああ、そうねそうねぇ」


 詳しくは分からないが、口ぶりを見るに、秘密が予期せず暴かれた状況だろう。が、女性はもう穏やかな表情に戻っている。

 一方、ぬいぐるみの方は、どこか緩い女性に今にも説教しそうな雰囲気だ。


 これは、聞いても良いのだろうか。


「あの、随分高性能なAI玩具ですね。浮遊はどういう仕組みで?」


 そうさりげなく聞くと、今度はぬいぐるみが俺へ突っかかってきた。


「俺ッチは、おもちゃジャねぇ!馬鹿にすンナ!」

「なら、なに?ヒソップ?」

「教えネェ!ヒソップって呼ブな!」


 カミルの言葉にもそっぽを向くも、思わぬ方向から答えが飛んできた。


「ヒソップは、とても優しい妖精さんよ。信じられないかもしれないけれど」

「妖精?」

「ああ、そういう……」


 このぬいぐるみ、レディベリーと同じ『隣人』か。


「素直ニ言う阿呆ガいるカ!ミツ!」

「確かに貴方のことは皆に秘密にしていたけれど、とうとうバレてしまったものを、無理に誤魔化すことも無いでしょう?」


 普通であれば、到底信じられるはずもない。

 だが、俺達はすでに『彼ら』を知っている。


「妖精、分かる!レディベリー、と、同じ!」

「レディベリー?」


 女性が首を傾げた。


「俺の家に住んでいる、太古の精霊です。女性のような見た目のドールで、家事全般をしてくれます」

「それは素敵!」

「ハァ?ウソつくなヨ!」


 「お前がそれを言うのか」と妖精に言いたくなったが、口から出る前に飲み込んだ。


「そうそう。何か私にご用事があったのでしょう。お時間あれば上がって頂戴な」


 女性が、扉の方を向きながら言う。


 ターゲットの情報を得られる願ってもない話に、俺は一も二もなく頷いた。


「ぜひ、お伺いしたいです」

「入る、する!ヒソップ、話す!」

「ンナ!お、おイ!俺ッチは入れて良いなンて、言ってネェ!」


 ぞろぞろと扉へ向かっていく中、ヒソップだけがパタパタと厚みのある羽を動かし、ついてきていた。



◎◎◎



 テーブルに、クラッカーと紅茶が置かれていく。

 お互いの自己紹介もそこそこに、席へ着いた俺たちは、絶賛もてなされていた。


 部屋を失礼のない程度に見渡す。物は少ないが綺麗に整頓されいて、不審なところはない。


「もっとしょっぱいものが良ければ、ごませんべいがあるわよ」


 ミツ、という女性がさらにテーブルへ桃ジャムを置きながら言う。


「ごま、せんべい?」

「……ぱりぱりしたお菓子よカミルちゃん。クラッカーよりも味が濃くて……」

「おイ!早く話始めヨうゼ!」


 ヒソップがミツさんの話を遮り、テーブルの上、定位置なのだろう場所へ座る。

 手には早速、ジャムを付けたクラッカーが握られていた。


 レディベリーも一応食事はするし、ぬいぐるみだろうが、物は食べられるのだろう。



 ……彼女が席に着いたのを見て、俺は話し始めた。


「実は、この町で人を探しています」

「人を?どなたかしら……」


 手を頬に当て、こちらを見る。

 カミルには、事前に俺が真剣に話している時は、口を挟まないよう言い含んでおいた。


「名前は分かりません」

「あらまぁ、どうやって見つけるの?」

「首に、痣があります。こう、一周するような」


 俺が、自分の首に指を当て、左から右にスライドして見せた。

 それを見て、女性は少し目を見開いた。

 一方、ヒソップは、先ほどの騒がしさとは打って変わって、じっとこちらを見つめている。


「それも、常に見えているわけじゃないので、思うように探せない。だから、こうして情報を集めているんです」


 カミルは、話を聞きながら、用意された桃ジャムをクラッカーにたっぷりと付け、口を大きく開け頬張っている。


 ミツさんは、それを見ながら困ったように黙っているが、ヒソップが表情硬く、口を開けた。


「探シて、どうすル」

「それは言えない」


 ヒソップはその答えに、眉を潜めた。


 街の人から聞くに、そのチョーカーが重度でないことは推測できるが、それでも軽度か、中度か分からない。


 つまり、保護するか処分するか、今は判断できないということ。


「とにかく、会わないことには何も分からないのが現状。その人にとって、良い未来になるか、悪い未来になるかも」

「お前ラ、なんナんダ」

「それも、言えない。少なくとも関係のない人には何もな」


 俺とヒソップの会話に、固い雰囲気になったことを察しているミツさんが、心配そうにこちらを伺っている。


 ヒソップは恐らく、ミツさんが『俺の探している人』であることに、気づいている。

 その上で、俺達を警戒している。


 ……ここらが、潮時だろう。

 今はこれ以上、情報もでないはずだ。


 確信を得られたほどではないが、反応を見るに『当たり』だ。

 まさか、妖精がセットで付いてくるとは思わなかったが。


 だが、カミルにも鋭い視線を向けるヒソップに、一言言っておくことにする。


「カミルは、ただ俺の仕事を手伝ってるだけさ。ミツさんとお前を気に入ってるみたいだから、詰めれば情報をぺらぺら話すかもしれないが、勘弁してやってくれ」

「……なンだそレ」

「純粋なんだよ。幼児みたいに」


 俺達が、カミルの話をしていることに気づいたのだろう。

 「お!」と、口元にジャムをべたべたつけながら返事をした。


