灰と栄光の果てに

@tsukiharayu

第1話 眠れる獅子、目覚める

辺境のリーヴェンは、今日も穏やかな一日を迎えていた。

 麦畑には柔らかな陽光が降り注ぎ、子どもたちの笑い声が草原を駆け抜ける。

 村の外れ、木造の小屋にひとりの男が住んでいた。


 その名は――カイ・レオンハルト。


 年は三十を少し越えたころ。日焼けした肌に粗末なシャツとズボン、腰には鋤(すき)ではなく、何の変哲もない手斧が下がっている。

 かつてその名は、王国最強と謳われた騎士団白銀の誓約の筆頭騎士として知られていた。だが今、その面影を知る者はこの村にはいない。


 誰に対しても無愛想、村の集会にも顔を出さず、必要最低限の関わりだけで暮らす。村人たちは彼をこう呼ぶ。

「ただの偏屈な元兵士のおじさん」


 ――そんな平穏な日々が、ある日突然、終わりを告げた。


 その日は、朝から空が妙に重かった。風もなく、森の動物たちの声すら消えていた。


 その不穏を切り裂くように、村の中心から響いた絶叫。


 「魔物だあああああああ!!」


 カイは、干していた洗濯物を取り込む手を止めた。


 「……魔物、だと?」


 次の瞬間には、村の方角から黒煙が立ち上っていた。


 村の広場には、見たこともない異形の魔物がいた。

 頭部に甲殻を持ち、四足で歩くその姿はまるで鎧をまとった獣。牙は剣のように鋭く、唾液の代わりに紫色の瘴気を垂らしている。


 「ヒィィィィィ!!やめてぇぇぇ!!」


 その眼前には、一人の少女。まだ七歳ほどの小さな子が、転んで泣きながら後ずさっていた。


 魔物が爪を振り上げる――。


 その瞬間。


 「離れろ!!」


 重く、鋭い声が空気を裂いた。


 直後、銀光が疾風のように魔物の腕を切り飛ばす。


 少女の前に立っていたのは、農夫でも村の自警団でもない。


 ――カイ・レオンハルトだった。


 「お、おじさん……?」


 誰もが驚愕した。誰よりも、彼自身が。


 いつの間にか、納屋にしまいこんでいた黒鉄の剣を右手に握りしめ、脚は迷いなく地を蹴っていた。


 「……この感覚、久しぶりだな」


 握る剣の重さ。敵の気配。守るべき者の声。


 眠っていた"何か"が目を覚ます音が、胸の奥で鳴っていた。


 魔物は再び咆哮し、血のような瘴気を撒き散らして突進してくる。


 カイは、静かに目を閉じて深く息を吐く。


 「……俺は、もう騎士ではない。だけど……」


 少女を背に、剣を構える。あの日、守れなかった者の顔が脳裏をよぎる。


 「今度こそ、守るために……剣を振るう」


 風が吹いた。

 剣が閃いた。

 そして次の瞬間、魔物の首は空を舞っていた。


村に、沈黙が訪れる。


 誰もが呆然と立ち尽くす中、カイは少女に手を差し出した。


 「……立てるか?」


 少女は涙を拭いながら、こくんと頷いた。


 その日、辺境のリーヴェンに、かつての英雄が再び剣を握ったという噂が静かに広がり始めた――。

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