「これ、おいしい!もっと、食べる、する!」

「口拭けカミル」

「んー」


 俺達のやり取りに、二人が拍子抜けしたように、肩を下ろした。

 こういうところに関しても、カミルは非常に役に立つ。


「ふふ、お口に合ったなら、お土産に一つ瓶を持って帰る?カミルちゃん」

「持つ、帰る!ミツ、いい?」

「もちろん!」


 もうミツさんからの贈り物には害がないことを知っているため、すぐさま大きく頷いた。


 ヒソップがため息をついた。


「……ハァ、分カったヨ。こノ家に面倒ヲ入れナけりゃ、俺ッチも何モしネェ。いいナ」

「ああ、助かる」


 それは、今後を考えれば難しい提案だったが、どこか願うように言うヒソップに、今は頷いた。



 その後、小さな桃ジャムの瓶を持って帰ってきたミツさんに、お礼を言う。


「ありがとうございますミツさん。お邪魔した上に、ジャムも頂いてしまって」

「いいのよ。ヒソップ以外とお茶なんて久しぶりだったから、嬉しくて。こちらこそ、来てくれてありがとう」

「ミツ、好き!また、来る、ダメ?」


 カミルの無邪気な提案に、ミツさんは嬉しそうに受け入れている。


 ヒソップは、カミルの方を見て黙っている。何も言わないということは一応否やはないのだろう。

 あくまで、ミツさんの意見を尊重しているようだ。


「ジャム、多分コイツが今夜にも平らげるので、またすぐ瓶を返しに来ます」


 脚色なく本当にこの通りになるだろう。接触の理由が出来るのはありがたいが。


「そうだ。家の者がベリーを育てているのですが、お返しにベリージャムはいかがでしょう?」

「まぁ大好きよ!ねぇヒソップ」

「美味カったラ、食べてヤる!」


 いつの間にか、緊張した空気は無くなり、穏やかな空気が漂っている。



 勘の良いヒソップはともかく、ミツさんは先ほどの話をどこまで理解しているのだろう。


 ヒソップと同じく警戒されてしまったか。遠回しに探っている俺を嫌悪しただろうか。


 カミルに対しては正真正銘、好意を抱いているはずだ。年の離れた子供を見るように、甲斐甲斐しく接してくれている。


 これは仕事だ。

 例え、ミツさんが人を食っていても俺は処分できる。必ず。


 ……だが、そう断言できる俺が、今は少し空しく感じた。



◎◎◎



 最初に桃ジャムを貰って2週間。

 それから、何度か訪問し、他愛のない会話を重ねた。


 特にカミルは、ミツさんから貰うジャムやお菓子に陥落し、すっかり懐いている。

 ミツさんもいつも楽しそうに迎えてくれる。


 ヒソップも表面上親しい様子を見せてくれているが、実際は俺達が来るたびに緊張感や不安に苛まれているのだろうか。

 考えても仕方のないことだ。


「カミル。ちゃんと袋持てよ。雨に濡れるぞ」

「ん!ブルー!」

「ブルーベリーだ」


 今日も、ミツさんから貰った瓶にレディベリーが作ったブルーベリージャムを詰めて、会いに行く。


 未だ、ミツさんがチョーカーだという決定的な情報は掴めていない。

 それでも、このままカミルとの関係が深まれば、たどり着けるだろう。



 今日は雨が降っている。

 傘を差し、ようやくミツさんの家が見えたところで、すぐさま異変に気が付いた。


「ミツ!!!」


 カミルが叫び、傘を放り出して駆け出した。


 家の前に、濡れながら蹲っている女性が居たからだ。


「ミツさん!どうされましたか」


 なるべく冷静に努め、ミツに声をかける。

 濡れた体を覆うよう傘を差した時、気が付いた。


「これは……ッ」


 膝をつきミツの首に、黒く1周したような痣が見えた。

 それは、シンプルな線というよりは、木の枝のように不規則な凹凸がある。


 ……それは、中度チョーカーの証だった。


「う"……い、や……」


 予期せぬ飢餓が始まったのか、喉を苦しそうに抑えている。

 中度であれば、かなりの食人欲が出ているはずだが、首を小さく振り必死に抵抗している。


 体の震えと発汗が酷い。中度ということは身体の強化もされているはずだが、それにしては疲弊しすぎている。


 なんにせよ、本能からくる飢餓を抑えることも、体が濡れていることも、良い要素が一つもない。


「ミツさん、ひとまず家へ入りましょう。冷えてしまう。失礼かとは思いますが、カミル頼む!」

「ん!ミツ、がんば、る!」


 カミルが、ミツさんの背中と膝裏を抱え持ち上げる。


 運悪く今日はヒソップを連れていなかったのか、どれだけ外にいたのか分からない。

 扉を乱暴に開け、声を出す。


「ヒソップ!いないのか!」


 その瞬間、リビングからヒソップが飛んできた。


「なンだラバン!うるサ……ッオい、ミツ!!!」

「ひそっ……ぷ……」

「ああクソ!『あレ』かッ!」


 ヒソップはそう言うと、ミツの額に自身の手を寄せた。そのまま安心させるように言葉を紡ぐ。


「ミツ、よく頑張っタ。すグ、眠ラセてやルぜ。いいナ?」


 それにミツが小さく頷くと、ヒソップの体が、青白く仄かに発光する。

 その光がミツに移ったかと思うと、ミツはがくっと、意識を失った。


「ミツ!ミツ!だい、じょうぶ!?」

「喚くナ。寝タだけダ」

「寝た?どういうことだ」


 確かに、ミツの胸は安定して上下しており、眠っているだけだと分かる。


 ヒソップが強制的に『眠らせた』と?


「後デ話してヤる。先に、ミツを寝室まデ運ベ」

「ん、分かる、した」


 妙に冷静なヒソップに案内されるまま、ミツの寝室だろう部屋へ向かった。



◎◎◎



 ひとまずミツを着替えさせ、体を暖かいタオルで拭き、ベッドへ寝かせた。

 女性であるためなるべく配慮したつもりだが、緊急事態だ。ミツの安全が第一だ。


 ヒソップは、俺達が介抱している間、口うるさく指示を飛ばしてきたが、その実ずっと歯がゆそうにミツのそばをふよふよと飛んでいた。


 今は安定して眠っているミツを見て「しばらク起きネェかラ」と、俺たちはリビングで話すことにした。



「いろいろ聞きたいことはあるが、ひとまず助かった。ありがとうヒソップ」


 いつもの位置に座っているヒソップにお礼を言う。その隣には、持ってきたブルーベリージャムの瓶が置かれている。


 あのまま俺達だけだったら、ミツをもっと長い間、苦しめてしまっていただろう。


「フン。当然ダ。そレにミツが、あンな風になルのは初めてじゃナい。だガ……」

「なんだ」

「今日の、今まデよりも、酷かっタ。マさか、動けナイほどになルなんて」


 ヒソップは考えるように俯いている。

 やはり、以前からチョーカーの症状はあったということか。


 一方で、今日、症状が重くなっていた。これはおそらく、


「チョーク症が、進行したからだ。ミツさんは今、中度チョーカーになっていると考えられる」

「中、ど。ミツ、つらい」

「マテマテ。チョーク症ってなンだ。中度チョーカーってナんだ」


 今日も器用に眉を寄せているヒソップに、簡単にチョーカーについての説明をした。


 カミルが、所々でさも初めて聞いたような反応をしている。やはり飯食いながら話したのは良くなかったか。

 ……それはそれとして、新鮮に驚くコイツにイラっとは来たので、後で叱っておく。


 ある程度話し終えると、ヒソップが顎に手を当て、呟いた。


「つまリ、ミツは前からチョーク症を患っテて、軽度だったノが今、中度まで進行しチマったってことカ」

「ああ、以前なら我慢できた飢餓感も、急に高まってさぞ動揺しただろう。それでも今日は本当によく耐えていた。尊敬に値するよ」


 俺は、考え込んでいる小さい背中を見る。


 彼らと出会って1週間と少し。

 たったそれだけで、ミツとヒソップがどれだけお互いを想っているかか理解できる。


 中度チョーカーであれど、ミツは人を襲っていない。保護対象だ。

 ならば、二人にとってそう悪い未来にはならないはず。


 ……それに少し安堵している俺は、チョーカーに情を持ちすぎているのかもしれない。



「ミツは、保護さレるのカ」


 情報をようやく呑み込めたのだろう、ヒソップは真剣な様子で聞く。


「彼女が望めばな」

「ミツが嫌ダと言ったラ?」


 カミルが、ハッ、と俺を見た。

 俺は、それに目を逸らすようにヒソップを見て、なるべく平坦な声を出した。


「処分対象になる」


 瞬間、ヒソップの体から、ぶわっと黒いもやが発現した。

 それは先ほどの青白い光とは似ても似つかず、どんよりとした重苦しいものだった。


 さらに、ぬいぐるみの輪郭がぼやけ、もやがまるで人の顔を形作るように集まった。

 どんな顔かは暗くて分からないが、恐らく目の部分だろうところが、怪し気な紫に光っている。


「…………殺すノか……オマエが」


 もはや天使の面影など欠片もないが、声は聞き馴染んだヒソップのものだった。


 得体の知れなさに恐ろしいと感じるが、だが、それに怯え話を誤魔化すことはできない。


「……すまない。怒らせたことは謝る。だが、謝ることしかできない。判断は変えられない」


 これには流石のカミルもヒソップの異変に気付いている。


「ヒソップ。怒る、してる?ごめん。でもラバン、悪い、人、ちがう。だから」


 それらを聞いたヒソップは、少しの間、ゆらゆらともやを揺らめかせた。


 ヒソップは、言動こそ自由に振る舞うことが多いが、自分勝手ではない。

 今おそらく、理不尽な出来事への怒りを感じながらも、ミツや俺達のために、冷静になろうと努めてくれている。


 俺達は、それ以上何も言わずに待った。


 ヒソップが口を開けたのは、時計の秒針が1周半ほどした頃だった。


「……オマエらが悪イ奴じゃなイのは、分かってル」


 そう言い、俺が一つ瞬きをする間にもやは消え、いつものヒソップに戻っていた。

 ヒソップは話を続ける。


「だガもし、どンな理由であレ、ミツを傷ツけたラ、俺ッチはオマエらを許さナイ。そレだけサ」

「ああ、今はそれでいいよ」

「ん、ん!」


 ヒソップは「フンっ」と横を向いて返事をした。


 先ほどの重い空気は瞬く間に分散し、人知れず息を吐いた。

 そのついでに、気になったことを聞いておく。


「そんで、お前は一体なんなんだ。ミツさんは妖精だと言っていたが、本当にそれだけか」


 こちらはチョーカーのことを話した。今度は、彼の話を聞く番だろう。

 ヒソップは逡巡した後、もごもごと声をこぼした。


「……落チこぼレの、グリムリーパーサ」

「ぐりむ、り、ぱー?」

「死神トも、言わレるゼ」


 俺は目を見開いた。

 まさか、そんな誰もが知ってる大物だったとは思わないだろう。


「神、さま?」

「俺ッチはそンな大層ナもんじゃナイ。言ったロ、落ちコぼれっテ」


 ぬいぐるみの姿で自嘲的に笑っている。全く器用なことだ。

 彼はなおも語る。


「俺ッチ、グリムリーパーの仕事ガ面倒デ、よくサボってタ」

「ヒソップ、仕事?」

「死者ノ魂を回収すルのサ。ちゃんト、還レるようニ」


 昔聞いたおとぎ話その物だ。

 あれもどこかのグリムリーパーをモチーフに描かれているのかもしれない。


「だけドある日、サボりすぎテとうとう力が出セなくナちまっテ。ホントの体の形モ、保てなクなるほどナ」

「本当の体ってなんだ」

「今の俺ッチは、ミツが作った人形に乗り移っテるだけナんダ。ここから出レば、カミルくらイの背はあるゼ」


 天使の手をふりふりと動かして言う。パッチワークのような服は、なるほど、ミツさんらしい丁寧さで縫われている。


「消えかけル直前、出会っタのがミツだった。『一つ願いヲ叶えテやるかラ、憑依でキるモノを寄越セ』って言ったラ、ミツ、すぐにこの体を持ってキた。裁縫が趣味だっテ言ってサ」

「ねがい、叶う、する?すごい!」


 カミルの無垢な問いに、ヒソップは呆れながら言う。


「ウソだヨ、全ク。グリムリーパーにそンな力はねぇヨ……オマエもミツもそう簡単に信じルなよナ」

「ラバン、ウソ、された!」

「はいはい。そうだな」


 ヒソップは、クク、と笑った。


「そっカラ、叶いもしナイ願いを言ウこともナく、俺ッチも時々仕事をシナがらざっと5年くらイ」

「5年、か長いな」

「そウか?マ、ミツはその時カラ、体が弱かったようダったナ」

「ミツ、体、よわい?」


 ミツの体が弱い。初耳の情報だった。

 だが、これで、今日感じた違和感の正体が分かった。


「……なるほどな、それで中度の飢餓に体が耐えられていなかったのか」


 ミツが倒れているのを見て、少し不思議だった。

 本来身体が強化されいるチョーカーが、突然とはいえ飢餓にあれほどまで体が疲弊していた理由。


 そもそも身体の変化に適応できていなかったからだったのか。


「ミツさんの体調はどれほど良くない。普段の生活の様子は」

「……正直、今ハかなりギリギリダ。普段も、散歩くらいノ軽イ運動しかしナい。20数年クらい前、無理して働いテ、体を壊シたと言っていタ」


 体を痛めるほど、合わない労働環境だったのか。

 だが、それでも今日まで自分の足で歩いてきたのだから、その努力は計り知れないものなのだろう。


「……ミツ、元気いっぱい、なる?」


 カミルのその問いには、俺は当然ながら、ヒソップも上手く答えられないようだった。


 創造できるところで言えば、ミツさんをこのまま組織で保護し、抑制剤を飲んだ上で、運が良ければ現状維持、といった具合か。


 抑制剤も万能じゃない。

 チョーク症をただ遅らせるだけのもの。

 何も楽観的なことは言えなかった。


 ヒソップが徐に立ち上がってドアの方を向いた。


「今日ハ、もう帰レ。お互い話スことは話しただロ。ミツも今日は眠らせてオく」

「……そうだな」


 俺も異論なく、俺達は静かに玄関へ向かった。

 挨拶もそこそこに、扉を開ける直前、カミルがヒソップの方へ振り返る。


「ヒソップ。一人、ご飯、だいじょ、ぶ?」


 ヒソップはそれに、少し目を見開いた後、カミルを真正面から見つけた。


「バカ言うナ。俺ッチは、ミツと会うまでずっと一人だっタのサ。今更ヨ」

「それもそうか。ああ、腹が減ったらブルーベリージャムを食べると良い。ウチのは美味いぞ」

「ん!おいしー!」


 俺も言葉を返しつつ「早ク行け」と言うようにシッシッと手を振るヒソップに促されるまま、扉を開ける。


外は未だ雨が降り止まず、傘に当たる雨音が大きく聞こえた。



◎◎◎



 翌日の昼すぎ、俺達は散々通ってもう覚えてしまった道を歩いていた。雨上がりの澄んだ空気が、肺を洗うようだ。


 カミルの手には、袋に入った自家製のオレンジジュースが握られている。

 いつもジャムを入れている瓶はミツの家にあるため、レディベリーが、「それなら」と持たせてくれた。


 これなら体調が優れなくとも飲めるだろうか。

 カミルも朝からなんとなく元気がないように見える。朝食はまぁ、いつも通り食べていたが。



 早々にミツさんの家へたどり着く。リビングだろう場所の電気は付いていなかった。


 コンコンコンと、ドアノッカーを鳴らす。

 しかし、1分ほど待てど音沙汰がない。聞こえなかっただろうか。

 それとも、出られないのか。


 もう一度慣らすと同時に声を張り上げた。ついでに、俺達が来たことが分かるように。


「ヒソップ!ラバンだ!いないのか!」

「ミーツー!!!」


 つられてカミルを声を出す。

 すると、数舜の内、ドアが開いた。


「うるセぇヨ!」


 良かった。さすがに聞こえたみたいだ。


「こんにちはヒソップ。何で最初出なかった。ミツさんはまだ寝ているのか」

「起きテルけど!まダいつモみたくは、歩けネェんだヨ!俺ッチが出テ、知ラねぇ奴だったラって、警戒してタんだヨ!」


 昨日と異なり、張り切った声を出すヒソップにひとます安心する。

 この様子なら、ミツさんも昨日よりは回復しただろうか。


「ミツさんと話せるか。大事な話だ」

「アぁ、入れヨ」

「あと、オレンジ、ジュース!」

「ハイハイ、ありガとヨ」


 俺達が何をしたいのか分かっているように、ヒソップは落ち着いて家の中へ迎え入れてくれた。


 寝室へ行く途中、キッチンへ寄り、コップを人数分持たされる。

 散々ジャムを持ってきたからか、今更ジュース一つに警戒心はない。それよか、「ミツが喜ぶナ」と言うほどだ。



 寝室の扉を開けると、ベッドヘッドに背中を預けたミツがいた。

 その傍には窓があり、開けているためか涼しい風が部屋を吹き抜けている。


「まぁ!こんにちは。ラバンさん、カミルちゃん」

「こんにちは。お加減いかがですか」

「ミツ!元気、なる、した?」


 ミツは俺達を見て、今まで見てきたのと同じ、穏やかな笑みを返した。


「おかげさまで!ありがとうねぇ二人とも」

「オいミツ、今日はジュースだってヨ」

「あら、嬉しい!とってもおいしいのでしょうね。ああそう、ブルーベリージャムもありがとう。今朝頂いたのよ」


 ふふふ、と昨日のことがなかったかのように上品に笑うミツ。

 表面上いつも通りに見えるが、規則正しい彼女が未だベッドの上ということは、まだ体は本調子ではないのだろう。


 それでも今日、話したいことがある。中度になった今、次にいつ飢餓が来るか分からないからだ。


 それに、次の飢餓に耐えられるかもまた、分からない。


「ミツさん。貴女にとって大事な話があります。聞いていただけますか」


 カミルとヒソップが入れてくれたジュースをゆっくりと飲むミツに話しかける。


「ええ、もちろん。どうぞ、お座りになって?」


 ベッドの傍には、俺達が来ることを知っていたように、椅子が2脚用意されていた。

 言われるままにそこへ腰を下ろし、俺は話し始める。


 チョーカーのことや組織のこと、ヒソップにも話した内容を一通り。


 ミツの体のことも包み隠さず伝えた。勝手な憶測だが、彼女はそれを隠されたくないのではないかと思ったからだ。


 ミツは話に口を挟むことなく、時折緩く頷くだけであり、ヒソップもまた、黙って聞いていた。


 全てを話し終えると、彼女は小さく笑った。


「ふふ、まるで、小説の中のお話みたいね」

「笑いゴトじゃなイ!オマエのコトだぞ!」

「そうね。私の事よねぇ」


 くすくすと笑う彼女にヒソップが、いつもの調子で答えた。

 俺達には分かる。これは物を楽観的に見ているわけでも、受け入れられないと逃避しているわけでもない。


 逆だ。ただ、静かに受け入れている。


「ラバンさん、話してくれてありがとう。昨日は、さぞびっくりしたでしょう。ごめんなさいね」


 その言葉に、息が詰まる。

 俺は、貴女に打算的な思いで近づいたのに、なおも気遣うのか。


「……貴女の方がよほどお辛いでしょう。俺はなんともありませんよ」

「オレは、びっくり、した!でも、ミツ、あやまる、違う!」

「そう、二人はいつも優しいわねぇ」


 無意識に唇を噛む。

 カミルはそんな俺を不思議そうに見ていた。


 ……いや、いつまでも呆けているわけにはいかない。まだ、聞かなければならないことがある。言いたいことがある。


「ミツさん」

「なぁに?」

「俺達に、貴女を保護させてください」


 いつも笑って俺達を迎えてくれる貴女なら。カミルのたどたどしい話を、嬉しそうに聞いてくれる貴女なら。


 俺のこの願いに、頷いてくれると思っていた。

 だが、



「ごめんなさいラバンさん。お断りさせていただけるかしら」

「…………え?」



 発言をしたミツさんを除く、この場にいる全員の時が止まったように感じた。


 ミツは、風に髪を遊ばせながら、しかし目を逸らすことなく俺を見つめている。



 最初に、息を吹き返したのはカミルだった。


「なんで!ミツ!なんでッ!!」


 叫ぶように言うカミルの声を聞いて、俺やヒソップも時を取り戻す。


「ミツ、どうイウことダ!保護サれれバ、良くなルかもしれナいんだゾ!!」

「……ッミツさん。分かっているはずだ。その選択は……」


 俺達の訴えに、それぞれ目を見て聞いている。

 ちゃんと俺達の声は届いている。だからこそ、彼女の意思が嫌でも伝わってきた。


 ミツが手元のジュースを一口飲み、話し始める。


「私ね。今日起きた時、すぐ気が付いたわ。もう、私の体は長くない」

「そレは、症状ヲ遅らせレばまダ……」


 ヒソップのそれには言葉を返さず、代わりに一つその頭を撫でた。


「それで、美味しそうなブルーベリージャムをパンに塗りながら考えたの。もし私の事で、ラバンさんやカミルちゃんに手間を掛けるようなことがあったら、『いやよ』ってちゃんと言おうってね」


 手が勝手に震えた。

 俺達に手間がかかるから。だから、保護を断ると……


「ッ手間じゃない。ミツさん。俺達は仕事で来ている。手間なんかじゃない。して当然のことなんだ」


 俺は必死で言う。

 カミルは小さく「ミツ」と声をこぼしている。

 話は止まない。

 

「それとね、今、ラバンさんの話を聞きながら思ったわ。体が耐えられないことはいいの。でも、飢餓で先に、理性が耐えられなくなるかもってことが、心底恐ろしいわ」


 窓から、部屋の空気を換えるように、清い風が俺達の間を通っていく。


「傷つけたくないの、誰も。傷つける私を見てほしくないの。大好きな、あなた達には」


 どこかから息を呑む音が聞こえた。

 その後、ミツのそばにいたヒソップが吠えた。


「ふザけるナ!!いいだロ他の人間なンて!オマエが生きテれバ、なンでも!許スかラ、俺ッチが!」


 ヒソップがミツの顔の前を、羽を必死に動かして飛んでいる。

 ミツはその頬を一度ふわりと触り、手を下ろした。


「悲しませてごめんなさいヒソップ。でも、こんな私のわがままを、聞いてくれないかしら。ね、『お願い』よ」

「オ、ネガイ……?」

「あの時、あなたと初めて会った日。言っていたでしょう?なんでも一つ願いを叶えるって。私、ここぞって時に言いたくって、ふふ、ずっと我慢してきたのよ?」


 ヒソップはそれに、ぱたりと羽を止め、ふらふらとミツの足の上に落ちた。

 顔は未だ、唖然としたようにミツの方を向いている。そのまま、掠れたような声を出す。


「チ、ちガウ……チガうんダミツ。俺ッチはそんなンじゃなイ。そンな、こと、できないンだ。だっテ俺ッチ、天使でも妖精でもナい!騙してたんダずっと……!!俺ッチは……自分ノ仕事も、ロクに出来ナい、嘘ツきのグリムリーパーなンだ!!!」


 喉から絞り出したような声だった。

 あまりにも生々しく苦しい声。


 ……ミツは、息を切らし俯いたヒソップの頭をゆっくり撫でる。それこそ、すべてを許すように。


「ヒソップ。優しいグリムリーパーさん。泣かないで頂戴……?確かに私、てっきりあなたのこと、知ったふりをしていたみたい。気が付かなくてごめんなさいね」

「泣いて、ナイ。謝るナ」

「ええそうね」


 泣き虫な友達を慰めるような、それとも意地っ張りな子を宥める母のような。どちらともとれる声と表情でミツは話す。


「でも、私、嬉しいわ。だって、グリムリーパーのあなたにしか叶えられない、とっても大事なお願い事ができたもの」


 嬉しそうなミツに、ヒソップが上を向いた。涙の流れないはずのその瞳は、歪に揺れていた。


「あなたなら、きっと私を優しく眠らせてくれるでしょう?」


 ヒソップの瞳がさらに大きく歪んだ。その言葉が、何を意味するのか瞬時に理解できたからだ。


「私、出来ることなら……綺麗なまま、綺麗な場所で、眠りたいわ」


 何度も何度も、ヒソップの頭を撫でるミツの手。


 ヒソップは、その小さな柔らかい手をミツの手へ重ね、さらにその手にぐりぐりと頭を摺り寄せた。


 しばらく、お互い撫でて寄ってを繰り返す。

 途中から、くすぐったくなってきたのか、二人から小さく笑いが漏れ始めた頃ヒソップがゆっくり顔を上げた。

 決意の固まった顔だった。


「…………俺ッチは。俺ッチはグリムリーパー。魂ヲ回収すルのが仕事ダ。そのチカラ使っテ、同意があレば人ヲ眠らセることモできル……オマエが願うナら……願うなラ…………」


 ミツは、目じりにしわを寄せて聞いている。



「ミツ。オマエを、絶対苦しマせずニ、眠らセてやル」



 彼女の瞳から、一筋涙がこぼれた。


「…………ありがとう。ヒソップ」


 傾いてきた太陽から降る光が、窓を通り、二人をやわらかく包んだ。



◎◎◎



「暖かい、気持ちの良い日ね!」

「そーだナァ」


 話し合いの後、全員で外へ出た。

 ミツが、「湖の公園で眠りたいわ!」と言ったためだ。


 歩けるのか心配だったが、そこまでならなんとか頑張れるとのことで、一応悪路では背を支えながら歩いていく。


 道中、あのジャムが美味しかっただの、紅茶に合うお菓子があってだの、いつものような他愛のない話ばかりしていた。


 それは誰も、無理してそう振る舞っているわけでなく、ただ自然とそんな話題ばかりが頭に浮かんだ。



 公園に着くと、初めてミツさんと会った湖の見えるベンチへ向かった。

 その隣に悠然と立っている緑と薄桃色の木も、心地よさそうにさらさらと揺れていた。


「ミツ、なんで、ここ?」


 カミルが、ベンチに座るミツに問う。

 ミツは、大きな木を見上げ、どこか懐かしむように言った。


「この木がね。葉桜みたいでしょう」

「はざくら?」

「ふふ、私好きなのよ。彼と昔、ちょっと遅れてお花見をしたときに見てね。それがとても気に入ったの」


 遠い記憶を思い出しているのか、ミツは空を向いている。

 ほほ笑むその横顔はまるで年若い乙女のようで、なんとなくどんな関係性の人を見ているのか分かった。


「彼の最期の言葉に従って、今まで生きてきたけれど……随分と待たせてしまったかしらね」


 ぽつり、とミツが言った。

 『彼』とはいったい誰だろうか。


 思えば、俺達はミツの過去について何も知らない。ミツくらいの歳の女性から、家族の話一つ出てこないのは少し不自然だろうに。


 だが、今更それに気づいても、ぐいぐいと聞く気にはなれなかった。話さないと言うことは何か理由があるはずだ。


 俺の好奇心を満たすだけの行為を、今はするべきではなかった。



 ふわふわとそこらを飛んでいたヒソップが、ミツの膝へ座る。


「もうスぐ日が暮レるゾ」

「あら、そろそろかしらねぇ」

「……ホントに、いいンだナ」


 ヒソップが、真意を逃さないというように、ミツの顔を覗き込む。

 ミツはそれに安心させるよう、にこやかに答えた。


「ええもちろん……もう十分生きたわ。生ききったのよ」

「そうカ。そうだナ」


 二人の間に流れる空気は、雪解けが過ぎた頃の心地よい陽気のようだ。


 ヒソップの体から、青白い光が見える。


「ふふふ、こんなに穏やかに眠れるなんて、私は果報者ねぇ。それに私、あっちで彼にたくさん話したいことがあるの。あなたのおかげよ、ヒソップ」

「当然サ。俺ッチのおかげと、オマエの力ダ。誇っテ眠るト良いサ」


 薄く発光する天使のぬいぐるみの姿が揺らぎ、その背から黒いローブを来た男の姿が現れる。

 その顔はフードに隠れてよく見えないが、目のあたりがぼんやりと光っていた。


 それは昨日、ヒソップを怒らせたときに見えたものよりも、はっきりと輪郭を持つ。

 段々と大きくなり、ついにぬいぐるみと完全に分離し、ベンチの前へ立った。背は、カミルと同じくらいだ。


 あれが、ヒソップの本来の姿なのだろう。只人にも見えるよう、顕現していた。


「まぁまぁ!その姿。初めて会ったとき振りかしら。結構男前よねぇ」

「ハハ、茶化すンじゃネーよ」

「あの時は、本当に心配したわ。元気になってよかった」

「ホントに消えチまいソうだっタからナ。助かっタぜミツ」


 ミツからは、ヒソップの顔が見えているのかもしてない。ミツは旧知の友人に会ったかのような表情を浮かべている。


「ありガとウ。オマエと出会エて良かっタ」

「もちろん、私もよ」


 男の姿のヒソップが、ゆっくりとミツの頬へ手を伸ばした。


「……おやスみ、ミツ」

「おやすみなさい、ヒソップ」


 手が頬へたどり着く。

 青白い光がミツへ移っていくその瞬間、俺の脳裏に、とある記憶が静かに流れ込んできた。



◎◎◎



 夜、激しい雨音が聞こえる。

 それと同時に、ばしゃばしゃと地面を蹴る音が『二つ分』。


 前を走る若い男が、しわの無い俺の手……いや、『私』の手を引いて、息を切らしながら走っている。


「ミツ!走れ!今はそれだけを考えるんだ」

「分か、ってるわ!なるべく遠く……見つからないように」


 あの忌々しい屋敷から二人で逃げるのだ。

 使用人として働いてきた私たちを何年も虐げてきた、あの人たちから、一刻も早く。



 私たちは、あの屋敷で出会った。

 屋敷に来る前の記憶は、お互い曖昧で、しかし歳近い彼になぜか安心感を抱いた。


 私たちはどこからか買われたらしい。使用人というのは名ばかりで、実際は奴隷のような扱いだった。


 私は、過酷な労働に日々心身を擦れ減らしていた。彼が居なければ、もっと早くに壊れていただろう。


「ミツ、今は耐えるんだ。いつか、いつか自由になれる日が来るよ」

「ありがとう。そうねぇ。きっと、二人でここを出ましょう」


 寒い夜は、寄り添い手を握り合って眠った。傷が痛み、眠れない日は、眠れるまでお喋りをした。


 いつも一緒に居られたわけじゃないけれど、それでも、孤独を感じたことはなかった。



 この屋敷へきて4年。その日は突然にやって来た。


 世間で、感染症が未曾有の流行を見せているという。

 どこもかしこも大混乱だった。


 例にもれず、この屋敷も人の出入りが多かったため、感染症に罹る者、それに怯える者、半狂乱になる者。そんな有様だった。


 そのために、使用人もどきの若い男女が二人、逃げ出したところで気づく者はいなかった。



 ただひたすら走った。肺に上手く酸素が入らなくて呼吸の度に心臓が軋む。

 それでも、まだ誰かが追いかけてくるんじゃないかと怖くて、足を止められなかった。


 随分と走って、もうすぐ街を出られるというところで、私たちはようやく足を緩めた。


 私の体力はもう限界だった。

 彼もそれが分かっているのだろう。手を引かれるまま、入り組んだ路地に入った。


「ここまで来れば、もう大丈夫だろう。よく頑張ったねミツ」

「……ええ。こんなに走ったのは、人生でもきっと初めてよ」

「僕もさ」


 傍から見れば、見るも無残な濡れ鼠となっているだろう。

 でもそんなことはどうでもよかった。


 自由になったのだ。

 もういつ終わるか分からない過酷な労働に疲弊することも、理不尽に怒鳴られることも無い。


 二人で、どこか日の暖かい美しい場所で暮らそう。

 いつか願ったそれが、現実になる。


「は、ははは!ああ、良かったぁ」

「ふふ!ええ、そうねぇ」


 くすくすとどちらからともなく笑いだした。今までのような諦めた笑いとは違う、体の隅々がじーんと、満たされるような笑みだった。



 ———でも神様は、私たちにまだ試練を与えるようだった。



 大通りから、ぴちゃぴちゃと雨を踏む足音が聞こえた。


 私たちは、それにぴたっと声を止め、息を潜めた。


 追手が来たのか。いや、この距離でそんなはずは。


 彼の手をぎゅう、と握り音の方向を見る。

 真っ暗な曲がり角から現れたのは、ひょろりとした小柄な男だった。


 傘もささず、よろよろと歩いてくる。それはまるで、幽鬼のようで不気味だった。


 それは、私たちの十数歩手前で止まった。

 ……そこでようやく、月明かりが男に当たる。右手に、きらきらと鋭利に光るナイフが見えた。


 男は、ぶつぶつと何かを呟いている。


「……ミツ、ここから離れよう。あの男どこかおかしい」


 彼が小声で言った。私はそれに頷き、じり、と後ろへ下がる。


 しかしその瞬間、男が狂ったように叫びながら、こちらへ駆けだした。



「———ミツッ!」



 どん、という肩に伝わる衝撃に、私は倒れた。


 彼が、私を押したのだ。

 そのすぐ後、彼の痛々しい声が頭上から聞こえた。



「ぐ、が、あああああッ!」



 その光景に、頭が理解を拒否していた。


 ……私がいたところには、彼がいて、さらに彼とくっつくほどの距離に男がいた。

 彼が踏む地面には、足を伝い雨と共にどんどんと溜まっていく黒い液体があった。


 彼と男が離れる。彼はそのままべしゃりと崩れ落ちた。


 男が話している。


「はは、救えた!俺が救ってやったァア!ナァ、もう、終わりなんだよこの国は……みんな病気で死ぬんだァ。だから!長く苦しまないように、俺がァ!!アハハ、みんなを救ってやるんだアァ、ァハハアア!!」


 何を言っているか一つも分からなかった。

 ただ、彼が刺されたことだけが、私の目に見えた。


 この血の量は、助かるのか。嫌だ。どこか病院へ。早く町の外へ出よう。そもそも彼は治療を受けられるの。二人でどこに住もうかしら。どうして寝ているの。


「あ、あああ、うっ、お、え……ごほッ、あ、はぁ、あああああ」


 耳鳴りが広い。視野がぼやける。


「アア、助けなきゃア。みんなを、俺が助けるんだッ!!」


 男はぶつぶつと何かを吐き、不規則な足音を立ててここから遠ざかって行った。


 でも、そんなこと、どうでもよかった。



「————ミツ」



 耳鳴りが止まった。

 そこで私はようやく彼に這い寄った。


「ねぇ、どうしたの?疲れちゃった?起きて……ねぇ、どうして……血が、止まらないの……ッ!」


 雨に濡れ、さらに土で汚れた彼の頬に手を当てる。それは、氷のように冷たく感じた。


 嫌でも理解した。もう、彼のあたたかな灯は消えるのだと……


「……ミツ、落ち、着いて?それで、僕の話を、聞いて、くれるか、い?」


 いつもの優しい声、でもそれは雨音にも負けてしまいそうなほどか細い。

 私はそれを一言も聞き逃さないよう、彼の肩を抱きかかえる。


「…………ええ、な、ぁに?」


 喉がつっかえてうまく言葉が出ない。彼は、ほんの少しばかり口角をあげた。


「無事、な、んだね?」

「ええ……あなたが、守ってくれた、からよ?ありがとう」

「そ、か。よかっ、た」


 彼は目いっぱい目じりを下げている。私は、何ともないと伝えるために何度も優しく彼の頭を撫でた。


 呼吸音が徐々に小さくなる。


「ミ、ツ」

「どうした、の?」

「泣いて、くれて、ありがと、う」


 彼は、必死に腕を持ち上げ、私の頬へ伸ばした。


「……いつもみたく、拭って、くれる?」


 そして、ようやくたどり着いた手は、瞼の下をさするように指を動かした。


「おねが、いミツ」


 震える彼が必死に私を見ている。その瞳に、月光が反射する。


 それはこの世の何よりも美しく輝いていた。



「ああ、どうか、できるだけ———」


 彼が、最後の力を振り絞って声を出す。


「———長く、ずっと幸せ、に」

「…………ええ、ええ必ず!向こうで、お茶でも飲みながら、ゆっくり待っていて頂戴?」


 その答えに満足したのか、笑うような息の抜ける音を最期に、彼は目を閉じた。


 路地裏に、ただ彼女の泣き声が響く。

 けれどそれは次第に、雨音にかき消されていった。



◎◎◎



 視界が白く塗りつぶされる。

 先ほどまでミツの記憶を見ていたはずだが、まだあの湖は見えない。


 ここはどこだろうか。まだ記憶の映像は続くのか。


 どこか白い空間を揺蕩っているような心地だったところに、唐突に地面が現れた。



 そこは、知らない景色だった。

 ミツが葉桜のようだと言った木がいくつも、道の端に植えられている。

 風が吹くたびにひらひらと舞う桃色の花弁に目を奪われていると、後ろから見知った男女の声が聞こえた。


「ミツ!」

「……まぁ、あなた!」


 それは、俺の知っている姿のミツと、記憶で見た若い彼だった。


 ミツは彼に駆け寄り勢いよく抱き着いた。彼はそれを余裕そうに受け止めている。


「よく生きたねミツ。ずっと見ていたよ」

「ええ、それはもうとっても素敵で、幸せな日々だったわ」


 その邂逅は、本来あり得ないはずで。しかし、これ以上ないほど幸福な光景だった。


 二人はしばらくしてゆっくりと体を離し、手を握る。そして一歩、また一歩と道の奥へと歩いていく。


 その先は、まばゆく光っていて、俺にはよく見えなかった。



 完全に二人が光に飲まれる直前、ミツがこちらへ振り返る。


「……ありがとう。どうか、元気でね」


 ミツは幸せそうに頬を緩ませる。それは少女のように、軽やかな笑みだった。


 全てが光に包まれ、俺は眩しさに目を閉じた。



◎◎◎



 夢を見たかのような心地から一転。急に体が重く感じ、目を開ける。


 すると、記憶を見る前の景色に戻っていた。


 ベンチの前にはヒソップが立っている。

 そこに座っていたはずのミツはもうおらず、ミツを包んでいたのだろう青白い光の粒子が、ゆっくりと空へ登っていくばかりだった。


「今のは……」


 隣を見れば、カミルも呆けたようにベンチを見つめていた。

 コイツも同じ映像を見たのか。


 人型のままのヒソップがこちらを見て言った。


「ミツの記憶サ。俺ッチ達グリムリーパーは魂を回収すル時に、こうやって記憶を見るのサ。オマエらで言う、走馬灯ってヤツだナ」

「あれが、走馬灯」

「ミツ、悲しい、する。でも、その後、笑う、する!」

「……最後に見たミツと『彼』が会っている映像は、記憶じゃないだろう。あれは?」


 ヒソップはミツが座っていた隣に腰掛ける。ヒソップが憑依していた天使のぬいぐるみは、未だミツがいたところに行儀よく座っていた。


「タまに、記憶の後に、対象の強イ想いが見えルことがアる。あレはきっと、ミツの望み、ネガイさ」

「あれ、は、ミツも、見る、した?」

「したダろうナ。最後に見たノと同じ表情ヲ、ミツは一瞬しテたかラ」

「そうか……それは、良かった」


 カミルはそれを聞いて、にこっと喜んでいる。

 ヒソップは、隣のぬいぐるみをおもむろに掴んだ。


「さテ、俺ッチも決めないトな」

「決める?ああ、そういえば、お前これからどうするんだ。ミツさんの家に帰るのか」


 そう俺が聞くと、ヒソップは「いヤ」と言い、手元のぬいぐるみを見つめた。


 すると、また青白い光が瞬き、みるみるヒソップのローブ姿がぬいぐるみへ向かって吸い込まれていった。


 そのまま完全に取り込まれた後、天使のぬいぐるみが、見慣れた動きをした。


「よシ、入れたナ」

「なんだ、今ので憑依が必要なほど力を使い果たしたのか?」

「また、天使、なる?」


 ヒソップはパタパタと飛び、俺達の眼前へやってきた。


「イや、これくラいじゃそう消耗しネェよ。ただ、もう『こっち』ニ慣れちマったもんでナ」

「そっち、の、ヒソップ、好き!」

「ありがトよ。そレに、形見だしナ。捨てルわけにモいかンだロ」


 この数年で、すっかりその姿が馴染んだのか。まぁ、その姿でも動ける食べれるの優れものだ。あまり不自由もないのだろう。


「そんで?どうするんだ」


 紫の瞳を見ながら言うと、それがきらりと輝いた。


「俺ッチ、オマエらに着いてクことにすルぜ」


 思わず口が開いた。

 カミルも「え!」と驚いている。


「は、着いてくるって、家にか?いや……まぁ……今更居候が増えたところで」

「勘違いすンな。オマエらの仕事ヲ手伝ってやルってんダ」

「ヒソップ!来る、する!?一緒、嬉しい!」

「……ちょ、っと待てヒソップ。それ、お前に何の利がある」


 興味本位で来られても、危険に晒されるだけだ。ただでさえ、グリムリーパーという規格外の生き物なのだから。


「簡単ナ理由さ。楽シて俺ッチも仕事が出来ル。そのオマエらの言う、チョーカーってヤツら。困ったラ、俺ッチが眠らセてやれるゼ」

「…………!」


 虚を突かれたような気分だ。

 確かに、戦闘能力の低い俺にとっては、良い力だ。交渉材料としても使えるだろう。チョーカーの記憶が見られる点でも、何か情報を掴めるかもしれない。


 ……ああ、いや。そんな理屈よりも。

 処分対象やミツのようなチョーカーを痛みなく眠らせられる。

 それはこの厳しい世界で仄かに輝く光のように見えた。


 全く、自分がそう感じることに驚きつつ、自然と言葉が出ていた。


「———ヒソップ、俺達と来てほしい」


 浮かぶ天使に向かって、手を出した。天使は迷うことなく、それに柔らかい手を重ねた。


「ヒソップ!来る、楽しい!レディベリーも、言う!」

「レディベリー、アぁ、ジャム作る妖精カ」

「レディ、嬉しい!絶対!」

「そうカよ」


 ヒソップが、はしゃぐカミルの頭の上に乗る。カミルもそれを自然と受け入れている。



 思わず、家にまた騒がしい住人が増えたようだ。だが、どうにも悪い気はしなかった。


「ああ……今日の夕飯どうしような」


 夕暮れの湖のそばで、『葉桜』が優しく笑うように揺れた。



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